王妃様のセーラー服と隣国の光と影7




「ウルよ、はむすたーとは何かね?」


 隣に並んでにこにこしながらそう問うダールグレー公爵に、ウルは何と答えたものかと頭を抱えた。

 はむすたーという呼び名は、マイリの専属お針子ソマリの受け売りである。

 それは、彼女が前世で――異世界のニホンなる国で生きていた頃に飼っていた小動物らしいのだ。

 ちっちゃな両の手のひらの上にちょこんと乗せたそれをオリビアの目の前に突き出して、マイリが言う。


「はむすたーというのはな、異なる世界のかわゆい愛玩動物じゃ」

「こ、異なる世界……? ネズミ……じゃないの!?」

「ネズミの仲間ではある。しかし、見よ。これこの通り、普通のネズミにしてはシッポが短かろう?」

「た、確かに……」


 マイリに促されるまま、はむすたーなるものの尻をおそるおそる覗き込んだオリビアが、その尻尾を確認して頷く。

 しかし、ウルは知っている。

 そいつの尻尾は、ほんの数時間前まではちゃんと野ネズミのそれらしく、細くて長い物だったのだ。

 それが今、麦の粒ほどの短さになってしまっているのは、何を隠そうマイリが引きちぎったからである。

 もう一度、言う。

 尻尾は、マイリのあのちっちゃな手が引きちぎったのである。

 彼女の言う〝わずかながら力添えする〟がまさかあんな力業だとは……はむすたーもといマイリの兄も、もちろんウルだって思ってもいなかった。

 あの時の、野ネズミの断末魔のごとき悲鳴は、ウルの耳の奥にこびりついて離れない。

 遠い目をする彼をよそに、マイリとオリビアの会話は続く。


「それに、このように黄金色のなめらかな毛並みをしたネズミがおるか?」

「わ、本当! ふかふかだわ……」


 マイリが差し出すはむすたーの背中を遠慮がちに撫でたオリビアは、とたんに驚いた顔をした。

 しかし、ヒンメル王国建国以来ずっと野良を極めてきたそいつの毛並みがふかふかな理由も、ウルは知っている。

 尻尾を引きちぎられた衝撃で気絶したそれを、マイリが近くの泉でじゃぶじゃぶ丸洗いしたからだ。

 その後、あのちっちゃなふくふくの手――だったらまだよかったのだが、戻りが遅い国王夫妻を心配して探しにきたケットの、あのゴツゴツでバッキバキの巨大な手によって雑巾みたいにぎゅうぎゅうと絞られ、そのまま日が落ちるまで天日干しにされた。

 極め付けは……


「それにな、オリビア。聞いて驚け。こやつはネズミのように、ちゅーとは鳴かぬのじゃ」

「ええ、本当に!? じゃあ、なんて鳴くの!?」

 

