第24話 練馬区桜台
「レポートは明日にでもお送りします」と、電話向こうの上長に男性が言った。2019年4月10日。水曜日。17時15分。
朝からの調査が長引いたおかげで、局には戻らず直帰することが出来た。桜台の駅前にはまだ夕方の混雑は押し寄せていない。
少し遠回りをして家へと向かう。持ち帰りの餃子でも買って帰ろうか?と、銭湯の角で少し悩んだが、家で待つ妻の顔が想い出されて、やはりやめることにした。
*
人気の少ない狭い路地をトボトボと歩いて行く。子どもの頃から何度も通った道のはずだが、気が付くと目印にしていた家や空地は消えて、代わりの新しい目印が出来ていたりする。
『この辺の空地もすっかりなくなった』と、そんなことを男性が思っていると、入り組んだ町の裏道から若い女性がフラリ。と飛び出して来た。濃い紺色の、どことなくイギリスの警察官を思わせる制服らしきものを着て、大きなゴーグルの付いたヘルメットを被っている。黒いブーツに紺色のズボンを履いていて、昏くてよくは見えないが、血を流したような跡が付いていた。
血の跡 (のように見えるもの)を男性が訝しんでいると、女性の方から彼に声を掛けて来た。
「ちょっとおたずねします。このへんに……」そう、女性は言った。
「え?」と、男性は、少し怪しみながらも応じようとしたが、その返事を聞くより前に女性は、「……ま、いいか。どうせ聞いてもわかるわけないし」とだけ言うと、踵を返し、「それにしても、弱っちゃったなあ」と、また別の裏道へと消えて行った。
『へんな人だなあ』と、消えて行く女性の後ろ姿を男性はしばらく眺めていたが、そのうち気を取り直すと、家までの道を改めてとぼとぼと歩き始めた。
*
ゆるい下り坂に出た。
歩く速度を気持ち早めていると、どこからともなく、
「オタズネシマス。コノヘンニ……」と言う奇妙な声が聞こえて来た。
男性は立ち止まって辺りを見回してみたが、何処にも人影はない。
『気のせいか知らん?』そう男性が歩き出そうとすると、曲がり角に立つ大きな家の庭先から、ブヨンブヨン。と、黄色と緑が入り混じったアメーバ―のような物体が歩きながら (歩きながら?!)こちらに近付いて来るのが見えた。
そうして、男性が眼鏡の奥の小さな目を丸くしていると、その物体は、「……イヤ、ヤメトコ、ヤッパシ」とだけ言って、そのまま飛び去って (飛び去って?!)しまった。
ペタ。と、まるで漫画の登場人物がするように彼はその場にへたり込むと、自身の生活習慣やこれまでの悪事、それに愛する妻や何年も会っていない息子のことに思いを馳せようとした。
が、そんな風に哀しみとか苦しみとかもののあわれとかに浸る暇もなく、今度はまた別の裏道から一つの影が現れて、地面にへたり込んでいる彼に声を掛けた。
*
「すみません。お尋ねしたいことがあるんですけれど」と、その若い女性は言った。白いTシャツに黒のパーカーを着て、その上から黒のコートを羽織っている。パッと見た感じはデヴィッド・ボウイか休日のお父さんと云った風だが、腰に奇妙な形のベルトを巻いているため、デヴィッド・ボウイはもちろん休日のお父さんにも見えない。
『構わないで欲しいなあ』と思いつつも男性は、恐る恐るではあるが、その声の主の方を見た。 《好奇心、猫を殺す》と云う諺が想い出された。
そんな男性に対して、声の主・小張千春は、「たしか」と、落ち着いた声で訊いた。「以前、石神井公園でお会いしましたよね?」
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