王妃様のセーラー服と隣国の光と影6
カシャン――、と。
ワイングラスの割れる音は、いやに大きく響いた。
まさに間一髪。
猛然と駆けつけたウルの左手によって、ラインが投げたそれはマイリにぶつかる前に叩き落とされたのである。
対する彼の右手は、驚いてひっくり返りそうになったマイリの背中を支え、その丸い後頭部が床に叩きつけられるのを見事に防ぐ。
大広間は、しんと静まり返った。
何しろ、今宵のパーティーに未成年にもかかわらず唯一特例的に参加している小さなヴィンセント王妃は、ヒンメル王国の人々の注目の的だったのだ。
当然ながら、多くの者が目撃することとなった。
国王の長子でありながら王太子に成り損ねた王子が、隣国の王妃に――しかも、たった四歳の幼い女の子に向かってワイングラスを投げつけた場面を、である。
「――兄様、なんてことをするの!」
真っ先にラインを糾弾したのは、不甲斐ない兄に代わってこのヒンメル王国の未来を背負うことになったオリビア。
彼女がラインを激しく責め立てる一方、ヒンメル国王は真っ青な顔をしてウルとマイリに謝罪する。
あまりの出来事に固まっていた人々もようやく我に返り、大広間はたちまち騒然となった。
「「僕のマイリちゃんに何しやがるんですかっ!!」」
それまで取っ組み合いをしていたにもかかわらず、ロッツとジャックが一言一句変わらぬ言葉をラインに向かって投げつける。
ここにケットがいたのなら、あの鬼畜面はさらに凄まじいことになっていただろう。
しかしである。
当のラインはというと、胸ぐらを掴み上げんばかりの勢いで責め立てる妹も、自分のせいでぺこぺこと頭を下げる羽目になった父王も、殺意に満ちた目で睨みつけてくるロッツやジャックも見てはいなかった。
彼の若葉色の瞳は、瞬きも忘れたようにただ一点を見つめ、その身体は小刻みに震えている。
それに気づいたのは、今まさに彼に悪意をぶつけられんとしたマイリと、その祖父であるダールグレン公爵。
二人は無言のまま顔を見合わせると、ラインが見つめる先――ウルを見て目を丸くした。
彼が、他の者の声が霞むくらいに、それはもう凄まじい怒りを滾らせた目でラインを見据えていたからだ。
初めて目にするようなウルの表情に大きな両目をぱちくりさせたマイリは、頬張っていたお菓子を慌てて飲み込むと伺うように彼を呼んだ。
「ウル?」
元来ウルは気の長い性分ではない。
かつて身分を隠して諸外国を渡り歩いていた時分などは、喧嘩っ早い彼をロッツが止めていたくらいなのだ。
それでも、祖国に戻って王位を継ぎ、先王である父の死を乗り越えて、彼は理性的な人間になった。
ヒンメル国王がラインの父親である前に一国の王として正しい判断を下したように、ウルもまた齢二十五の若造ではなくヴィンセント国王として、常に慎重な選択をしてきた――はずだったのだ。
けれども、今は到底無理だった。
これが例えば、理不尽な暴力を向けられたのがウル自身ならば、彼は己を抑え込めただろう。
だが――
「グラスをマイリにぶつければどうなるのか――想像できなかったとは言わせないぞ」
地を這うような声でそう呟いて、ウルが一歩前に出る。
硬い軍靴に踏み躙られて、ワイングラスの破片がバリバリと悲鳴を上げた。
ごうごうと、腹の奥から怒りが炎のように噴き上がってくるようだった。
腑が煮え繰り返るとは、こういう感覚を言うのだろうか。
とにかくウルは今、自分でも驚くくらいの凄まじい怒りに支配されていた。
それは他ならぬ、マイリが害されようとしたからだ。
マイリの器はあまりにも幼く、その有様も人間とは違いすぎる。ゆえに、ウルが彼女を妻と認識するのはまだ到底不可能だろう。
だが、一方で家族としては――このちっちゃなヴィンセント王妃はすでに己の心を占めてしまっている。
そう、ウルは認めずにはいられなかった。
カツン――、と。
さらにもう一歩、進み出たウルの軍靴の踵が音を立てた。
ひい、とラインが喉の奥で情けない悲鳴を上げて後退る。
大広間は、今やすっかりウルの怒りに呑まれてしまっている。
人々は呆然とし、あのロッツさえもが言葉をなくして立ち尽くすばかりだった。
そんな中でただ一人、激情にかられるウルの横顔をただじっと凪いだ目で見守っている者がいた。ダールグレン公爵だ。
その視線に、ウルも気づいていた。
そして、頭の隅に辛うじて残っている冷静な部分では、これ以上ラインと向かい合うのは得策ではないとも分かっていた。
非は、全面的にラインにある。
そのふざけた横っ面を一発殴らないと――いや、本当は顔が判別不可能になるくらいぶちのめさないと、マイリが傷つけられようとしたことに対する怒りは収まらないだろう。
