王妃様のセーラー服と隣国の光と影5
『おお、これは珍しいこともあるものだ。そこな人間、我の言葉が聞こえるのか』
ぎょっとするウルに向かい、野ネズミは黒々とした円らな瞳をぱちくりさせた。
「俺は、いつからネズミ語が理解できるようになった……?」
「ウルはわらわの伴侶だからな。ちょびっとずつ人間の理からは外れていっておる」
「おおい!? 初耳なんだが!?」
「うむ、言うてなかったかもしれんな」
ヴィンセント王国にマイリという家主がいるように、このヒンメル王国がある土地にも本来の持ち主がいた。
それがこのネズミであり、マイリにとってはすぐ上の兄に当たるというのだ。
ちなみに、マイリは兄弟の末っ子で、父親であるこの世の天主の寵児であるらしい。
「ずいぶんと懐かしい声を聞いたと思うたが……それで、兄者よ。その姿はいったい何じゃ」
『話せば長くなるのだが……』
「手短に話せ。わらわも暇ではないんじゃ」
『おぬし、妹の分際で生意気じゃのぅ』
ここに来るまでの馬車の中で、セーラー襟をおっ立てていたマイリの耳に届いたのは、この兄の声だったらしい。
ウルが地面に置いてやると、野ネズミもといマイリの兄は、一丁前に短い両腕を組んで話し始めた。
『その昔、ここに国を構えたいという人間が現れてな。ならば貴様の心臓を差し出せと告げれば、やつめ、冥土の土産に我がどれほど素晴らしい存在なのかを知りたいと申すのじゃ。我はほれ、兄弟の中で一番変化がうまかろう? 最初はネコに化けた。その次はオオカミに。ウシに、クマに、ついにはドラゴンに』
「……なんか、この話聞いたことがあるような」
「わらわも昔、乳母に読んでもらったことがあるぞ」
ヒソヒソし合うウル達にも、マイリの兄は構わない。
『人間はそれはもう、手を叩いて我を褒め称えた。その後、やつめこう申したんじゃ。〝大きなものに化けられるのはよくよく分かりました。しかし、はたして小さいものとなるとどうでしょう〟となぁ』
「やっぱりな。オチは読めたぞ」
「ウル、兄者があほうですまんな。最後まで聞いてやってくれ」
甲高い野ネズミの声が、なおも歌うように続ける。
『人間ごときになめられてはかなわん。我は、見ておれよと告げて』
「ネズミになって猫に食われそうになったんだろう?」
『いや、ノミになって人間に踏まれた』
「思っていたのと違う」
そうして、まんまと土地を手に入れてここに国家を築いたのが、高名な学者であった初代ヒンメル国王である。
マイリの兄はその後、側を通りかかった野ネズミの血を吸って復活し、その姿を模したまではよかったのだが……
『どういうわけか、この姿から変われなくなってしもーての』
「あほじゃ」
そんなこんなで、マイリの兄はこの黄金色の毛並みをした野ネズミの姿で、建国以来ずっとヒンメル王国で過ごしてきたらしい。
そこまで聞いたウルは、顔を引き攣らせて問うた。
「それで、あんたは自分を騙した人間を恨んではいないのか?」
『別に恨んでなどおらぬ。むしろ、我を欺こうというその恐れを知らぬ心意気、天晴れであると褒めてやりたいくらいじゃ。それに、時々憂さ晴らしもしておるでな』
「……憂さ晴らし?」
『ネズミの大群を率いて麦を食い尽くしてやったり、病を撒き散らしてやったりなぁ。その度に右往左往する人間どもの醜態を眺めるのは、実におもしろいもんじゃ』
何でもないことのように告げられた恐ろしい話に、ウルはひゅっと息を呑む。
そんな彼を見上げ、マイリの兄はニンマリと笑って続けた。
『聞くところによれば、この度めでたく次の王になる者が決まったそうではないか。祝いに一つ贈り物をやろうかのぅ』
「……贈り物?」
『何がよかろう。また飢饉にしようか。新たな王がこれを見事乗り越えれば、民に手腕を示すよい機会になるであろう?』
「お、おいっ……」
ヒンメル王国の飢饉は隣接するヴィンセント王国とて他人事ではない。
とばっちりを食う可能性も十分にあるし、何より馴染みの者が大勢いるこの国に災いが降り掛かろうとするのを見過ごすことはできない。
何とか思いとどまらせねば、とウルがマイリの兄を説得しようとした時だった。