 オリビアの食い付きに気を良くしたらしいマイリは、ふふんと鼻を鳴らして得意げな顔をする。

 そうして、兄を左手だけに持ち替えると、空いた右手でもってその尻をベチンッと引っ叩いたのである。

 とたん、はむすたーの口から悲痛な鳴き声が上がる。

 ただしそれはマイリの言う通り、ちゅー、ではなかった。


「にゃー!!」

「まあ! まあまあ! 猫みたいだわっ!!」


 オリビアは手を叩いて喜び、マイリはますます胸を張る。


「ウルよ、はむすたーとは何かね?」


 ウルは同じ問いを重ねるダールグレン公爵に答えを返すこともできぬまま、ますます遠い目をした。

 猫みたいな鳴き声になったのは、しおしおの濡れネズミが天日干しされながら特訓させられた結果だ。

 ちゅーと鳴こうものなら、尻尾を引きちぎられた尻にマイリのあのちっちゃな平手が容赦なく飛んだのである。

 それもこれもすべて、彼がそんじょそこらのネズミとは違うことを人々に印象付けるため。

 マイリはさらに畳み掛ける。


「しかも、こやつはただのはむすたーでもない。正式名称は、ごーるでんはむすたーという」

「ご、ごーるでん……」


 なんだか分からんが神々しい感じがする、と大広間中の人々がゴクリと唾を飲み込んだ。

 一同が見守る中、オリビアの手を取ってマイリが言う。


「こやつをな、オリビアにやろう」

「え、ええっ? わ、私に……?」

「うむ。わらわからの、こころばかりの祝いじゃ」

「あ、ああ、ありがとう……」


 はむすたーを押し付けられたオリビアは戸惑った顔をした。

 尻尾が短かろうが、毛並みがふかふかだろうが、にゃーと鳴こうが、ネズミはネズミだ。

 それなのに、マイリの熱弁にすっかり圧倒されたオリビアは、それをはむすたーという異世界の愛玩動物だと信じ始めていた。

 以前、悪魔を拾うのを止めなかったと咎められたケットが、マイリが猫だと言ったならばそれはもう猫なのだと反論したことがあったが、今回もそれと同じだ。

 マイリがはむすたーと言ったならば、あれはもうはむすたーなのである。

 現にオリビアは、手に乗せられたマイリの兄を放り出そうとする気配はない。

 そんな彼女に向かって、マイリはとどめとばかりに告げた。


「そやつをよくよく見てみよ、オリビア。――かわいかろう?」

「えっ? か、かわいい? かわ、いい……」


 ネズミは、姿だけ見れば愛らしい。

 衛生的な理由から忌避されるが、それを除けばちっちゃな身体もつぶらな瞳も、とてつもなく庇護欲をそそる動物なのだ。

 それもあってか、まるでマイリの言葉に暗示をかけられたかのように、オリビアは手の中の存在を凝視して、かわいい、かわいいと呟く。

 これには、言われた方も悪い気はしない。

 

