第41話 少女の恋……百瀬香奈の場合⑫
“人が飛ぶ”という現象を、生まれて初めて目のあたりにした。
映画やドラマなど、そう言ったフィクションの世界ではありふれているような事も、心のどこかでは作り物だと、人の目を引き付けるための嘘だと、そう思っていた。
けれど、違う。
それらの虚構は、決して嘘なんかじゃなかった。
なぜなら、今、私の目の前で、現在進行形でそれらの現象が巻き起こっているからだ。
未だに信じられず、これは夢なのではないかと現実を疑ってみる。
そう思うくらいに、私はにわかに信じがたい光景を目にしていた。
波のように襲い掛かるチンピラ達を、風のように受け流し、嵐のように吹き飛ばす。
ナイフや鉄パイプなどの凶器を持ち、しかも数人束になって襲うという卑怯な行為に及んでも、関係なかった。
どれだけあがいても、どれだけもがいても、傷一つつけられない。
それどころか、卑怯で危険な奴ほど、より鈍い音を立てて地面に叩きつけられていた。
圧倒的な力で、チンピラ達を切り捨てていく。
まるで“侍”みたいだと、そう思った。
見たこともないし、詳しい訳でもない。
けれど、私の体に半分だけ流れる日本の血が、それを肯定し、納得してしまっていた。
それほどまでに、アイツの剣技は美しく、力強かった。
“剣”と言う名前が相応しいと、そう思ってしまった。
全てを終えた七月が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
そうして私の側まで来ると、七月は自分が着ていたシャツを脱いで、私に掛けた。
ドクンドクンと、心臓の音が鳴り止まない。
全身に、生暖かい感情の波が押し寄せてる。
それが恐怖から来るものなのか、安心感から来るものなのかは分からなかった。
けれど、多分。
この感情は、それらのものとは別物なのだろう。
これはもっと、幼稚で、単純で、まるで恋する少女が抱くような、そんな感情。
だって、ただでさえ大好きなのに、こんなヒーローみたいに助けに来られたら……
まずい……こんなの……
しかし、浮かれている私とは対称的に、七月の表情は険しかった。
ギロリと私を睨み、歯を食いしばっている。
そうして、自分で被せたシャツの胸ぐらを掴んで、叫んだ。
「バカかお前は!」
七月の怒号が、室内に響く。
ビリビリと、鼓膜が揺れる。
何が起こったのか分からない私は、キョトンとした顔で、ただただ七月の瞳を見つめていた。
その瞳は、微かに潤んでいたような気がした。
「ほんと……何かあったらお前……」
シャツを掴んだ手を放し、そのまま両手を私の肩に添える七月。
その手は小さく、小刻みに震えていた。
七月に本気で怒られるのは初めてだった。
けれど、それ以上に、七月の怯えるような、震える姿に胸を締め付けられた。
もしかしたら、七月も怖かったのだろうか。
一人で何十人もの不良を相手にするのに怯えていたのだろうか。
いいや、違う。
七月は、そんな臆病な人間ではない。
それなら、何故、震えているんだろう。
……あぁ、そうか。
七月はきっと、私が危ない目にあった事が、側にいて守ってあげられなかった事が不甲斐なくて、怖くて震えているんだろう。
優しくて、面倒見のいいヤツだから。
自分に非なんて全くないのに、それでも自分を責めて、私にこんな思いをさせてしまった事を悔いているのだろう。
七月にこんな顔をさせてしまうくらいに、私は危ない目にあったんだ。
それに気付かず、自覚もしない私は、なんて大馬鹿者なんだろう。
「ごめん……ごめん……」
泣きながら、七月に抱き着いた。
色々な感情が、胸の中に渦巻いた。
七月にこんな思いをさせてしまった不甲斐なさ。
危機感の足りない自分の愚かさ。
それらがぐちゃぐちゃに入り混じって、訳が分からなくなっていた。
けれど、涙の理由はそうではない。
流れた涙に、理由なんてなかった。
純粋で真っ直ぐ暖かい優しさに触れて、涙腺が壊れてしまったのかもしれない。
いつも沢山迷惑を掛けてごめんなさい。
頑固で高飛車で、素直になれない可愛げのない人間でごめんなさい。
心優しい君に、人を傷つけるような事をさせてしまってごめんなさい。
本当は君のことが大好きで、大切なんだよ。
でも、自分の気持ちを表に出すのは怖くて、恥ずかしくて。
だから、素直な気持ちを言葉にできなくて……
臆病な私で、本当にごめん。
素直な気持ちが、心からの本音が、涙に乗って言葉になる。
それは、ずっと私が夢見たことだった。
自分の気持ちを素直に伝えられる。
きっと、それができた時、私は成長して、精神的に大人になるのだろうと、ずっとそう思っていた。
けど、現実はそうではなくて、私はみっともない子供のままだった。
でも、不思議と悲しくはなかった。
何故なら、一番素直に気持ちを伝えたかった相手に、伝える事ができたから。
前向きな言葉でも、美しい感情でもないけれど。
今は、それで充分だった。
暖かく、大きな七月の腕の中で。
過去と、未来と、現在の自分を噛み締めて。
私は、ずっと泣いていた。
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