『んぐえっ』
マイリがいきなり、それを鷲掴みにしたのである。
彼女はふんと鼻を鳴らすと、馬鹿にするように言った。
「月並みじゃなぁ、兄者は。まったくつまらん。発想力が貧弱すぎて、わらわは妹としてはずかしいぞ」
『な、なんじゃとぅ……そこまでいわんでよくないか?』
末の妹に容赦無くこき下ろされて相当衝撃だったのだろう。
野ネズミはすっかり涙目になってしまっている。
しかし、はらはらするウルをよそに、マイリはにっこりと愛らしい笑みを浮かべて続けた。
「それよりも、もっと面白いことがあるぞ。わらわもわずかばかり力添えするゆえ、試してみぬか?」
『なんと……妹よ。それは何か?』
「聞きたいか? よし、耳を貸せ」
『うむ、後で返せよ』
ちっちゃなマイリがさらにちっちゃな野ネズミと内緒話するのを、ウルはこの時ただ黙って見守ることしかできなかった。
***
空を赤く染めていた太陽が西の山際に隠れる頃、ヒンメル城の大広間ではパーティが始まった。
「ごきげんよう、ダールグレンのじーじ」
「ごきげんよう、私の可愛いマイリ」
訪問着として着せられたセーラー服から、同じお針子が仕立てたフリルたっぷりのドレスに着替え、弱冠四歳のヴィンセント国王妃はスカートを摘んで優雅に挨拶をしてみせる。
相手は、彼女の母方の祖父であるダールグレン公爵。
ウルにとっても父親のように慕う恩師である。
「ご無沙汰しておりました、先生」
「やあ、ウル――いや、もう陛下と呼ばねばならないね。実に立派な国王となられたことだ。ドンロも、きっと安心していることだろう」
ダールグレン公爵は、ウルの父やロッツの父と同い年で、ともに王立学校で友情を育んだ仲であった。
今は亡き友を懐かしむような顔をする彼に、しかしウルの方はというと早々に畏まるのをやめ、それどころかニヤリと笑って言う。
「先生も、さぞご満足でしょう? なにしろ、全てが思惑通りに運んだのですから」
「さてはて、いったい何のことだろうねぇ」
ウルの皮肉にとぼけた顔をして、ダールグレン公爵がふふふと笑う。
二人の視線の先には今宵の主役――王太子に指名されたばかりのオリビアの姿があった。
その側ではヒンメル国王夫妻が、王女の誕生日と立太子を祝おうと詰め掛ける者達の相手に忙しそう。
けれども、そんな喜びに沸く人々の中にあって、明らかに浮いている者がいた。
国王の長子でありながら王太子に選ばれなかったラインだ。
見るからに悄然とした様子の彼に声を掛けられる者は誰もいない。
ワイングラスを握り締める手は小刻みに震えているようだった。
ウルと並んで、そんなラインを見つめるダールグレン公爵の眼差しは凪いでいる。
しかし、その心中にはさまざまな思いが渦巻いているであろうことは、想像に難くない。
王妃に、そして国母にふさわしい人間となるように、とダールグレン公爵はアシェラを殊更厳しく育てた。
彼女が王立学校で主席を勝ち取り続けるために、血の滲むような努力を続けてきたことを、ウルも知っている。
それなのに、肝心のラインは国王の第一子という立場に胡座をかいて努力を怠り、そればかりかアシェラの華々しい成績を妬むようになった。
早々にラインを見限ったダールグレン公爵は、彼とアシェラの婚約を白紙に戻そうと考え始める。とはいえ、王家との婚約を臣下から破談にすることなど不可能であるため、どうにかラインの方から断らせねばならなかった。
そんな中で現れたのがナミである。
彼女は、ダールグレン公爵にとっては渡りに船――まさに、神が与え賜うた救世主だった。
ナミを聖女として担ぎ上げた大聖堂も、まさかラインがアシェラとの婚約を解消してしまうとまでは思っていなかっただろう。せいぜい自分達の息の掛かった者に次期国王の寵愛を集め、ダールグレン公爵家の発言権を弱められれば、くらいのつもりだったはずだ。
大聖堂は、ラインの短絡さを甘く見すぎていた。
一方、王立学校の学長として見守り続けてきたダールグレン公爵は、彼を正しく理解していたのだ。
もはや救いようがない――、と。
