第43話 少女の恋……百瀬香奈の場合⑭
しばらくして戻ってきた七月は、険しい顔つきをしていた。
七月が、中で何をしてきたのかは分からなかった。
けれど、私には到底言えないような事を、彼はしてきたのだろう。
チンピラ達の叫び声から、容易に想像できた。
決して、好きでやっているわけではない。
七月はきっと、アイツらが私に報復などを企てないように、やりたくもない事をやってくれたんだと思う。
けれど、根っこの部分が優しいから。
たとえ悪人であっても、人をいたぶる事に、嫌悪感を覚えてしまっている。
私のために、七月は業を背負い、苦しい想いをしているのだ。
そんな彼に、私はなんて声を掛けていいのか分からなかった。
「……帰るか」
「……うん」
伏し目がちに声を掛けてきた彼に、そう頷くので精一杯だった。
大きいのに、やけに寂しく見える七月の背中を追う。
無言のまま、二人暗闇の中を歩く。
数メートル程離れた距離を、置き去りにされまいと、必死について行った。
けれど、数分程歩いたところで、鈍い痛みが足首に走った。
先程、チンピラ達に縛られたところが、酷く痛む。
我慢できなくなって、その場にしゃがみこむ。
すると、私の異変に気がついたのか、七月はゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、聞いた。
「どうした」
「あっ……ごめん……ちょっと足が……」
「足? 見せてみろ」
七月はそう言って、私の足を触った。
赤く、血の滲んだ皮膚を、七月のざらざらとした大きな手が這う。
「これじゃあ歩くの厳しいよな?」
「えっと……」
「タクシーは……駅まで行かないと無理か……」
そうして、七月は深く息を吐き、私に背中を見せてしゃがみ直した。
それが何を意味するのかが分からずに、私はフリーズする。
そんな私に痺れを切らした七月が、言う。
「乗れ」
「え?」
「だから、乗れ」
「の、乗れ?」
「……俺が、タクシー拾えるとこまで背負うから」
「え、いや、そんな、いいよ。悪いし、それに、私、重いから……」
「いいから乗れ」
「うぅ……」
物を言わせぬ勢いで押し切られ、なし崩し的に七月の背中におぶさる私。
羞恥心と罪悪感、その二つが入り混じって、頭がおかしくなりそうだった。
七月の背中は、やっぱり大きくて、温かくて。
そこにいるだけで、心安らぐような安心感があった。
そんな心優しい七月に、私は業を背負わせてしまった。
苦しく、悲しい想いをさせてしまった。
私が弱く、何もできないばかりに。
そう思うと、自分に対する情けなさと、七月に対する罪悪感が止めどなく溢れた。
想いは涙になって、私の頬を伝う。
ひっく、ひっくと声をあげながら、私は七月に言った。
「七月……」
「何だ」
「ごめん……ごめんね……私のせいで……」
堪らなくなって、耐えられなくなって。
そう、何度も、何度も、何度も、七月に謝った。
すると、七月は呆れたように笑いながら言った。
「いや、別にお前が悪いわけじゃないだろ」
「でも……」
「でもじゃない。誰が何と言おうと悪いのはあのチンピラ共で、お前は被害者だ。だから謝るな、あと泣くな」
「うぅ……」
七月のその言葉に、私は余計に分からなくなった。
何を言っても、何を嘆いても、何を悔いても。
きっと、七月は私を責める事はしないのだろう。
懺悔の気持ちはあるのに、償うことはできない。
こんな稀有なケースは初めてだったから、どうしたらいいのか分からなくなってしまっていた。
あぁ、どうして、七月はこうも私に優しくしてくれるのだろう。
何か、特別な理由でもあるのだろうか。
「……どうして、七月は私のために色々頑張ってくれるの?」
「は?」
「今日だって……いや、今までだってずっと。ブーブー文句を言ったりしても、絶対に私に手を貸してくれたから……それが、なんだかすごく不思議で……」
「いや、助けたつもりなんかないけど」
「で、でも……」
「気のせいだろ」
「……そっか……そうだよね……」
堪らず、七月に直接聞いてみるも、返ってきた答えはとても無機質なもので。
心のどこかで、期待していたのかもしれない。
何か、七月にとって執着するような部分が、私にあるんじゃないだろうかと。
そんな、淡い期待に縋っていた。
でも、そうではなくて。
私達の間には、本当に何にもなくて。
縋って、執着していたのは私だけで。
あまりにも悲しく、虚しくなって、私は口を噤んだ。
七月に背負われたまま、無言の時間が何分も続く。
そうして少しの時間が過ぎた後、何かを察したのか、溜息をついて、七月が言った。
「なんとなく、自分と似てると思ったからだよ」
「……え?」
ボソッと放たれたその一言に、私は困惑する。
七月が何を言っているのか、何を思ってそう言ったのかは、分からなかった。
混乱している私を尻目に、七月は低い声音で、続く言葉を口にした。
「お前は凄く負けず嫌いというか……芯のある人間だと思う。女の癖に、絡まれても怯まずに応戦したり、言いずらい事とかもハッキリと言えたり……なんて言うか、そう言うの簡単にできることじゃないから、そう言う生き方は憧れるというか……正直、羨ましかったし、嫉妬もしてた、負けたくないって。だって、それは俺が目指す人間像そのものだったから」
途切れ途切れに聞こえる七月の声が、七月の言葉が、私の胸を叩き、砕く。
その言葉の一つ一つが、心の奥深くに刺さり、じわりじわりと浸食していく。
また、目に涙が滲んだ。
「だから、負けてほしくなかった。お前が苦しんだり、折れる姿を見たくなかった。だって、それは自分が否定されるのと同じだから。まぁ、全部俺の勝手な想像で、押しつけがましいお節介だったから、お前にとっては迷惑だったかもしれないけど」
少し照れたように笑いながらそう言う七月に、私の胸は締め付けられた。
濁りのない純度100%の想いが、今にも溢れて止まりそうにもなかった。
けれど、理性が、常識が、それらを必死に堰き止める。
今更、素直に自分の気持ちを伝える事なんてできないだろう。
答えは分かっているのに、結末は決まっているのに、伝える意味は果たしてあるのだろうか。
これ以上七月に迷惑を掛けて、困らせるわけにもいかなかった。
だから、だから……
「ねぇ、七月」
「ん?」
「私、アンタが好き」
だけど、抑えきれなかった。
我慢できなかった。
断られるのを分かっていても、拒絶されるのを知っていても、止められなかった。
初めて、自分の意思を、自分の気持ちを、自分以外の誰かに伝えることができた。
初めて、素直になれた。
それも、一番伝えたい気持ちを、一番伝えたかった相手に。
それだけで、全てが報われたような気持ちで胸が一杯になった。
たった一言、そう言っただけなのに。
「……百瀬、俺……」
「言わないで」
七月が言う前に、それを制止した。
七月が何を言いたいかは、分かっている。
その上で、自分の気持ちを優先させて、我儘な想いを私は口にした。
だから、言ってほしくはなかった。
きっと、七月は「ゴメン」と、律儀にそう謝ってくれようとしたのだろう。
きっとそうだ。
七月がそういうヤツだって事は、誰よりも知っているつもりだから。
だからこそ、聞きたくなかった。
七月に不憫な思いをさせたくなかった。
悪いのは、私なのだから。
「その人と……うまくいくといいね……」
「……おぅ」
音の無い暗闇の中に、私達の小さな声だけが響いた。
もう、七月と対等でいたいだとか、振り向いてもらいたいなんて思わない。
そんな決意を込めた言葉だった。
けれど、その代わりに……
『何があっても、私だけはこの人の味方でいてあげよう』
と、そう思った。
何があっても、私だけはこの人を側に居てあげよう。
何があっても、私だけはこの人を肯定してあげよう。
何があっても、私がけはこの人の背中を押してあげよう。
私の“青春”の全てを捧げて、この人の事を想おうと。
そんな、諦めの悪い醜い感情を腹に、私は七月に聞いた。
「ねぇ、七月」
「なんだ」
「私達、友達にならない?」
「は?」
「だから、友達。彼女は無理でも、それくらいだったらいいでしょ?」
「いや、そんな事突然言われても……あーもう、いいや、好きにしろ」
「約束だよ?」
「…………」
「ねぇ」
「分かったよ」
「ふふ……恋愛相談ならいつでも待ってるから」
「それは絶対に断る」
「何でよ!」
夜闇の中に、私の声が響いた。
それを皮切りに、また、いつものように七月と話すことができた。
乱暴で、品がない、けれど、どこか柔らかくなった言葉をお互いに交わす。
たとえ、七月の特別にはなれなくても。
笑ったり、怒ったり、泣いたり。
そんな何でもないような日々が続けばいいなと、そう思った。
今はまだそれでいいと、そう思った。
そんな会話の合間に訪れた、不意の沈黙。
その一瞬に、七月の顔を覗き見た。
何かを思い出し、噛み締め、覚悟を決めたような表情。
七月の瞳には、決意の色が満ち溢れていた。
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