第5話
藤宮氏の家はマンションの四階だった。明かりのついた玄関にあるのは男物の靴だけ。誰かと一緒に住んでいる気配はなかった。
「一人、なんですか?」
「帰るかい?」
藤宮氏は見透かしたようにきいてきた。
「いえ」
私は靴を脱ぐと藤宮氏の後に続いた。狭い廊下を進むと、左手に楽譜や本が並べられた部屋があった。案内された部屋にはピアノが一台と名前を知らない楽器がいくつかあった。
藤宮氏がお茶を淹れに台所へ向かうと、私は一人、ぼうっとピアノを眺めていた。
どんな人か会ってみたかった。あれだけ人に慕われた母が、ノートに子供のようにおわりと書きなぐってやっと終わりにさせた恋というものを。だが率直に言うのはためらわれた。かといって曖昧にしては伝わらない。考えていると目の前にお茶が置かれた。お茶を淹れることなどないのだろう、ずいぶんと薄いお茶だった。
どちらとも話し出すこともなくお茶をすすった。何から切り出していいかわからなかった。藤宮氏は自分から話をする気はないようだった。私は湯飲みを置いた。
「母の遺した楽譜に先生のものがありました」
「そう。それで今日はコンサートに?」
藤宮氏は自分用に淹れたコーヒーをすすった。
「ベートーヴェンやショパンに混じって置いてある現代の作曲家というのに興味があったので」
「本当に?」
彼は私の目を覗き込んだ。彼は私がここにきた理由を理解しているのだ。私はお茶を一口飲んだ。
咲綾ちゃんはお父さんに似ていないねとよく言われた。お母さんに似たのねとも言われた。だけど、目の前のこの人の眉が、鼻が、釣り目がちな目が自分に似ていると思ってしまう。父なのか。その一言が訊けなくて私は別の言葉を切り出した。
「ピアノとピアノカバーの間から、先生の楽譜と一緒にが出てきました。雨の夜に暗い部屋でソフトペダルで、と手書きで書かれたのが」
「そう」
「それと日記が」
「日記?」
「母の大学時代の日記です。あの日、私とあなたが初めて会った日の、母とあなたのことが書かれた日記です」
「僕のこと?どんなことかな。少しこわいな」
藤宮氏は微笑んだ。分かっているのだろうに、自分から言うつもりはないようだった。
「母はあなたのことが好きだったのですか?」
「……若いときは年の近い先生にあこがれることもあるからね」
「だけど、あなたは母を拒絶しなかった」
「僕は教えるのが仕事だ。生徒に嫌われるより好かれる方が仕事がしやすいからね」
「仕事の上のことだったと?」
「もちろん」
それはまるで自分に自分を否定されているようだった。目が、鼻が。こんなに似ている部分があるのに、その一言が喉の奥で絡まっていく。この人は私を認めるつもりはないのだ。
「じゃあ、何のために私を家に連れてきたのですか」
「君が泊まるところがないといったからだよ」
藤宮氏は不思議そうな顔で言った。それが振りなのかどうなのか私にはわからなかった。私の中の狂暴なものが再び頭をもたげた。
「じゃあ、これからずっと泊まるところがないと言ったら、ずっと泊めてくれるのですか」
「君は――」
藤宮氏は驚いた顔で私を見ると、小さく笑った。
「やはり彼女の娘だね。いうことがそっくりだ」
「はぐらかさないでください」
「はぐらかしているつもりはないよ。いたいのならいればいい。だが今日は夜も遅い。話は明日にしよう」
漣のセレナーデ 雪野千夏 @hirakazu
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