第31話 親方!空から女の子が!!

 2019年4月11日。木曜日。早朝。通勤で使用しているバスを三宝寺池の停留所で降りて最初の信号を左に曲がる。


 もちろんバスは警察署の手前まで行くのだが、このちょっとした朝の散歩も小張千春の楽しみのひとつになっていた。


 喫茶店と云うか茶店に近いお店の前を右に曲がりアスレチック広場とお弁当広場の横の道を通り過ぎる。


 短い時間ではあるが、この散歩をする日としない日とでは警察業務と云うか推理能力と云うか、そもそもの頭の回転の質に大きな差が出て来るような気がする。


 突き当たりの野球場を右に曲がって国道の方へと戻り、細い路地を行ったり来たりしながら警察署の裏手に出る――と云うのがいつものパターンなのだが、この日の小張は、どうしたことか、野球場の角を左に曲がりたい気分になった。


 自分でも不思議な気分のまま小張は、夏休みになるとカブトムシ目当ての男の子たちが押し寄せて来る広場へと入って行った。


『くぬぎの木ってどれだっけ?』と、広場の途中で突然現れる鉄棒へ寄り掛かりながら小張は考えていたが、丁度その時、丁度見上げていたそのくぬぎの木の手前、丁度木と彼女の中間辺りの空間が、丁度不意に、丁度歪み始めた。


 コッ。

 クオン。

 ヒュオン。


 一瞬、空間の歪みが元に戻ったかと思うと、その空間の代わりに真っ暗な別の空間が現れて、直ぐに消えた。そうして、消えた空間の代わりに、濃い紺色の服を着た赤い髪の女性が現れた。


『空から女の人が?』と小張は思ったが、もちろんそのことを伝える親方などここにはいない。


『受け止めな、』と、彼女が思うよりも早く、赤い髪の女性は、小張の足元の地面にトサリ。と落ちていた。


『警察?』と、彼女の服装を見た小張は一瞬思ったが、直ぐに『――の人ではないわね』と考え直した。上着は確かに警察の制服に似ていなくもないが、ズボンやブーツ、それにヘルメット等の装備品は明らかに警察の物とは違うし、それどころか、見たこともないような素材が使われている箇所すらある。


 この奇妙な女性の正体について、小張千春は、いつものような推理を働かせようとしたが、直ぐに『それどころではない』と考え直した。女性の体のそこかしこから血が流れ出していたからである。


     *


 パディントンの駅からオックスフォードまでは電車で一時間ほど。


「通勤時間帯は絶対に避けろ」と、お父さんが言った。「混み合う電車に乗るために高い料金を払うなんて馬鹿げている」


「一日一度は、自分で食事を作りなさい」と、お母さんが言った。「食べるものを自分で揃えられているうちは、まだ大丈夫だから」


 パディントンの駅はいつものように混んでいて、オレンジ帽子の子熊はもちろんいなかったけれど、同じ帽子の女の子なら私の隣の席に座った。


 これは2019年の私の記憶だけれど、家を出て寮に入るだけのことに、お父さんもお母さんも騒ぎ過ぎていたと思う。


 だって私は、お父さんもお母さんも知らないような場所と時間を旅して、お父さんも邱さんも知らないような人たちにも会って来たんだもの。


 そう。お父さんもお母さんも生まれていなかったり、ずっと昔にいなくなっていたりする、そんな時間と場所で。


 だんだんと意識がハッキリとして来た。マネキンたちに撃たれた痕が痛む。


 今は、いつの、どこなのだろうか?


 Mr.Bは逃げ切れただろうか?


 もし、私がここで消えてしまったら、お父さんとお母さんには、誰が伝えてくれるのだろうか?


 コ、コ、コ。目の前の窓に雨粒の当たる音が聞こえる。


 雨が降り始めたようだ。


 部屋の隅に誰かが立っている。


 お母さん?……のはずはないか。


     *


「あの、すみません」お母さんではない誰かが私に声を掛けている。「起きられました?」


 日本語?


 女性のようだ。


 この人が助けてくれたのだろうか?


「いきなり空から落ちて来たんでビックリしましたよ」


 そうか。


 あまりにとっさのジャンプだったので、タイムベルトの設定が間に合わなかったのだろう。


「いろんなところをケガされてましたけど、病院にはいけないって言われるし」


 そんなことを言った記憶はないが、飛んだ時のショックで記憶があいまいになっているのかも知れない。


「仕方がないので、持たれていた道具類を勝手に使わせて頂きましたよ」


 ……うん?


「ブーツの踵が 《見た目より中は広い》なんて、まるでどこかの国のSFドラマみたいですね」


 ……あれ?