おかげで、アシェラは王子から婚約破棄されるという不名誉を負いはしたが、国民は彼女に対して同情的であったし、密かに想い合っていたロッツと結ばれる。
娘が本当は誰を愛しているのか、ダールグレン公爵が気づいていないはずがなかった。
結果、娘を王妃にすることは叶わなかったものの、隣国の名門フェルデン公爵家との関係が深まり、さらには――
「オリビアとジャックの結婚式はいつ頃のご予定でしょうか。俺もマイリとともに参列させていただきますよ」
「おや、オリビアは君のことが好きだったと記憶しているんだがね」
「しかし、もう俺に結婚を迫ることはないでしょう。いずれ女王となる身では、隣国の国王である俺とは結婚できないと、彼女は己の立場を弁えるはずです。兄とは違ってね」
「はは、そうだね。彼女は現実的な子だからね。きっと、正しくこの国を率いてくれるだろう。ジャックがその支えになればいいんだがね」
ウルとダールグレン公爵の視線は、王族が集まる一角から、すぐ近くでマイリを抱き上げた人物に移った。
ウルやロッツよりもいくらか年下に見える若い男だ。
「ぎゃあん、かわいいいいん! ちっちゃあああい!!」
「これ、ジャックおじよ。ひとの耳元で大きい声を出してはならん」
「はわわわっ……ごめんねぇえええ!!」
「だから、うるさいというに」
マイリに眉間をバシバシ叩かれても怯まないのは、アシェラの三つ年下の弟ジャック・ダールグレン。
このちっちゃな姪っ子にメロメロな彼が、今宵が正式な社交界入りとなるオリビアのパートナーを務める。
それだけではなく、やがてはダールグレン公爵と王配の両方の肩書きを名乗ることになるだろうとウルは確信していた。
「こちらも、めでたしめでたし、となるのでしょうかね」
「ははは、何もかも、なるようになるものさ」
何もかもが、ダールグレン公爵の掌の上の出来事のよう。
けれども、そんな現状にヴィンセント国王としては異存はないため、ウルはただ肩を竦めるに止めた。
そんな彼に、ダールグレン公爵がにっこりと微笑んで言う。
「それはそうと、君の方はどうなんだい? マイリとは仲良くやっているかね?」
「ええ……まあ……仲は悪くないと思いますよ」
「ははは、その様子では随分と振り回されているようだね。結構結構。ままならぬ者との日々は、人を育てるのだよ」
「いえ、マイリは正直ままならなさすぎて、気が休まる暇もありませんがね」
わずか三歳だった孫娘が王妃として召し上げられようとも、フェルデン公爵同様、このダールグレン公爵も少しも動じはしなかった。
当のマイリは、自分を取り合った末に取っ組み合いを始めた父ロッツと叔父ジャックの間からまんまと抜け出し、少し離れたテーブルの上を物色している。
お菓子を頬張ってご満悦な横顔は、それはもう文句なしに愛らしく、ウルの頬も自然と緩んだ。
ところが、そんな彼の表情は次の瞬間には一変する。
どこからか、不穏な視線が突き刺さるのを感じたからだ。
興を削がれた心地で彼が見返した先にいたは――先ほど一度視線をやったライン。
しかし、悄然としていたはずの彼の表情も一変していた。
まるで、呪い殺さんばかりの形相で、ウルをじっと睨み据えていたのだ。
とはいえ、ラインごとき相手に怯むようなウルではない。
こちらが余裕の表情でまっすぐに見返せば、あちらはとたんに目を泳がせ始めた。
まったくもって取るに足らない。ふん、とウルが鼻を鳴らす。
ところがである。
次の瞬間、その表情はまたもや一変することになる。
ヒンメルの大聖堂を笑えないくらい、ウルもまた、ラインの短絡さを甘く見すぎていたかもしれない。
ラインの目が彼から外れ、その少し手前――上機嫌にお菓子を頬張るマイリで止まった。
ウルに睨み返されておどおどしていた男の情けない顔が、とたんに憎悪に染まる。
そうして、ラインはいきなりワイングラスを持つ手を振りかぶり――
「マイリっ!」
あろうことか、マイリに――わずか四歳のヴィンセント王妃に向かって投げたのである。
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