『うむ、うむうむ。苦しゅうないぞ、娘。この我を存分に愛でるがよい』


 マイリの兄のそんなご機嫌な声が、いつの間にか人間の理から外れ始めていたらしいウルの耳に届いた。

 するとここで、成り行きを見守っていたヒンメル国王が進み出る。

 彼はちっちゃなヴィンセント王妃に合わせてその場にしゃがみ込むと、改めて先程のラインの非礼を詫びた。

 その殊勝な態度に、マイリもおおいに満足したらしい。

 見ているこっちの相好まで崩れてしまうような、それはもうとびきり愛らしい笑みを浮かべて言った。


「瑣末なことよ、水に流そう。わらわはオリビアが好きじゃからな。末長く仲良くしようぞ」

「マイリ、嬉しい! 私も! 私もマイリが大好きよ!」


 ここで間髪を容れず、拍手の音が響いた。

 両手を打ち鳴らしたのは、ウルとダールグレン公爵。

 すかさず、ロッツとジャックも続いた。

 容易く触発された人々が彼らに倣い、やがて拍手は波紋のように大広間中に広がっていく。

 わあっ、と興奮した人々の口から歓声が上がった。

 王太子オリビアを、そしてちっちゃなヴィンセント王妃を讃える声が大広間を埋め尽くす。

 つい先ほどラインのせいで綻びかけたヴィンセント王国とヒンメル王国の絆が、再びぎゅっと固く結ばれるのを誰しもが感じていた。

 人知れず安堵のため息を吐き出すウルの横では、ダールグレン公爵がにこにこと微笑んでいる。

 扇動の役目を終えた二人は、もう手を叩くのをやめていた。 


「ふふ、恐れ入った。マイリは見事にヴィンセント王妃の役目を果たしたね」

「そうですね」

「あの子を王妃に迎えた君の判断は間違っていなかった。そうだろう、ウル?」

「そう……ですね」


 噂をすれば影がさす。功績者の帰還である。

 とことことこちらに戻ってきたマイリが、ウルに向かって両手を上げた。


「ウル、だっこじゃ」

「はいよ」


 今度ばかりはウルも二つ返事で答える。

 ロッツとジャックの羨ましそうな視線がチクチク背中に突き刺さるが、ウルはそれらを無視した。

 ぎゅっと首筋に抱き着いてきた幼子の柔らかな髪が触れて、顎も心もくすぐったい。

 ダールグレン公爵が、やたらと微笑ましげに見つめてくるから余計にである。

 ウルはそんな恩師から顔を背けるようにして、ちっちゃな妻のちっちゃな耳にこそこそと内緒話をした。


「ひとまず、お前の兄の機嫌は直ったようだが……結局、どうなんだ。あいつはもう、飢饉やら疫病やらをもたらす恐れはないのか?」

「さあ、どうじゃろう。なんせ、兄者はきまぐれじゃからな。気が変わって、やっぱり禍をばらまこうと言い出すやもしれん」


 それでは困る、とウルが眉を顰める。

 すると、そんな彼の頬をマイリのちっちゃなふくふくの両手が挟み込み、むぎゅっと鼻頭同士がくっついた。

 菫色の瞳が至近距離から、いつになく冷たくウルを見据える。


「ウル、勘違いするでないぞ。兄者が飢えや病をもたらそうとも、それはヒンメルの人間にとっては当然のむくいじゃ。非は、この地の主たる兄者に礼を欠いた最初の王にある」

「それは……」


 ここに国を建てようとした初代ヒンメル国王が、兄から提示された対価を支払っていたとしたら、この国は飢饉にも疫病にも悩まされることはなかっただろう、とマイリは言う。

 しかし、だからといって、初代国王もおいそれと従うわけにはいかなかった。なにしろ、要求されたのはその心臓だったのだから。

 そう反論するウルを、マイリはふんと鼻で笑う。

 親子ほど年の離れたヴィンセント国王夫妻が仲睦まじく顔を寄せ合う光景を、周囲の人々はただ微笑ましげに眺めているが、幼い王妃が語る言葉は実際はなかなかに血腥い。


「ならば、兄者と交渉すればよかったのだ。ヴィンセントの最初の王――ウルの先祖は、わらわにこう申したぞ? 〝血を差し上げるのはやぶさかではありませんが、自分はまだなさねばならぬことがございますので、血は少しずつ、そのかわり一生涯捧げます〟とな。わらわも、兄者も、なにも人間の命がほしいわけではない」

「……なるほど。では、初代ヒンメル国王はこう言えばよかったのか。〝自分はまだなさねばならぬことがあるため今すぐ心臓を差し出すのは無理だが、そのかわり死んだら心置きなく持っていけ〟と」


 ウルの言葉に、うむ、とマイリは大仰に頷いた。

 初代ヒンメル国王は高名な学者でありながら――いやだからこそ、自らを過信してしくじった。

 人智の及ばぬ相手を欺こうと考えたのが、そもそもの間違いだったのだ。

 とにかく、ヒンメル王国の運命がどう転ぶのかは、マイリの兄の――今は、オリビアに可愛がられてご満悦なはむすたーの気分一つ。

 そんな隣国の綱渡りな状態に、ウルはやはり懸念しかない。

 しかしマイリは、彼の眉間の皺をふくふくとした指の先でこちょこちょしながら、何でもないことのように言った。

 

「安心せい。あの兄者は兄弟の中では寛大な方だ。どうやらわらわの思惑通りにオリビアを気に入ったようであるから、最終的にはいけにえをよこせば許すと申すだろう」

「生贄だと?」


 安心しろという割に、生贄とは随分と穏やかではない。

 ウルがますます渋い顔をすると、マイリの方は彼がなぜそんな表情をするのか分からないとでも言いたげに首を傾げて続けた。

 

「適任がおるであろう? ――わざわざ異なる世界から、このヒンメルを救うためにやってきたという聖女とやらが」


 ウルはひゅっと息を呑む。

 その視界の端には、白目を剥いたまま衛兵に運び出される男の姿が映っていた。

 大広間に集った人々は、王太子となったオリビアと、愛らしいヴィンセント王妃から贈られたはむすたーに夢中で、もう誰もラインには見向きもしない。

 彼とその妻ナミ、そして生まれたばかりの二人の子がこれから歩むのは、間違いなく茨の道であろう。

 しかし、ラインは言うまでもないが、ナミもまた自業自得だとウルは思った。

 多くの留学生を受け入れてきた歴史があるために、ヒンメル王国の民は一様に異邦人に対して寛容だ。

 だから、異世界から来たのであろうとなかろうと、真面目に働く気があれば生計を立てることは可能だっただろう。

 しかしナミは、聖女だ何だと持ち上げられたことでいい気になって、まるで本当に自分が選ばれた人間であるかのように錯覚し、そう振る舞ってここまできてしまった。

 もちろん、彼女を権力争いに利用して勘違いさせた大聖堂にも非はある。

 だからこそ、もしも今後マイリが言うように、彼女の兄がヒンメル王国の平穏と引き換えに生贄を要求するようなことがあったとしたなら、大聖堂は保身のため、ここぞとばかりにナミを差し出そうとするに違いない。

 そうなった時、ラインははたして彼女を守ることができるだろうか。

 何より、彼らの子に居場所はあるのだろうか。

 非情になり切れないウルは、それを案じずにはいられなかった。

 けれども、マイリは――人智の及ばぬ存在は、むしろ本当に心から良かったと思っているふうに、にっこりと笑って言う。




「聖女としての大義が果たせるのだ。あのナミとやらもさぞ本望であろう」




 翌朝、ヴィンセント国王夫妻一行は早々に帰国の途に就いた。

 それから数日後、ウルはオリビアに当ててとある贈り物をする。

 帰国して早々ソマリ監修の元で作らせた、はむすたーのための遊具――木組みの回し車だ。

 はむすたーもといマイリの兄はそれをたいそう気に入ったようで、日がな一日カラカラと回し続けているとのこと。

 そのご機嫌な音を、ヴィンセント王国にいるマイリも時々セーラーの襟をおっ立てて聞いている。


 カラカラ、カラカラ、と。


 回し車の音が軽やかな間は問題ない。

 しかしその音が止まった時――人智の及ばぬ存在は、再びヒンメル王国に禍を撒き散らそうと言い出すかもしれない。





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