第42話 少女の恋……百瀬香奈の場合⑬

 七月に宥められ、ようやく泣き止んで携帯を見ると、鬼のようにメッセージと着信履歴が溜まっていた。


 全部、ママからだった。


 慌てて電話を掛けると、七月に続いて、また怒号が飛んできた。


 普段日本語で話すママが英語でまくし立てるのは、相当怒っている時だけだ。


 必死に謝り、遊びに夢中になって気づかなかったという嘘と、今すぐ帰るという事実を混ぜて伝え、ひとまず安心させた。



 迎えに行くというママの申し出を何とか却下し、逐一状況をメッセージで報告するという条件で納得してもらい、私は電話を切った。


「ゴメン、ママからだった」と七月に謝ると、七月は「そうか」と短く頷いた後、難しい顔をした。


 何かを考えこむ七月を黙って見つめていると、七月はすうっと息を吐き、私を見つめた。


 その目は、覚悟を決めた男の目だったように思う。




「百瀬」


「な、なに?」


「こいつらの事、どうしたい?」


「え?」


「もし、お前がこいつらの事をどうしても許せないって思うなら、警察に突き出して、然るべき罰を与えるべきだと思う。ただ……」




 七月の問いに、私は面を食らった。


 そこまでは考えていなかった。


 けれど、そこまで考えなければいけない程、私は酷い仕打ちを受けたんだと思う。


 悩んだ。


 確かに、こいつらの事は死ぬ程憎かった。


 それに、ここで私が見逃してしまえば、他の誰かがまた、私のような目に合ってしまう可能性だってあった。


 だから、本当だったら、全てを公にして、裁きを与えるべきなのだろう。


 でも……でも。


 私には、いいや、私達には素直にそうできない理由があった。


 それは、七月が必要以上に相手を傷つけてしまったという事だ。


 いくら筋の通った理由があって、いくら防衛のための暴力だったとしても。


 警察などの公的機関に事件の処理を頼めば、確実に七月までもが罰せられるのは明らかだった。


 法は、感情に捕らわれない。


 機械的に、残った事実だけを裁く。


 それに、たとえ罪に問われなかったとしても、武道を嗜む者がやみくもに暴力を振るった事実が公になれば、七月の選手生命は絶たれかねない。


 だから、ほんの少しでも七月に迷惑が掛かる手段を、私は選択する事ができなかった。


 それを分かっているから、七月も迷ったような表情をしていたのだろう。


 七月は、私のために頑張ってくれた。


 七月は、私のために傷ついてくれた。


 そんな人に、これ以上何かを背負わせるわけにはいかなかった。


 私を救ってくれたヒーローに、業を背負ってはほしくなかった。




「……ううん、大丈夫。だって、警察に言ったらかなり面倒な事になるでしょ? それに、これ以上七月に迷惑を掛けるわけには……」


「いや」




 私が、自分の素直な気持ちを言葉にすると、七月は難色を示した。


 言葉を遮られ、否定される。


 そうして七月が続けた言葉に、私は絶句した。




「俺の事は気にしなくていい。こいつらを裁く上で、俺がやったことも罪に問われるって言うのなら、受け入れる。ただ、公にするとなると、百瀬自身も周りから変な目で見られるかもしれないから……だから、よく考えて、自分が一番納得できるように……」


「なっ……」




 七月の言葉に、私は驚いた。


 こいつは、自分の身なんて全く案じていなかった。


 それどころか、私の気持ちを優先するために、自ら泥を被っても構わないと、そう言い切ったのだ。


 その気持ちは嬉しかったけれど……いいや、全く嬉しくなんてなかった。


 


「絶っっっっ対に無理!」


「……は?」


「自分のためにアンタを売れって言ってるの? そんなの絶対に無理!」


「違ぇよ。そういう事じゃなくて、俺はただお前が一番納得できる方法を……」


「こいつらに何の仕返しもできずに見逃すのは悔しいし、嫌だけど、仮に然るべき罰を与えて、それで七月が酷い目に合うっていうんなら、いらない。それくらいだったら、こいつら全員燃やして私も死ぬ」


「お前……何言って……」


「七月は私のために頑張って、酷い目にあったのに、その責任まで七月に背負わせて、私一人だけが被害者面するなんて、そんな事できないよ。七月に迷惑を掛けた分は、私も背負う。だから……そんな事言わないでよ……自分を大切にしてよ……」


