第2話

母の葬式は賑やかだった。母の音楽仲間がキーボードを持ち込んで合唱した。神妙な面持ちを作っていた葬儀会社の人が思わずぎょっとしていたのがおかしかった。常識的な葬式からはかけ離れた葬式に私は笑った。

北海道から母の音大時代一番仲の良かった田所さんも来てくれていた。隣にいるのは音大時代の仲間だろう。

葬儀後、田所さんたちは家族控室に来てくれた。


「遠いところありがとうございます」

「こっちこそ、教えてくれてありがとう。まさかゆっこがこんなに早く逝くとはねえ」

「そうよ、今度の夏に一緒に遊ぶ予定だったのに」


小柄で上品な女性はハンカチを目元に当てた。菅野さんと名乗ったその人はいいとこの奥様といった感じの人だった。


「本当にねえ」


そういって骨壺を見たのは矢野さんだ。仕事のできる美人さんといった感じだ。母と五十代後半だろうに、どう見ても四十を越えているように見えない人だった。


「あの、藤宮先生って知っています?」

父が他の人の対応をしているのを横目で確認しつつきいた。

「ああ、作曲家の?そういえば習ったわねえ」

「音大には珍しいタイプだったわよね」

田所さんの言葉に菅野さんが昔を思い出すように言った。

「珍しいって?」

「なんて言ったらいいのかな。学者っぽいインテリっぽい人って感じ。およそ音楽やるようには見えない人よ。でもどうして?」

「レクイエムでも弾こうと思ったらピアノカバーの下から直筆の楽譜と手紙が出てきたんです。隠すみたいに」


田所さんは豪快に笑った。

「うわ、本当?ゆっこ結構お熱だったからねえ」

その目は完全に学生時代に戻っていた。

「そうなんですか」

「本当、藤宮氏のどこがいいのか分からなかったけれど」

「確かに、旦那さんの方が明るくていい人だものね」


矢野さんが言えば、菅野さんは親戚に頭を下げている父を見た。確かに父は明るい。場を和ませるためなら、自分が道化の役回りを演じることになんのてらいもない人だ。人とぶつかるのが嫌いなのか優柔不断なところが母をイラつかせているのを何度も見たことがあった。

「本当、あんなに愛のある喪主挨拶初めてきいたわ」

ほんとよねえ、と笑う彼女たちにもう一度お礼を言った。

    

    ※


きっと何かほかにも、どこかにあるはずだ。私の中に確信がうまれた。もし、母が自分の思い出を隠すとしたら。父と共用のスペースは論外。そうなると、ピアノの置いてある部屋しかない。


私は線香の匂いを纏ったまま折りたたみ式の机の前に立った。大学時代から使っているというアップライトピアノくらいの大きさの折りたためる机兼収納はこの家で母以外触っていないはずだ。二つある引き出しを初めて触った。ぎし、と音がした。開かなかった。引っ張ってみると奥で何かが引っ掛かっている。いつもなら父を呼ぶ場面だが、父には言いたくなかった。もしラブレターとか出てきたら微妙すぎる。私は夜中までかかって引き出しを半分くらい開けた。


そこには音大時代に撮った自分が演奏しているカセットテープがあった。その下に五線譜があり、さらにその下に古びた袋があった。

今では珍しい柄の袋に確信する。ぼろぼろになった紙袋から変色したノートが出てきた。

日記だった。1975と子供とも大人ともつかない字で書かれていた。



四冊とも日記だった。音大に入学する直前から始まり、日記には大学生活が綴られていた。だが日記の大半を占めていたのは、藤宮雅史のことだった。入学前からソルフェージュや新曲を習っていた若き藤宮先生に高校生の母はあこがれていた。それは入学後に恋に変わっていた。先生と生徒の距離感だった関係が徐々に縮まり、離れる。もどかしい思いが綴られていた。音楽への情熱以上に、藤宮氏への恋がその日記には詰まっていた。


ドライな人間関係の中で生きてきた私にとっては信じられないことだった。若さゆえの情熱といってしまえばそれまでだが、同じ年だったころ、私はそんな風に人を恋したことがなかった。あまりにかけ離れた存在に、人の日記を読む後ろめたさも加算され、私はぱらぱらと飛ばし読みした。


とりあえず、最後はどうなったのだ。藤宮氏のお嫁さんになりたい、と真剣に語り始めた日記の中の母の恋の結末を知るため私は大学四年生までとんだ。演奏家としてはやっていけないと悟った母は教育者の道を模索していた。卒業を間近にしても母の恋は続いていた。母の一方的なもののように感じたが、藤宮氏も完全に突き放すということもない、そんな関係だった。

母は自分の誕生日の一週間前、藤宮氏に手紙を出していた。どんな内容だったのかは書いていなかった。ただ、藤宮氏から返事がきて就職の祝いとなんでもつきあうといった旨のことが書かれていたらしい。日記の中の母は浮かれていた。


もしかして二人は付き合っていたのか。私はドキドキしながらページをめくった。


そして約束の日の日記は空白だった。

その翌日の日記には「夢のような時間だった。とても幸せだった」と書かれていた。どこで何をしたのかは書いていなかった。


その次の日からの母の日記はまたもどかしい関係について書かれていた。関係が変わったようにも読めたし、変わっていないようにも読めた。

そういう意味ではこの日記は母の感情を吐露しながらも、その実関係性の真実には何も触れていないということに気づいた。


卒業して日記はいったん止まった。

だが、数年後、日記はまた始まった。

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