「あと、このベルトってタイムトラベルの道具ですよね?」


 ……え?


「ダイヤルの組み合わせで時間を設定するところまでは分かったんですけど、空間設定の仕方が分らなくて」


 ……おい!!


「ちょ、ちょっと!」と、寝ていたソファから身を起こしながら女性が言った。「そ、それ、私の」


 と、そう言う彼女の服は、いつの間にか青と白の縦縞模様のパジャマに深緑色のバスローブと云う出で立ちになっている。


「あ、」と、小張千春が女性の方を振り返りながら訊いた。「起きられそうですか?」


 と、こちらの彼女の服装はと言えば、白いTシャツに黒いパーカー、その上から黒いコートを羽織った所謂『木曜日の小張』若しくは『小張D』の格好で、更にその上から奇妙な形のベルトを巻いている。


「さっき試しに一分ほど未来に飛んでみたんですけど」と、ベルトのダイヤルをつまみながら小張が言う。


「飛んだの?!」と、赤毛の女性。ベルトには彼女専用のパーソナルロックが掛かっているはずだ。


「飛べるには飛べたんですけど」と、小張。「同時にこの部屋から出てしまって」まるでネットのログインを間違えたかぐらいの言い方だ。「多分、地球の自転を考慮に入れないといけないんでしょうけれど――」


「ロック、掛けてましたよね?」と、女性。


「ああ、それなら」と、小張。「ヘルメットの内側に数字がメモられていたんで」これもまるでパソコンのパスワードを見付けた程度の言い方だ。「ダメですよ。全部同じキーにしちゃあ」


 確かに大学のルームメイトやMr.Bにも同じことを言われたことがあるが、それでもまさか初めて見るタイムパトロールの備品をここまで無思慮・無分別且つ無防備に使う人がいるとは思わなかった。


「まあ、でも、おかげで」と小張。「あの反重力発生装置も動かせましたし」


 そう言いながら彼女が指差した部屋の片隅には、スケボーを横に二枚つなげたような形のピンク色の板がプカプカと浮いていた。


「ホバーボードね」と、右手で額を押さえながら女性が言った。もちろん、この時代の地球に反重力装置はまだない。


「それから、光学迷彩の布を見付けまして」


「カメレオンシート……」


「手袋型の……パワードスーツって言うんですかね?力が何倍にも増幅されるような」


「パワーグローブね」


「そうそう!それで間違って公園の木を一本引き抜いちゃって!!」と、小張。「もちろん、後で元に戻しておきましたけど」興奮と好奇心が入り交じっているのだろうが異様に楽しそうだ。


「……それで?」両手で顔を覆いながら女性が更に訊ねる。正直、これ以上は訊かない方が良いかも知れない。


「それで、他の署員の方々に見付からずあなたをここまで運べたんですけど、」と、小張。「血の止め方が分からなくて」


「包帯とかガーゼで良かったんですけど」


「治療用の泡が出る銃みたいなのがあって」


「メディカルガンも使っちゃったのね」


 当然、こちらの道具にもこの時代のこの地球にはない技術がふんだんに使われている。


「ええ!」と、無邪気そのものといった顔で小張が続ける。「試しに使ったらどんどん傷が塞がっちゃって!!」


「いや、それには感謝するんですけれど」


「それで悪いとは思ったんですけど、着ていた服を脱がしまして」


 なるほど。それでこんな何処かのヒッチハイカーのような格好をさせられているわけだ。


「それで傷の手当は出来たんですけど、どの注射器が栄養補給剤かまでは分からなくて」


 いや、あの中には人間を仮死状態にさせるものもあるから、そこで止めたのは賢明な判断でした。


「それで、」と、まるで大学の同級生にバイト先でも訊ねるような口調で小張が言った。「やっぱり、タイムパトローラーなんですか?」


     *


「それについてはずっと考えていたんですけど」と、小張A (蝶ネクタイ)の向かい側の席に座っていた小張D (黒パーカー)がその重い口を開いた。


 2019年4月11日。木曜日。10時05分。石神井警察署。来客用会議室。6~7人用の、若干狭さを感じる部屋の中には、先ほどの二人 (小張A・D)以外にも小張B (クラパット)と小張C (薄茶のスーツ)、それに赤毛のタイムパトローラー (パジャマにバスローブ)が入っていて、タイムパトローラー以外の四人は、先ほどから喧々諤々の科学談義を続けている。


『同じ人間なのにどうしてこんなに意見が合わないのかしら?』と、大きめのマグカップに淹れて貰った紅茶をすすりながら赤毛のタイムパトローラー (パジャマにバスローブ)は思った。


