第六話

王妃様とクリスマスイヴ1




 緑豊かな常春の国と謳われるヴィンセント王国でも、いくらか肌寒く感じるこの日の昼下がり。

 王宮の三階に位置する国王執務室では、百代目の国王ウルが難しい顔をして一枚の書類を睨んでいた。

 窓辺で微睡むのは寒かったのか、彼の膝の上には珍しく猫型悪魔ドンロのでっぷりとしただらしない身体が乗っている。

 ウルは手慰みにその黒い毛並みを撫でていたが、ふいに彼の灰色の瞳が書類から外れた。

 その視線の先――国王執務室のど真ん中に突っ立つのは大きな常緑針葉樹、モミの木である。

 もともとあったソファーセットを隅に押しやって幅を利かせているそれを執務机越しに睨んで、国王らしからぬ柄の悪さでウルが舌打ちをした。


「おい、誰だ誰だ。人の仕事場にいきなり木を立てやがったのは」


 とたん、すっと手が上がる。

 ごつごつでムキムキの巨大な手だ。

 泣く子も黙る鬼畜面、国王執務室の守衛ケットのものである。


「私ですが?」

「いや、〝何か問題でも?〟みたいな顔してんじゃない。せめて、部屋の主である俺に断ってからにしろよ。いったい誰だ、ここに木を立てようなんて言い出したのは」


 続いて上がったのは、手首に針刺しをつけた嫋やかな手。

 ヴィンセント王妃専属の若きお針子ソマリだ。


「私ですけど?」

「いや、〝何か文句でもあるのか?〟みたいな目で見てくるんじゃない。不躾な孫ですみません、って先日お前のじーさんとばーさんが菓子折り持って謝りに来たぞ。そもそも誰なんだ。ここに木を立てていいと言ったのは」


 そのとたんだった。

 はいっ! と元気いっぱい、ちっちゃなふくふくの手が上がる。

 言わずと知れた愛くるしいヴィンセント王妃。

 わずか四歳のウルの妻、マイリである。


「わらわじゃ!」

「だろうな」


 ソマリが仕立てた純白のワンピースの上に、白いファーの襟とポンポンが付いた赤いボレロを羽織るその姿は、相変わらず文句なしに愛らしい。

 執務室に断りもなく木を立てられたにもかかわらず、ウルはキラキラ輝く彼女の菫色の瞳を見たとたんに怒る気も失せ、諦めたようなため息を一つ吐くのだった。


 ヴィンセント王国をはじめとするこの大陸の国々では、共通した暦を使用している。

 一年は三百六十五日、一月はだいたい三十日、一週は七日。

 本日は、十二番目の月の二十四日目――つまりは十二月二十四日で、ウルとしては今年も残すところ一週間か、くらいの認識なんだが……


「ウル、知っておるか? こよいはな、くりすますいっぶじゃ」

「くりすますいっぶ」


 件のモミの木を背後に、聞いて驚けと言わんばかりに胸を張ってマイリが告げたのは、ウルには――この世界の者にはとんと聞き覚えのない言葉だった。

 それもそのはず。

 くりすますいっぶ――もといクリスマスイヴは、そもそもは異世界の風習を指す。

 その異世界にあるニホンなる国での前世を覚えていると主張するソマリ曰く、クリスマスというのは異国の神の子の降誕を祝う行事で、イヴは一般的にその前夜のことらしい。


「いや、いつぞやのハロウィンといい……なぜそんなに異国の行事にこだわるんだ、そのニホン人とやらは」

「ずいぶんと流されやすい国民性のようじゃなぁ」


 国王夫妻の指摘に、自称前世ニホン人のソマリは面目なさそうな顔をした。

 モミの木を立てたのは、これに様々な装飾を施してクリスマスの象徴である〝クリスマスツリー〟なるものにするためだという。

 しかし、そもそもどうして、わざわざ国王執務室にクリスマスツリーを立てるのか。

 そんな部屋の主のもっともな疑問を無視して、マイリもケットもソマリも飾り付けに取り掛かった。

 ウルはしばしそれを呆れ顔で眺めていたが、やがてやれやれとばかりに肩を竦めると書類に視線を戻す。

 最近の彼は、マイリがご機嫌ならばだいたいのことは黙認するようになっていた。

 家主であるマイリとの関係が良好なうちは、ヴィンセント王国に大きな禍が訪れることはないだろう。

 先日のヒンメル王国でのマイリの兄との邂逅を経て、ウルはそう感じている。

 とはいえ、小さな問題というのは日々起こるもので、ウルが睨んでいる書類もその一つだ。

 彼はもうかれこれ半時間ほど、その書類を処理済みの山に加えられずにいた。

 答えは、決まっているのだ。

 けれど、若い彼の中にある甘い部分が、ペンを走らせるのを躊躇している。

 ウルは、自分の眉間のシワが深くなるのを感じていた。

 と、そんな時である。

 

