第32話 文殊の知恵

     *


《三人寄れば文殊の知恵》という諺がある。


 これは、『特別に頭の良い人物でなくても、三人も集まって相談していれば何か良いアイディアが浮かんでくるものだ』と云うぐらいの意味だが、実はこの考え方は、確率論的に言っても、しごくまっとうなものだったりする。


 ちょっと考えてみよう。


 例えば、ある日の昼休み、石神井警察署に偽造パスポートの鑑定依頼が届いたとしよう。


 その日は偶然に偶然が重なり署内には警察官が三人しかいなかった……としてみよう。


 その三人とは、小張千春と秋月佳奈子と秋月佳奈子の同僚の畑中健乃の三人だった……としてみる。


 本来なら、パスポートの真偽については、然るべきルートを通して然るべき見極めを行わなければならないのだが、依頼者はとても急いでいるようだったし、「今すぐ鑑定して欲しい」と泣きながら言い縋る民間人を無下にも足蹴にも出来るような三人でもなかった……としてみる。


 更に幸運なことには、この三人はたまたま偽造パスポートの扱いにも慣れていた……とも仮定してみよう。


 しかもこの三人は、各自9割の確度で正しい鑑定が行えるのだ……その方が計算が楽になるからね。


「それでは」と、秋月と畑中は三人一緒に鑑定を始めようとしたが、ここで小張が「ちょっと待って下さい」と二人を止めて言った。「三人別々に鑑定して、その後付き合わせた方が精度は上がりますよ」


 この小張の言葉に、分からないなりに秋月が、「それぞれの鑑定結果が違っていた場合は?」と訊くと、小張は「多数決で構いません」と、答えることになるワケだが、その理屈は次のようなものだ。


――――――――――――――――――――

・三人ともが正解を出す確率は、《0.9×0.9×0.9=0.729》


・二人が正解で、特定の一人が不正解の確率は、《0.9×0.9×0.1=0.081》


・で、この「不正解の一人」には、小張・秋月・畑中の誰かがなるわけだから、《0.081×3=0.243》


・つまり、三人別々で鑑定した場合、その過半数が正解を出す確率は、《0.729+0.243=0.972》


・以上より、各自9割の鑑定精度は、個別鑑定からの多数決を踏むことで、9割7分にまで向上することが出来る。

――――――――――――――――――――


「へー」と、秋月と畑中は感心したような声で言ったが、多分まだよく分かっていない。「けど、まあ、コハッちゃんが言うなら正しいんじゃない?」と云うレベルだ。


 ちなみに、試算して頂くと分かるかと思うが、この鑑定する人間の数を四人、五人、六人……と増やして行けば増やして行くほど、鑑定の精度はその分上昇していく。


 これがいわゆる、インターネットで云うところの『エラー補正アルゴリズム』というやつだが、昔の人はそれを《三人寄れば文殊の知恵》という言葉にして後世の我々へ伝えてくれたワケである。


 いやあ、昔の人は偉かったんだね。


     *


 さて。


 何故こんな話をいきなり始めたのかと言うと、小張Dが小張A~Cを集めた理由をまだ書いていなかったからである。


 つまり小張は、赤毛の女性を介抱している間、次のようなことを考えちゃったワケだ。


     *


『こんな装備を備えた人なんだから、きっとタイムパトロールの方に違いないわ。なにしろ、制服の襟首やブーツの内側に 《T・P》って書かれたタグが付いているんですもの。』


『そんな女性が、こんな血みどろの状態で空から降って来たと云うことは、今、この石神井署管内において、タイムトラベル緊急事態が起きていると……考えた方が良いでしょうね。その方が面白いし。』


『しかも、この人の体についた傷痕から見ると、敵は複数。しかも拳銃――いや、銃で撃たれたにしては傷口がキレイ過ぎるからレーザー等の武器を持っていると考えた方が良さそうね。』


『そうすると、こちらも私一人では心もとない――かと言って、署員の人たちをこんな危険な事態に巻き込むワケにはいかないし、そもそもタイムパトロールの秘密をこれ以上漏らすワケにはいかないだろうし、こんな面白そうな案件を他のひとに渡すってのも面白くない。』


『うーーん?――どうにか私ひとりで複数の武器を持った相手と戦えるようにしたいところだけど――。』


『うん?よく見ると、この人の着けていたベルトの目盛りって時間と空間の座標をそれぞれ示しているのではないかしら?なにしろそれぞれの目盛りに 《TIME》と 《SPACE》って書かれてあるのだから。』


『――あっ!そうか!!他の時間から他の私を連れて来れば良いんだわ!!』


『そうすれば、人数も増えるし、他の署員の人たちを巻き込む必要もなくなるし、敵に対処するためのもっと良いアイディアだってきっと生まれるはずだわ!』


『だって、《三人寄れば文殊の知恵》って言うぐらいだから。』


     * 


 と、云うことで。


 思い付くことと実行することとの間には本来大きな壁や溝が何とかフィールドなるものがあるハズなのだが、《具体は抽象に勝る》こそが小張の百ある座右の銘のうちの一つであり、赤毛の女性の制止も聞かず、タイムベルトの説明方法もまともに聞かないままに、過去の自分たちをこの木曜日の会議室に連れて来る原動力であったワケだが、うーん?我ながらなかなかどうして危なっかしい人物を主人公に据えたものである。


 が、まあ、それはそれで致し方あるまい。こんな主人公だからこそ物語が進むと云うこともあるのだから。


     *


 そうそう。


 ちなみに、例の 《文殊の知恵》だが、これも試算して頂くと分かるとおり、例の三人のうちの一人を一枚のコインに置き換えたとしても、全体の鑑定精度は9割から下がることはない。と云うか、上がることもない。


 それは何故か?


