第46話 少年の決意……七月剣の場合③

 あの頃の先生は、馴れ馴れしく図々しくお節介な今とは違って、非常に大人しいというか、ビクビクと怯えてる小動物のような、そんな印象が強かった。


 多分、まだ職場に慣れていなかったんだと思う。


 どことなく余裕のないような、自信のないような様子が目に着いていた。


 そんな、普通の生徒ととすらコミュニケーションを取るのに苦労していそうな新任の教師に、当時の俺と言う存在は異質を通り越して害悪だったはずだろう。


 実際に、俺が保健室の扉を開けた時、先生の顔は一筆書きでもできそうなほどに歪んで崩れ、動揺しているのが手に取って分かるくらいだった。


 そんな先生に対して、「あぁ、コイツもか。コイツも、他の奴らと同じように俺を敵とみなしているのか」と一瞬で見切りをつけた俺は、死ぬ程不愛想に、それでいて不機嫌にテーピングを借りる旨を伝え、勝手に保健室の棚を漁り、勝手にその場で治療を始めた。


 そうして、適当にテーピングをグルグルと巻いていると、少しだけ震えた声で先生が声を掛けてきた。




「ね、ねぇ……」




 勝手に棚を漁った事を叱られるのだろうか。


 やっぱり、腐っても教師は教師なんだなと少しだけ見直し、それでも攻撃的なスタンスは崩さずに、文句があるのかと言わんばかりに彼女を睨みつけた。


 今思えば最低というか世紀末かよと呆れてしまう行為も、当時はそれが当たり前で。


 そんな救いようのないクズに対して、先生は言った。




「テーピング、そんな巻き方じゃすぐに解けちゃうし、上手く固定しないと余計悪化しちゃうよ? ……もし良かったたら、私がやろうか?」


「……は?」




 先生のその言葉に、俺は驚いた。


 何ゆえに、こんなオラついたガキに手を差し伸べるような思考回路に陥ったのか。


 それが理解できなくて、少し怖くなった。


 その小さな体で向かってくる先生の姿に、得体の知れない恐怖を覚えたくらいだ。


 でも、心のどこかでは、やっぱり腐っても教師は教師なのかと見直したというか、ほんの少しだけ、嬉しい気持ちが芽生えていたわけで。




「……いや、大丈夫です」


「で、でも……」


「本当、大丈夫ですから……」




 自分が置かれている状況が良く分からなくなって、訳も分からず畏まった敬語を使い先生の申し出を拒否した。


 すると、先生はむぅっと膨れて、俺との距離を詰めた。




「貸して」


「はい?」


「だから、貸して」


「いや、だから大丈夫ですって……」


「私はこの学校の養護教諭です。だから、生徒に少しでも危害が及ぶ可能性のある状況を黙認する事はできません。ほら、巻いてあげるからおいで」


「は、はぁ……」




 先程までとは打って変わって、強気に、そう言う彼女。


 俺の態度に痺れを切らしたのか、それとも元々がこんな性格で、猫を被っていただけのか。


 180度路線が変わったその様子に俺は驚き、気落とされ、思わず要求を呑んでしまった。




「うわ、すごい豆」


「はぁ……」




 自分が座っていた椅子の前に丸椅子を置き、そこに俺を座らせると、先生はさっと両手で俺の右手を掴み、手のひらを撫でるように触った。


 大人の女性に初めて触れた事や、数ヶ月人との関わりを持っていなかった状況も相まって、ドキッとしてしまった。


 誰も近寄りたがらなかった自分の手を、こうも簡単に握ってくれる人間がいるのかと、そう感動してしまったのかもしれない。


 けれど、そんな気持ちを悟れるわけにもいかないので、動揺を隠し、興味のないような返事をして、必死に煙たがっている自分を演じた。


 この学校に入学してから、こんな柔らかくバカみたいな気持ちになったのは初めてだった。


 それに、近くで見るとこの先生、結構美人だな……




「野球……なわけないよね、袴着てるし。えーっと、剣道やってるの?」


「まぁ、一応……」


「そうなんだ! すごいね!」




 偽りのない、それでいて嫌味のない、ただ純粋に敬意と好感だけが込められた笑顔を向けながら、先生が言った。


 小さい頃から剣道をやっている俺からすれば、それはもはや当たり前の事で、褒められる要素なんて一つも存在しないのだけれど。


 あまり関わりのない人からすれば、特別に見えるものなのだろうか。


 どちらにせよ、そう思ってもらったり、褒めてもらえることは悪い気はしなかった。


 荒んでいた分余計に、その女教師の無邪気な子供のような反応が心に染みる。


 そうしていくつか言葉を交わした後に、先生は俺の袴の袖を捲り、治療に入ろうとした。


 油断していた俺は、思わず先生の手を払いのける。


 擦り傷、痣、打撲。


 普通の高校生では有り得ないくらいのケガを負っているのを、うっかり忘れてしまっていた。


 見られたくなかった。


 しかも、教師に。


 このケガを見たら、教師なら十中八九いじめの存在を疑うだろうし、そこから発展して部活が停止処分になったりするのが俺は嫌だった。


 誰かに泣き付くような真似をしたくなかったし、誰かに同情されるような真似はされたくなかった。


 自分で蒔いた種は、自分で刈り取りたい。


 気に食わない奴らに御礼参りだってしてないし……とにかく、俺が抱える問題が公になるのは避けたかったのだ。


 しかし、案の定先生は唖然としていて、俺の腕を見て言葉を失っていた。


 まずい、面倒な事になったと、そう思った。




「これ、部活でやったの?」


「……はい」


「これ、部活の域超えてないかな?」




 突然大人の表情になってそう問い詰めてくる先生に、俺は困り果てた。


 おそらく、浮気を問い詰める時、女性はこういう顔をするのだろう。


 先程までのほんわかとして雰囲気は消え、刺すような瞳でこちらを覗いた。


 なんとなく、どんな言い訳をしても信じてもらえなさそうな空気があったので、無駄な抵抗はせず、シンプルに自分の想いを伝えた。




「いや……これは今の自分に必要な事なんで。乗り越えなきゃいけない試練と言うか……だから、大丈夫です」




 嘘はつかずに堂々とそう宣言すると、先生は黙った。


 そのまま数十秒悩んだような素振りを見せ、その後に、今度は俺の両手を優しくつかんで言った。




「……分かった。君がそう言うのなら、これ以上深追いはしないよ。でも、約束して。何か困った事があったら、必ず私や周りの大人に相談する事。できる?」


「……はい」


「うん、絶対だからね」




 有無を言わせぬその勢いに、俺は素直に首を縦に振った。


 すると、先生はまた優しく柔らかい笑みを浮かべ、腕の治療を再開する。


 優しく腕を撫でながら、彼女が言う。




「君は……頑張り屋さんなんだね」




 その言葉は、荒れ狂った俺の心に深く突き刺さった。


 誰からも腫物扱いされ、ずっと否定され続けてきた。

 

 たった数ヶ月の出来事なのに、それが今までの全てのような、自分の全てを否定されてしまったような、そんな感覚に陥っていた。


 どうせ、誰も俺を信用しないと、誰も俺を分かってくれないと。


 見た目や勝手なイメージだけで判断して、距離を取るんだと、そう考えて不貞腐れていた。


 でも、そうじゃない。


 今、俺の目の前で、俺の手を握ってくれている人は、そうじゃなかった。


 こんなにも優しく自分の手を握ってくれる人が、この学校にいるだなんて思わなかった。


 目を向け、知ろうとしてくれる人が。


 理解して、労ってくれるような人が。


 俺は、誰かに認めてほしかっただけなのかもしれない。


 頑張っているよと、そう言ってもらえるだけで、今までの全てが報われたような、そんな気がした。


 同時に、今までの自分の在り方が、すごく惨めで幼くも思えてきた。

 