だが、今後の両国の関係を思えば、ウルは矛を収めねばならない。
そんなヴィンセント国王としての正しい決断は、彼をひどく苦しめた。
それに耐えるように思わず拳を握り締めれば、さっきワイングラスを叩き落とした際に付着したであろう破片が彼の左の掌を傷つける。
ただしそんなもの、腹の底から燃え上がる怒りを呑み込むことに比べれば、瑣末な痛みであった。
ウルは構わず、さらにぐっと左手を握り締めようとする。
しかし、思いがけずそれを止めたものがあった。
ふいに横から伸びてきた、ちっちゃなふくふくの手だ。
「――っ、ばか、触るな! 危ないぞ!」
手の主は、言わずと知れたマイリである。
とたん、はっと我に返ったウルはそれを振り払った。
ワイングラスの破片が付着している自分の手に触れることで、彼女まで傷を負ってはならないからだ。
一方、振り払われたマイリの方は、ムッと眉間に皺を刻んで口を尖らせる。
「ばかはウルの方じゃろうが。わざわざケガを増やすやつがあるか。もう、おぬしだけの身体ではないのだぞ」
「……は?」
「おぬしは、このわらわのものじゃ。わらわの許しもなく血を流すことは許さぬ」
「……なんだ、それは……」
マイリが傍若無人なのはいつものことだ。
けれど、それに毒気を抜かれたように、ウルを支配していた凄まじい怒りが急速に緩み始める。
気持ちを落ち着けようと、ウルは一つ大きく息を吐き出した。
マイリはそんな彼の左手の指を一本一本開かせる。
そうして、掌に刺さっていた破片をそっと取り除き、そこに滲んでいた血をダールグレン公爵が差し出したハンカチで拭った。
されるがままだったウルが、そこでぽつりと呟く。
「血……舐めないんだな……」
「おぬしは、グラスが割れたからといって、したたったワインをなめるのか?」
「……失言をお詫びします」
「わかればよいのだ」
二人のそんな会話は遠巻きにしている人々には聞こえない。
よって、わずか四歳のマイリが甲斐甲斐しくウルの手当てをする姿に、周囲はただただ感銘を受けるのであった。
それとともに、そんないじらしいヴィンセント王妃にワイングラスを投げつけたラインへの反感が極まる。
当のラインはというと、ウルの視線が外れたことで、やっと息ができるようになったらしい。
周囲の責め立てる視線に耐えかねたかのように叫び始めた。
「ち、父上は、ウルにそそのかされたんだ! そうでなくば、兄である僕を差し置いて、オリビアが王太子に指名されるなんてありえない!」
「ライン、口を慎みなさい」
さしものヒンメル国王も、ついに厳しい顔をしてラインを窘める。
けれども、父が自分ではなくウルを重んじるのが許せなかったらしいラインは、カッと怒りに顔を赤らめて畳み掛けた。
「父上は、ウルに――ヴィンセントに屈するおつもりか!」
「いい加減にしなさい! それ以上無礼を重ねてはならん!!」
「無礼はどっちだ! これは内政干渉だぞ!! ヒンメルとヴィンセントの長年の友好関係も、今日で終わ――」
「ライン!」
親の心子知らずにもほどがある。
父の顔色がみるみる青くなっていくのにも構わずに、ラインがついに取り返しのつかない言葉を吐こうとした――その時であった。
いつの間にか肩に乗っていた小さなものを、彼の目が捉えたのは。
「――へ?」
それは、黄金色の毛並みをした小さな野ネズミ――いや、その姿を模したマイリの兄だった。
「ぎゃあああっ!! ネ、ネ、ネ、ネズミィイイイイ!!」
「おお、兄者よ。いつの間に」
とたん、ラインは泡を吹いて仰向けにひっくり返る。
ゴチン、とその後頭部が盛大に床に打ち付けられるのを、人々はただ呆気にとられて見つめるばかり。
そんな中、とことこと駆け寄ったのはマイリだ。
彼女のちっちゃなふくふくの両手が、白目を剥いて気絶したラインの顔の上から野ネズミを掬い上げる。
「「ばっちいよ!?」」
すかさず、ロッツとジャックの義理の兄弟が口を揃えて悲鳴を上げたが、マイリは構わずそれを観衆に見せつけるように掲げた。
そうして、高らかに告げたのである。
「みなの衆、見よ。これは、ただのネズミではない。――これはな、〝はむすたー〟という」
は、はむすたー!?
大広間はにわかにどよめき、ウルは遠い目をした。
そんな中、おそるおそる近寄ってきたのはオリビアである。
彼女は、マイリのちっちゃな両の掌に収まった、野ネズミ改め〝はむすたー〟をまじまじと眺めると……
「はむすたーって……何?」
次期王女らしく、ヒンメル王国の人々を代表してそう問うたのだった。
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