世界ジュニア 男子ショートプログラム
世界ジュニア選手権が開催される韓国・江陵の会場。
日本と時差が無いので、時差で苦しむことは少なくとも日本から来た柚樹にはない。
現在メインのスケートリンクでは男子ショートプログラム第3グループの選手が滑走中。
会場のあちらこちらにウォームアップをしている選手がおり、あらゆる場所にカメラがあった。
柚樹は競技用に用意されたジャージを着て通路を往復するように走っている。
途中、五十嵐誠也とすれ違った。
今日は会場に来てから一度も会話をしていない。
別に仲が悪いわけではなく、単にお互い自分のことに集中しているだけ。
リンクの方から歓声が聞こえてくるが、柚樹は特に気にもしないでウォームアップを続行した。
この大抵の選手が聞くと激しくプレッシャーになってしまうと言われる歓声を聞いても動揺が少ないのは柚樹の強みだ。
陸上でジャンプの練習をしたり、ストレッチをしたりしていると間もなく最終グループの一つ手前のグループの最後の選手の演技が始まった。
これくらいになると最終グループのまだ練習着のままの選手達も全員衣装を着、スケート靴を履き始める。
「準備はいい?」
「うん、ばっちり」
そう言ってメインのリンクへの入り口にあたる場所へ集合する。
最終グループなだけあって、そこに立っているのは錚々たるメンツだ。
ジュニアグランプリファイナル2位、ロシアのアリスタルフ・イシャエフ。
ジュニアグランプリファイナル4位、全米選手権でジュニアながら3位になったギルバート・ファーマー。
グランプリシリーズで二度メダルを獲得したアメリカのカイル・パターソン
そしてグランプリファイナル3位、全日本ジュニア2位の高村柚樹。
グランプリファイナル、全日本ジュニア共に優勝の五十嵐誠也。
最終グループ直前のグループ最後の滑走者の得点が発表される頃、全員リンクサイドに立つ。
コーチに何かを言われていたり、ただリンクの向こうを見つめていたり、スキップをしていたり腕を回したりと行動は様々。
やっとリンクのフェンスの扉が開けられると、皆一目散に入っていった。
六分間練習、アナウンスが一人ひとりの名前を言ってから、短い紹介をする。
現地の言葉でアナウンスされるので、詳しい部分は全く分からないが誠也はこの紹介アナウンスで兄の名前が出なかったことに安心したのか、ホッとした表情で練習を続行した。
最終グループの二番目が柚樹だ。
名前をコールされ、リンクの真ん中に立ち、ポジションを作ると間もなく音楽が鳴り出す。
ショートプログラムはシング・シング・シング、陽気でノリの良い曲調に合わせて踊るように滑る。
観客席からは、序盤から手拍子が始まった。
最初に跳んだのはトリプルルッツ、トリプルトウループのコンビネーション。
まるで体重をかけず浮かび上がるように軽く跳んでしまうので、評価が高い。
その後すぐにまたトリプルループを跳んだ。
ループジャンプは柚樹が最も得意とするジャンプで、どんなジャンプの後でもセカンドに飛ぶことが出来るが、今年のジュニアの課題ジャンプはループなので単独だ。
その勢いのまま足変えキャメルスピン。
しかし次のダブルアクセルでは飛び上がる直前に勢いをつけすぎてしまい、両足着氷した上に手を着いてしまった。
ショートの必須エレメンツでミスをするとかなり痛い。うっかりトリプルアクセルを飛ぶところだったが2011年現在、ジュニア男子のショートプログラムでのトリプルアクセルは禁止されている。
その後はステップ。
曲調に合わせたコミカルな動きで、足元は次々と正確なステップを踏んでいく。
それを見てか一度止まっていた手拍子が再び観客から送られ始めた。
最後のコンビネーションスピンを終えてフィニッシュポーズを決めた時、柚樹は苦い顔をした。
観客一周に礼をしてからリンクから上がってコーチに迎えられる。
柚樹はかなり焦った表情でコーチに「どうしよう、アクセル」と話す。
「そんなこともあるわよ」
とコーチはとりあえず落ち着かせ、キスクラまで引っ張っていく。
観客に名前を呼ばれたり、投げられた花をナイスキャッチしたりしてなんとか焦りの表情は消えた。
得点が発表されると、グランプリファイナルの時のシーズンベストを超えることはできなかったが、現時点の順位は1位だった。
「…あぁ、スモメダいけるかなぁ…」
「まだ終わらないと分からないわ」
分かっちゃいるが、やっぱり悔しさは拭えない。
とりあえず柚樹は笑顔を作ってキスクラを立ち、そこから出ていった。
これからインタビュー等をされるから、いつまでも苦い顔をしていてはいけなかった。
短いインタビューを終えた後は裏へ回り、設置された画面の前に立った。
その画面からは今滑っている選手の映像が流れている。
柚樹は他の人の演技を見るのが好きだし、見たところでプレッシャーで体が震えだすという経験もないのでいつも最終滑走じゃなければ裏で見ていた。
むしろ柚樹にとってはモニターで他の選手の演技を見て自らの演技について考えるのが試合前のメンタルを構築する方法の一つだった。
だから全日本選手権の時には、見ていたモニターをシニアの選手に消されて思わず舌打ちをしてしまい、驚かれてしまった。柚樹もあれは本当に失礼したと反省しているが、見ている人がいるのに消した方も悪いということで話はついていた。
そんなモニターを眺める柚樹の側にもまた他にモニターを見る選手が集まり、最終グループの選手を観戦していた。
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