第3話

何ページも空白のページを挟んで始まった。学生の文字ではない。私のよく知る母の筆跡だった。


『「生きているうちにもう一度お目にかかりたいです―」という年賀状をさしあげたら、さっそく。

「……さすがぼくのモトデシだ……冬の山を見てみたいと前から思っております。何かアイデアありますか」という年賀状。翌日には先生の作曲された男声合唱のテープと「雪のもっとも深い時期に行けたらいいなあ」というメッセージ。


そしてとうとうおいでになりました。駅でおむかえしたとき、先生の方が早くに私を見つけられ「こんにちは」って手を高く上げて近づいてらっしゃった。車に乗って山を見たり、食事をして「これで……」って黒いお財布をわたしてくださったり。お泊りどうしましょう?とうかがうと、「もういっちゃおう、一番奥まで、お任せします」って。山奥の宿までの車の中は、おうちの話がいっぱい。「娘が」「ワイフが」と。

夕食のとき、何か内容は記憶にないけど、私はあまりおもしろくなくなって部屋に戻って「おフロへいらっしゃるんでしょう」といって自分の部屋に戻り「いっしょだ! いっしょだ! 二十年前と一緒。先生のエゴイスティックなところ変わっていない。失恋のやりなおし!いや、ずっと温めてきた夢やあこがれの週末!会わない方がよかった……、と一人で考えていた。この再会をどう位置付け自分に納得させたらいいのかも含めて。


「よかったらこない?」

と部屋へいらっしゃって、行くとお茶の準備をしてらして。ひいてあった布団をぐっと向こうに押されて。

学校の授業や音楽のこと、作曲のことをいっぱいきいて。そういうお話はとても楽しかった。私は先生のそういう話が好きなんです。目をつむって話してらしたから

「もうお疲れでしょ、寝ましょうか。向こうの部屋寒いからこっちでねようかな」

「うん、ぼくはいいよ」

「見てきますね」

・・・・・・

「残念ながらあったかくなっていました」

「どうしようかな」

「したくなったらどうするの?」

「どうしよう?」

って、手が。


二十年ずっと忘れなかったのは、私の、今の私を創るもとになった方だから。音楽を愛し、音楽を志し、めざしてくるとき、その歩む目標になった方だから。好きでも、好きでも、泣きたいくらい好きでも受け入れてもらえず、しかしあたたかさが感じられる方だから、

山のように登っても登っても自分の者になるどころか、少し近づいたと思ってみると、また遠くへ行ってしまわれる。やっぱり作曲家。作り出す、見つけ出す、観る方だから。


二十年の私の想いは熟したと思います。そしてまたこれからもこの思いを支え手に生きていこうと思います。私らしく。だんだん手あかにまみれていた、ふとっていた自分に気づきました。気づかせてもらえました。

今、会えなかったら、私は青春の日の想いをどんどん失ってだらくしていったと思います。厳しく生きなければと思いました。先生の話をきいていて。


生きているうちに会えて。そしてあんな熟した時をもてて、幸せでした。これで私の望みがかなえられたのですから、その初心を忘れないこと。


今日、テルしたら、「ありがとうございました」って何回も仰って。「若返りの旅だった……」って。こちらこそ、良い旅、塾生の旅をありがとうございました。忘れません。音楽に向かわれる先生の姿    』


そこで、いったん内容は終わった。だが隣のページに続きのような内容があった。だけど、それまでがボールペンで書かれているのに、それは鉛筆で書かれていた。恐らく別日に書いたものなのだろう。


『よくないよ。きっとこれから習慣化したらまわりの人に分かってくると思うんだ。


いいかっ!おいで


やっぱりこれっきりにしよう  美しい思い出として』



そして、もう一枚ページをめくった。


「おわり」「おわり」「おわり」「おわり」


マジックで何度も書きなぐってあった。大きいおわり、小さいおわり、感情のままに書いたのだろう。母の終わらせた恋のあとだった。

劇的な恋というやつだったのだろう。

若いころの恋だ。終わらせた恋だ。そういうこともあったのだな、微笑ましくすら思った。三十に近づいた自分には母の情熱的な恋などその程度のものだった。

そこに書かれた日付に私は息を呑んだ。


1996.8.16  


呆然とマジックで書かれた「おわり」に触れた。

それはあの夏、私が藤宮氏に初めてあったあの年の夏だ。

記憶がよみがえる。


あの夏の日、母がお茶を用意している間だけ、藤宮氏と私は二人きりになった。


「何歳になったの?」

「十歳」

「そう」

初対面の子供にきく当たり前の質問だ。だけど、嫌な予感がした。

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