 俺は何をやっていたのだろうかと、熱い湯を掛けられて目を覚ましたような気分になった。




「よし、おしまい! これで大丈夫なはずだから……あ、でも、あんまり無理しちゃだめだよ?」


「は、はぁ……」




 テーピングを終えた先生は、軽く俺の手を叩くと、そう言ってニコッと笑った。


 俺はというと、また鬱陶しそうな声を出して、碌にお礼も言わずに保健室を後にした。


 不愛想な表情、物騒な風体、不機嫌な態度。


 しかし、それは偽物の作られた姿で。


 いつもとなんら変わりのない、そんな自分を無理やり演じ切った。


 心臓が、ドクドクと脈を打つ。


 先生に触れられたその場所から、全身が燃えるように熱くなる感覚を覚えていた。







 その日からだろうか、むしゃくしゃした時や、腹が立った時、先生の顔が頭の片隅に浮かぶようになったのは。


 たった一度、話をしただけなのに。


 彼女の声や笑顔が頭の中から離れなくなって、逆にむしゃくしゃしたり、腹を立てること自体が少なくなっていった。


 それから、ケガをした時は保健室に通う事が多くなった。


 殺伐とした日々の中の、ほんの小さな癒し。


 けれど、それが心の支えになっていたのは誰でもない自分が良く知っていた。


 彼女の存在があったから、俺は折れず、そして捻くれ曲がる事もなく在り続けられたんだと思う。


 先生と話をするようになってから、理由は良く分からないけれど、物事が上手く進むようになった。


 三年生のしごきにも段々と慣れ初め、最後の方にはむしろ俺がアイツらを手玉に取るようなことが多くなった。


 時にはいつものようにこっぴどくシバかれる事もあったけれど、ケガをすれば保健室に顔を出すことができたので、苦にはならなかった。


 そうして三年生は引退し、俺の手元には必死に磨き上げた実力だけが残った。


 その間、何度も何度も先生に話を聞いてもらい、癒され励まされていた。


 この時点で、先生は俺にとって特別な存在になっていたんだと思う。


 唯一、信用して心を許すことができる大人。


 それがどれだけ心の支えになっていたのかは、言うまでもないだろう。

 

 先生の言う事なら無条件に信じていたし、実際にそうする事で全てが上手く回るようになった。


 三年生が引退して、部活が新体制になる時もそうだ。


 あの鬱陶しい三年生がいなくなるのは嬉しいけれど、俺の腫物扱いは変わらないだろうなと愚痴ってみると、先生はいい機会だから、一度思ってる事を正直に話してみたらどうだとアドバイスをくれた。


 恥ずかしいし、何度もプライドが邪魔をしたけれど、俺が三年生と揉めることで部の雰囲気を悪くしていたのは事実なので、ある日の練習終わりに当時の部長に時間をもらい、皆に頭を下げた。


 今更頭を下げたところで何も変わらないだろうと思っていたが、現実はそうでなくて。


 二年生は俺に手を差し伸べてあげれなかった事を悔い、一年生は泣いて謝ってきた。


 皆、ずっと三年生に対して不満を持っていたけど、怖くて逆らえなかったと。


 七月一人に全てを背負わせてしまって申し訳なかったと、そう言ってくれたのだ。


 正直、驚いた。


 ずっと煙たがられているばかりだと、そう思っていた。


 けれど、本当はそうではなくて。


 皆、ちゃんと俺の事を見てくれていたと、それに気づいて、不貞腐れていた自分が馬鹿みたいだなと思った。


 二度とこんな事が起きないようにしようと。


 部員全員で剣道に真摯に向き合おうと、そう固く誓ったあの日の事は今でも忘れていない。


 多分、先生が背中を押してくれなかったら、皆の気持ちを知る機会はなかったと思う。




 俺が同級生に怖がられている様子を心配してきた時もそうだ。


「顔が怖いんだから、せめて態度や表情くらいは柔らかくしなさい! あと、挨拶! 必ず自分からする事!」


 お節介にも思える言葉の数々も、実践してみると意外と効果はてきめんで。


 自分から話しかける機会が増えるたびに、誤解は解け、友達も増えていった。


「話しかけられたくないのかと思っていた」と、口々に皆は言った。


 まじか……全部俺が悪かったのか……と、初めの頃は少し落ち込みもしたけど。

 

 “細かな勘違いが、大きな誤解を生む”


 それを学べただけで良い経験になったと、そう過去をあっさり割り切れるくらいに、俺の心は成長していた。




 どれもこれも、先生がいなければ解決しなかった問題で。


 あの時、先生に声を掛けられなかったらどうなっていたのだろうかと思うと、今でも少し怖くなる。


 今の俺が存在するのは、全部先生のおかげだった。


 保健室で、笑顔で迎えてくれる先生がいなかったら、一体どうなっていたのだろうか。


 もしかしたら、どこかで折れて、学校に来なくなってしまっていたかもしれない。


 もしかしたら、心は折れずとも我慢の限界を迎え、暴力事件でも起こしてより一層孤独になっていたかもしれない。

 

 それを思えば、先生には頭が上がらなかった。


 そして、先生に全てをもらった俺が先生の事を好きになるのにも時間はかからなかった。


 普段は抜けているのに、いざという時は親身に寄り添って頼りになるところも。


 生徒想いで、優しいところも。


 先生の全てが、俺は愛おしかった。


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