「――ウル」


 思いがけず近くから聞こえたマイリの声に、ウルははっとして顔を上げる。

 執務机の向かいの縁からは、ブロンドの髪に覆われた頭の天辺とふくふくの五本の指先、それから星の形をした飾りがかろうじて覗いていた。

 国王の執務机は、四歳児の身長よりもいくらか高い。

 そのため、マイリは見えないウルに向かって、うんと腕をのばして星の飾りを差し出しながら言った。

  

「この星をな、最後に木にてっぺんにかざるんじゃ。そうすると、くりすますつりーは完成らしい」


 しかし、ウルの執務机よりも背丈が小さいマイリでは、高く突っ立つモミの木の天辺に届かないのは一目瞭然。

 つまり、星を飾るために手を貸せと言いたいのだろう。

 そう思ったウルは、小さくため息を吐いた。


「あのなぁ、マイリ。あいにく俺は仕事中でな。だっこなら、ケットに……」

「わらわはよいのだ。ウルがかざれ」

「……ん? 俺が、飾るのか?」

「うむ、最後にこれをかざるのがくりすますつりーの醍醐味らしいからな。だから、ウルがかざれ」


 ウルは、執務机の縁から覗く頭の天辺とふくふくの指から、その向こうに突っ立つモミの木に視線を移す。

 彼が書類一枚に悶々としているうちに、すっかり飾り立てられておめでたい有様になっていた。

 この天辺にマイリが差し出すキンキラな星の飾りを載せれば、なるほど、さぞ見栄えがすることだろう。

 その行為をクリスマスツリーの醍醐味と語るマイリの言葉もあながち大げさではないように思えた。


「わらわはこう見えても年長者じゃからな。楽しいことは若い者にゆずろう。まじめに仕事にいそしむウルへのごほうびじゃ」


 執務机に阻まれて見えないが、マイリはきっとツンと澄ました顔をしているに違いない。

 ウルは無性に、その可愛い顔が見たくなった。


「……」

「ウル? 聞いておるか?」


 ウルは無言のまま書類の上にペンを走らせる。

 最後にサインを施し、処理済みの書類の山に加えて椅子から立ち上がった。

 必然的にその膝で微睡んでいたドンロは起こされて、んあーん、と愛らしさのかけらもないダミ声で抗議する。

 ウルはそれに構わず執務机の正面に回ると、そこにいたマイリから星の飾りを受け取った。

 彼女はもう澄ました顔はしていなかったが、可愛らしいことには変わりない。

 そんなマイリと連れ立って部屋の真ん中まで移動すると、ウルは改めてモミの木を見上げ、それにしても、と口を開く。


「随分とでっかい木を調達してきたものだ。さすがに俺でも天辺までは手が届かないぞ」

「ふむ、ならばウルがケットにだっこしてもらえば……」

「お許しください、妃殿下。我が家には、野郎はだっこすべからず、という厳しい家訓がございまして……」

「おい、嘘を吐くならもうちょっとましなのにしろ。っていうか、俺だってケットにだっこされるなんてごめんだわ」


 ケットは代わりに、踏み台を差し出してきた。

 ウルはそれに足を掛けかけたものの、ふいにじっと手の中を見下ろす。

 そうして何を思ったのか、星の飾りをマイリに返すのだった。

 いきなりのことにきょとんとする彼女を抱き上げると、ウルはいよいよ踏み台に上がる。


「俺の代わりにマイリが飾れ。ヴィンセント国王の名代に恥じぬよう、殊更上手に頼むぞ」

「――! うむ! よしきた! 任せろ!」


 とたん、マイリの菫色の瞳が輝きを増す。

 キラキラ、キラキラ、それこそ星の輝きにも勝る眩さに、ウルは自然と目を細めた。

 本当は、自分が星を飾りたくてウズウズしていたのだろう。

 にもかかわらず、マイリはクリスマスツリーの醍醐味だというそれをウルに譲ってくれようとした。

 ウルは正直、異世界の行事とやらにも、クリスマスツリーの醍醐味なんかにも興味はない。

 けれども、マイリのそんなささやかな思いやりは染みた。

 殺伐とした書類のせいで心がささくれ立っている時なんかは余計にだ。


「あのな、ウル。くりすますいっぶにはな、さんたくロースがやってくるらしい」

「さんたく? ロース? 三択の肉!?」


 天辺に星を飾って、クリスマスツリーが無事完成した。

 マイリはさも満足そうに頷いてから、ぎゅっとウルの首筋に抱きついてくる。

 このもちもちふわふわの頬をくっつけられてなお、難しい顔をしていられる人間はおるまい。

 ケットとソマリの生温かい視線もなんのその。

 ご機嫌なマイリと一緒にクリスマスツリーを見上げているうちに、ウルの眉間に刻まれていた皺は綺麗さっぱり消えたのだった。




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