 同じ人間を同じ時と場所に連れて来ることをタイムパトロールの規約は禁止しているが、その理由は『宇宙の崩壊を招きかねない』と云うものだったと彼女は記憶していた。


 が、しかし、この小張何とかと云う女性は、バック・トゥ何とかとか言う映画を根拠に、自分も含めた自分自身 (ええい、ややこしい!)を四人も集めてしまい、しかも宇宙の崩壊を招いていない。


『博士が聞いたら大笑いするわね』と思いながら、赤毛の女性は再び紅茶をすすった。


「それで、」と小張Aが訊いた。


「そのマネキンを倒さなくちゃいけないのは分かりましたけど、どうやって倒しますか?」


 これに対して小張Dが「それはですね」と何かを言い掛けると、小張A以外の小張B・Cは同時に何かを想い出したような顔になって、「なるほど。そうやるんですね」と、二人同時に言った。


 傍から見ている側からすると何のことやらよく分からないが、きっとここでも熱力学の第一及び第二法則が上手に働いて、


『アイディアが生まれるまでそのアイディアは想い出されないままだが、そのアイディアが生まれた瞬間、そのアイディアは皆に同時に想い出されるのだろう』


 と云うことが起きたのだと思われる。


 うん。作者自身、自分で書いていて一体何を書いているのかよく分からない。


 が、まあ、彼女たちの横でこのやり取りを聞かされている赤毛のパジャマの取り残され感に比べたら全然大したことはない。いや、彼女は本当に頑張っていると思う。


「あの、すみません」と、赤毛の女性が恐る恐ると云った感じで訊いた。「私にも分かるように説明して貰えますか?」


 すると小張B~Dは一斉に振り返ると、


「大丈夫です」と、Cが先ず言い、


「傷もまだ治り切ってないんですから」と、Bが続いたかと思うと、


「ここは大船にでも乗ったつもりで」と、Dがさも自信ありげな表情で言って、


「私たちに任せて下さい」と、最後はきれいなユニゾンで締めてみせた。


「で、でも」と、パジャマ姿の女性が続ける。「マネキンたちを倒すだけではダメで、ヤツらが作ってしまった時空間のネジレも元に戻さないといけないんですよ?」


「ああ、」


 と、小張A~Dは一斉に納得したような顔になったが、これについてはまたしてもDが、


「それはつまり、マネキンたちの本来の目的が分かれば良いんですよね?」


 と、何かを思い付いたような口調で言うと、また小張Aを除いた小張B・Cは一斉に何かを想い出したような顔になって、


「その手がありましたね」


 と、言った。


 うん。だから、その想い出したことを赤毛の彼女にも伝えてあげたいわけですよ。


「それじゃあ、」と、作者の願いも届かないままに小張Dが言った。「私、ちょっと行って来ますね」彼女の右手はタイムベルトのジャンプボタンに置かれている。


「え?」と、赤毛の女性が言った。「行くってどこに?」


「えっと、」と、腰に巻いたタイムベルトの目盛りを覗き込みながら小張が言った。「思ったより近く――桜台の辺りですかね?」


「それって、私のタイムログ?」と、赤毛の女性が訊くのと同時に、


 ポワン。と云う音がして、真っ白な空間が小張Dの周囲を包んだ。


「あなたの調査の続きを」と小張Dが言い掛けた瞬間、


 キュッ。と云う音がして、小張Dは真っ白な空間に吸い込まれて行った。そうして、


 ヒュオン。と云う音とともに、小張と真っ白な空間が消えた。


 赤毛の女性は、残った小張たちの方を振り返ると「つまり、私の跡を追ったってこと?」と訊いた。


 この質問に対し小張B・Cは無言で、ある意味にこやかな感じで肯き、小張Aも、やや遅れ気味ではあったが、にこやかな感じで首を縦に振った。


 女性は「マネキンたちもいるんですよ?」と、小張の身を案じる口調で言ったが、その瞬間、


 プッ。クオン。ヒョン。


 と云う音がして、一瞬、真っ暗な空間が現れたかと思うと直ぐに消え、代わりに、小張Dと一人の男性が現れた。


 小張Dは先ほどと全く代わりのない格好で、男性の方は、年の頃なら60才前後、年季の入った春物のコートによれよれのスーツを着て、今まさに時空間のトンネルを通って来たような顔をしていた。


「誰?!」と、タイムパトローラーの女性 (パジャマにバスローブ)と小張Aは驚いた口調で言ったが、小張B・Cは再び何かを想い出したという表情で小張Dに肯き掛けている。


「えーっと、」と、床にへたり込んでいる男性をみなに紹介しながら小張Dが言った。「どうも、このおじさまの周りで時空間の裂け目が出来ているようなんです」

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