 それは、コインを投げて正解が出る確率は5割で、そのため、結局コインは全体の鑑定精度に何の影響も与えないからである。


 でも、これは逆に言うと、どんなに鑑定精度の低い人物であっても、コインより少しでもマシならば、一緒に鑑定に当たって貰った方が全体の精度を上げる手助けになると云う意味でもあるわけで、実はこう云うことが民主主義の根本を支える考え方であったりもする。


 ……あったりもするのだが、これ以上は話が長くなり過ぎるし、政治の話は炎上の原因にもなり易いので今回は割愛するとして……えーっと、何の話をしていたんでしたっけ?


 そうそう。桜台近辺に飛んだ小張が男性を連れて帰った顛末を書こうとしていたのだった。


 と云うことで、お話の舞台は、小張がタイムパトロールの女性と出会う前日の水曜日。練馬区桜台へと移動する。


     *


 入り組んだ路地の片隅にポツンと小さな鳥居が立っている。近くの保育園からはさようならを言い合う子供たちの声が聞こえ、少し季節を外した焼き芋屋の売り声が遠くで響いている。そうして、その売り声を聞いたある雑貨店の女店主は、財布の中の小銭の数を想い出そうとしていたのだが、それとは全く関係なく、鳥居の横の空間が不意に歪んだ。


 ププッ。クン。ヒョオン。


 と云う音がしたかと思うと、一瞬、真っ暗な空間が現れ、また直ぐに消え、代わりに、小張千春 (D:黒パーカー)がその場に現れた。


「おっとっと」と、後ろ向きに二、三歩ふらついた小張だったが、小さな神社を取り囲む鉄製の垣根に掴まりどうにか体勢を整えると、「やっぱり、まだ慣れませんね」と、言った。


     *


 一応補足しておくと、このタイムベルトによる時空間移動について、使い始めの人間が「やっぱり、まだ慣れませんね」程度で済ませていることは結構非常識なことだったりする。


 と云うのも、赤毛の女性が所属しているタイムパトロール隊の規約を読むと、


『非常時用』


『おすすめ出来ない』


『発明者の明らかな設計ミス』


『ウォッカの一気飲みより効く』


 等々の文言とともに、その使用を可能な限り禁止する旨の条項があるからである。(ちなみに、このベルトの発案者・設計者・計画立案者は先般テキスト形式での登場をしたあの博士であり、当該条項の後半部分は博士への誹謗中傷が八割を占めていたりするが、これもまた別の話)


 本来、パトロール隊が使用するタイムトラベルマシーンには、


『ボックス型』


『カート型:クローズド』


『カート型:オープン』


『ボート型』


 の四種類があり、それぞれのシールド能力は下にいくほど低く――つまり、使用者が時空間の揺れとか波とか心理的負担とか子供時代のトラウマを想い出してしまうなんらかの波動等を受けてしまいやすくなっている。


 しかも、『ボート型』に至っては65才以上の使用が禁止されているほどなのだが、そんな『ボート型』よりも時空間の揺れとか波とか精神的苦痛とか前世の記憶を呼び起こす奇怪な電波等を直に受けやすいのが『ベルト型』と云うワケである。


 であるからして本来、何の訓練も受けていないはずの可憐な乙女 (笑)である小張千春が、ここまで簡単にタイムベルトによる時空間移動をこなしてしまっていることは、大変類例に乏しい珍しいケースであり、この時点で4~5回は彼女の嘔吐シーン (そんなシーンは見たくもないが)が本文に挿まれていてもおかしくないところではある。


 ではあるが、にも関らず、当の小張本人はケロッとスタスタと歩いている。


「並外れた感覚の持ち主ってのは本来、乗り物酔いをしがちなそうですが――アイツは規格外品なんで」


 と、まあ、もし、ここに彼女の以前の相棒がいたら驚きもせず、こんな風に言っているところだろうか。


 え?


 赤毛の女性は何故そんな危なっかしい道具を使っていたのかって?


 それは、このお話を最後まで読んで頂ければ分かるようになっています。


 多分ね。


     *


 と云ったところで。


 今は2019年4月10日。水曜日。16時45分。場所は練馬区桜台の小さな稲荷神社の前。小張千春 (D)は、未だタイムトラベルの余韻覚めやらぬ体をふらふらさせながらも、コートの内ポケットに入れておいたスマートフォンを取り出した。


 そうして、「来る前に試したから大丈夫だとは思いますが」と独り言を言いながら電源を入れると、あらかじめ改造しておいた地図アプリを起動させ、くるっと振り返り、お稲荷さんに軽く手を合わせた。


 しばらくすると、お稲荷様への祈りが届いたのかどうかは知らないが、アプリの画面上に、桜台の駅を中心とした地図と先ほどのバスローブとよく似た深緑色の点が現れ始め、小張は「うん。きちんと同期したみたいですね」と言った。


     *


 さて。


 この件についても若干の補足が必要であろう。


 今、小張のスマートフォンに現れた深緑の点は、桜台周辺のタイムボルテックスの痕跡を示す点である。


 が、もちろん、現代のスマートフォンにそこまでの機能を持たせることは如何な小張であっても不可能である。


 では、彼女はどうやってそんな機能をスマートフォンに持たせることが出来たのか?


 答えは簡単で、彼女は、この時点に来ている赤毛の女性のヘルメットと自身のスマートフォンを同期させたのである。


 無論、タイムパトロールのヘルメットが発する電波は不定期であるし、それを携帯の基地局が必ず受信するとも限らない。


 しかしそれでも、石神井警察署の会議室での実験結果――赤毛の女性が眠っている間に行った実験結果からすれば、85%の確率で同期は成功するはずであり、それだけあれば実地で試してみる価値は十分にある。


 それに、仮に失敗しても小張には第二、第三の案があった (ヘルメットを取りに戻るとか)。


 うん。自分で書いてて『警察官がやって良いことではないな』と思った。


 が、まあ、それでも 《ショウは続けなければならない》である。


     *


 タイムボルテックスの痕跡を追いながら入り組んだ町の路地を歩いて行く。


『このあたりはまだまだ空地が多いんですね』と小張が思っていると、その路地の向こう側から、


「ちょっとおたずねします。このへんに……」


 と言う若い女性の声が聞こえた。


『あの声は……』と、電信柱の陰から小張が覗くと、そこには濃い紺色の、どことなくイギリスの警察官を思わせる制服を着た赤毛の彼女が立っていた。


 黒いブーツに紺色のズボンを履いていて、そのズボンには血を流したような跡が付いているが、それは小張が最初に彼女を拾った時と比べると全然軽度のもののように見えた。


「え?」


 と、声を掛けられた方の男性は、少し怪しみながらも、彼女の問い掛けに応じようとしたが、その返事を聞くより前に女性は、


「……ま、いいか。どうせ聞いてもわかるわけないし」と言って踵を返すと、「それにしても、弱っちゃったなあ」と、また別の路地裏へと消えて行った。


 取り残された男性は、年の頃なら60才前後、年季の入った春物のコートによれよれのスーツを着て、今まさに誰かに取り残されたような顔をして道端に立ちすくんでいる。


 彼は、しばらくのあいだ消えて行く女性の後ろ姿を眺めていたが、気を取り直すと、またとぼとぼと入り組んだ路地の中を歩き始めた。


『どこかで見た顔ですね』と、小張は想った。が、誰だったかがどうも想い出せない。


 ただ、彼の向かう方向と彼女の地図が示す方角が同じだったこともあり、彼に気付かれないよう注意しながら、その後ろを付いていくことに決めた。


 日もかなり沈み、迷路のような路地裏にもチラホラと電信柱の灯りが点き始める。


 春と言っても、この時間帯はまだまだ肌寒さを感じる。


『幽霊でも出そうな雰囲気ですね』と、小張が思っていると (タイムトラベルを無邪気に信じるのと同様、彼女は幽霊や超能力だって無邪気に信じるのだ)、何処からともなく、


「オタズネシマス。コノヘンニ……」


 と言う奇妙な声が聞こえた。


 小張が驚いて立ち止まると、前を歩いていた男性も立ち止まった。


 二人が二人とも周囲を見まわしたが、何処にも人影のようなものはない。


『気のせいか知らん?』と小張は思い、同じように男性も考えた。


 そうして、二人が再び歩き始めようとした瞬間、曲がり角に立つ大きな家の庭先から、ブヨンブヨンと、黄色と緑が入り混じったアメーバ―のような物体が歩きながら (歩きながら?)男性の方に近付いて来た。


 驚いた小張はとっさに電信柱の陰に身を隠したが、直後『ひょっとして……』と思った。『あれがMr.Bね』


 Mr.Bに近付かれている当の男性は、その眼鏡の奥の小さな目を更に丸くしていたが、気を変えたMr.Bが「……イヤ、ヤメトコ、ヤッパシ」と飛び去って (飛び去って?)行くのを見送ると、ペタ。と、まるで漫画の主人公がするような格好でその場にへたり込んだ。


「あ、」と、そんな男性の様子を眺めていた小張は、突然、昨年の秋にあった一連の出来事を想い出し、「テグスの人だわ」と言った。


 そうして、いまだショック消え去らぬ様子の男性に近付くと、「すみません」と、彼に声を掛けた。「お尋ねしたいことがあるんですけれど」

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