「百瀬……」




 ポロポロと涙を流しながら、七月に感情的な言葉をぶつけた。


 かなりおかしなことを言っているのは、自分でも分かっていた。


 きっと、七月は私が咎めたような意味合いでそう言ったのではなくて、私のためを思ってそう言ってくれたんだと思う。


 でも、そんな温かい想いは、今の私には苦しかったし、受け止めきれなかった。


 だって、それを受け入れてしまえば、私は七月と対等ではなく、脛を齧る事しかできない女なのだと認めてしまうようなものだったから。


 ただでさえ、七月には大きな迷惑を掛けてきたのに……


 これ以上の罪悪感に、私は耐えられる気がしなかった。


 それに、何よりも。


 七月が、私の前からいなくなるのは考えられなかった。


 どんな形でも側に居たいと、そう思った。


 だから、私は七月の提案を断った。


 悔しさ、悲しさ、恐怖、様々に入り乱れる感情よりも、七月を失う事がなによりも怖かった。

 

 だから、素直に、自分の気持ちを優先させた。




「分かった……」




 私が泣いて懇願すると、七月はしばらく考えた後に、その重い首をゆっくりと縦に振った。


 安心して、涙で濡れた目を擦り、もう一度七月の顔を見る。


 その表情は、まだ何かを思案しているような、難しい表情をしていて、私はなんて声を掛けて良いのか分からなくなった。


 そうしてしばらく経った後、七月が口を開いた。




「百瀬、15分だけ外で待っててくれ」


「えっ……」




 七月のそのお願いに、私は嫌な予感がした。




「……ど、どうして?」


「いや、大丈夫だ、すぐ終わるから。何かあったら大きい声で呼べよ」


「何をする気なの?」




 恐る恐るそう聞いたのは、七月の目がまた獲物を狩る獣のように豹変していたからだ。


 暴力的な、いつもの七月とは違った厳格さが立ち込める雰囲気。


 それを感じ取ったから、不安に駆られてしまった。




「今日起こった事は公にしない。それはお前と約束したから守るよ。でも……」


「……でも?」


「でも、俺は個人的にこいつらを許すつもりはない。それに、このまま逃がしたら、こいつらはまた同じような事をして、誰かを傷つけるかもしれない。バカは、一度や二度痛い目をみたくらいじゃ反省しないから」


「えっと……七月がそう思ってくれるのは凄く嬉しいし、言ってる事もすごく理解できるよ。でも、じゃあどうしたらいいの……」




 七月の言い分には、全面的に賛成できた。


 でも、全てを解決する方法がないから困っているわけで、だから、泣き寝入りをしてでも七月を守るという選択を取ったわけで。


 これ以上上手くこの騒動を収める案が、私には浮かばなかった。


 でも、七月にもっといい考えがあると言うのなら、私はそれに従って……




「あぁ……だから、痛みを体に染み込ませて、恐怖で解らせる」




 信じて託した私の思いは、いとも簡単に打ち砕かれて、裏切られた。

 

 そう言う七月の目は、今までになく濁り、ギラついていたと思う。


 コイツはまた、自分一人を犠牲にして、自分一人が泥を被ろうとしている。


 私は、それがたまらなく嫌だった。


 七月の、感情が殺された裏の姿を見るのが怖かった。


 今日一日、色々な七月の姿を見て、色々な側面を知った。


 普段の学校生活では見せない姿だったけど、どれも可愛くて、愛おしくて。


 本当はこんなにも優しい子供みたいなヤツなんだなという事を知ることができた。


 だからこそ、七月には今みたいな顔をしては欲しくなかった。


 でも、でも。


 私の体は、動かなかった。




「そんなに心配しなくても大丈夫だ。すぐ、終わるから」




 一度だけ、にこりと屈託のない笑顔を私に向け、七月は廃工場の中へと消えていく。


「止めろ、止めろ」という言葉が、何度も自分の頭の中に巡る。


 けれど、どれだけ言葉が沸き上がっても、願っても、それを実行する事は出来なかった。


 何故なら、七月の案を上回る策を、思いつくことができなかったからだ。


 七月一人に責任を負わせたくないなんて言っておきながら、その実は、私は何の役にも立たなくて。


 また、七月一人に全てを背負わせようとしている。


 あぁ、私はなんてダメな人間なんだろう。


 あぁ、私はなんて頼りのない人間なんだろう。


 つい先ほど、七月が私に向けた笑顔が、作られたものだと気づいていたのに。


 私は、何も言えなかった。

 

 知っていたのに、止められなかった。


 その事実が、重く心にのしかかる。




 夜の廃工場に、チンピラ達の断末魔の叫びが響く。




 私は、それを聞いて一人、震えていた。


 まるで、両親とはぐれて心細く泣いているような、何もできない子供のように。


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