漣のセレナーデ
雪野千夏
第1話
母が死んだ。突然だった。遺体を居間に置いた始めての夜。私はモーツァルトのレクイエムを弾こうと十年ぶりにピアノの前に立った。グランドピアノは黒いピアノカバーがかかり鍵盤蓋だけが開くようになっていた。防音対策なのだろうけどしっかりと閉められたピアノの屋根の上に置かれた譜面台に少しむっとした。今日くらいいいだろう。
私は譜面台を脇に置いた。ピアノカバーを外すと、ピアノの上に古い封筒があった。A4サイズの封筒、宛名は『山際優子様』。母の旧姓だった。まるで隠していたみたいだ。
そういえば、母はいつからか「鍵盤だけ見えればいいでしょ」と言い出した。毎日ピアノを弾くのに、カバーなんて面倒くさくないのかと思っていた。そういう理由か。随分と可愛らしい隠し場所にアナログ人間の母らしいと思う。私も二十八だ。まあ捨てられない昔の想い出が母にもあったのだろう、そう苦笑することができた。
封筒をめくった。差出人の名は『藤宮雅史』。
私は唾を飲みこんだ。可愛らしいと思っていた思考が覚めていく。左を見た。壁とピアノの間の六十センチ。
そう、あの日。小六の夏休み。一度だけ私はこの人に会った。
この部屋にやってきた「東京からやってきた作曲家の先生」はここで、私のピアノをきいたのだ。
鮮明に記憶がよみがえる。
小六の夏休み。あの日母は浮かれていた。母は東京から先生を招いて講座をしてもらうと言っていた。母の音大時代の先生だという。幼い私は名前も知らない作曲家にこんな片田舎のだれが話を聞きたいのだろうと不思議だった。
講座の前にと家に寄ったその人は藤宮雅史といった。コンクールで見たことのある作曲家ははげていたのに、髪の毛があって変だと思ったのを覚えている。気難しそうな眉間の皺ととっつきにくい人だと子供心に感じた。
家にきて私はピアノを聞いてもらった。なぜ、彼の前で弾かなければならないのか疑問だった。一小節も弾かないうちに彼は「ストップ」といった。
「咲綾さん。もっと音をしっかり聴いて。どういう音を出したいのかもっと意識して」
何度弾いても私の演奏は進まなかった。三十分くらいその苦行は続いた。ようやく一ページ進んで、彼は「そろそろ時間だね」と母を見た。私と彼は特に何も話さなかった。ただ、母はとてもうれしそうだった。私の演奏の感想を彼は私にではなく母に向かって話していた。
私はただ、そこに何かの証明のように存在していた。そう漠然と感じた。
父のような笑顔も、明るさもない。正反対の陰鬱で自分以外の存在を許さないような人。どうしてこんな人に母は嬉しそうな笑顔を向けるのか。分からなかった。それは月日がたってもずっと分からないまま埋もれていった。
「藤宮雅史」
かさついた封筒、出てきたのは文字のとんだ感熱紙とコンサートチケットの半券。
そしてクリアファイルに丁寧に挟まれた直筆の楽譜と手紙、だった。
『特別に楽譜を一部同封。
夜、部屋を暗くしてソフトペダルを踏み
静かなタッチで弾く事。 その時己れの全人生に
ついて深く考えること
放送日 板橋の次の日
以上 藤宮雅史』
楽譜は合唱曲だった。
どうして直筆の楽譜がとか、板橋の次の日ってなんだとか頭をよぎったけれど、すべきこともしたいことも一つだった。
私は電気を消した。カーテンを開ける。月明りが差し込む中、ソフトペダルを踏んだ。
静かに しっとりと。モデラートの横にわざわざ書いてあることに一度だけ会った日を思い出す。
静かに、母を思い出す。あの日のこの人を思い出す。ゆったりとしたアルペジオが月あかりに染みていく。
初見でも難しくない。でも音を削って、たった一音、半音下げるだけでどことなく漂うやるせなさと切なさ。
母はきっと好きだったのだろう。そしてきっとこの人も憎からず想っていたのだろう。
私はもう一度ソフトペダルを踏んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます