第20話 3人いる?

「ねえ」と、秋月佳奈子が隣に座る同僚に言った。「あれコハッちゃんじゃない?」


「どこ?」と、パトカーの助手席から窓の外を見ながら同僚が訊いた。


 2019年4月10日。水曜日。15時20分。巡回帰りに立ち寄ったコンビニでのことである。


「ほら、あそこ」と、秋月が指差す先、野鳥観察園からのゆるい坂道を駆け降りて来る小張千春がいた。


「呼んでみる?」と、運転席の同僚がクラクションを鳴らそうとするより前に、小張の方が秋月たちに気付き、彼女たちに向かって両手を振って来た。


「気付いたみたいね」と秋月。パトカーから降りて小張に手を振り返す。


 小張は、水曜にしては珍しく白いシャツにグレーのクラバットを付けて同じ色のズボンを履いていたが (いつもならこれは月曜日の格好だ)、そこに奇妙な形のベルトを腰に巻いており、一層警察官らしさを失くしていた。


 コンビニ裏の小さな柵を乗り越えて小張が駆け寄って来る。息を切らし、日頃の運動不足を痛感したような顔をしている。


「大丈夫?」と秋月。


「だ、だいじょうぶです」と、奇妙な形のベルトを外しながら小張が言った。「――水かなんかあります?」


 秋月に続いてパトカーを降りて来た同僚はそれを聞いて、持っていたペットボトルを小張に手渡した。


 小張は、貰った水を一気に飲み干すと「お代は後で」と言ってから「これを預かって貰えませんか?」と、奇妙なベルトを秋月に差し出した。


「なに?これ?」と秋月。「あと、なんで走ってんの?」


「理由も、」と小張は言いかけたが、よほど苦しかったのだろう、しばらくの間息を整えてから「それも後で」と言い、再び走り出した。


 そうして、先ほど乗り越えたばかりの柵を乗り越えると、今度はテニスコートの方へと消えて行った。


 走り去る小張の後ろ姿を見ながら秋月も同僚も頭の上に大きな疑問符を浮かべていたが、「なんだったんだろうね?」と同僚が言い、それに秋月が、「さあ?」と答えたのを合図に、二人はパトカーへと戻って行った。


 が、その直後、パトカーの後ろの窓をノックする音が聞こえた。


 驚いた二人が同時に振り返ると、そこにはまたしても小張千春が立っていて、「取りに来ました」と、言っている。いつの間に着替えたのだろうか、今度は黒のコートに黒のパーカーを着ている (いつもならこれは木曜日の格好だ)。


 不思議に思いつつも秋月は、先ほど小張から預かったばかりのベルトを手にパトカーを降りると、「大丈夫なの?」と彼女に訊いた。


「だいぶ飲み込めて来ました」と、再びベルトを締めながら小張は言った。先ほどの彼女とは違い、息も切れていなければ汗を掻いた様子もない。


「良かったら」と秋月。「署まで一緒に乗って行く?」今日の小張はいつにも増して変だ。


 しかし、小張本人は落ち着いた様子で、


「いえ、大丈夫です」と言うと、周囲をぐるりと見回してから「その代わり、署に戻って私に会ったら『新津さんが呼んでいた』と言ってあげて下さい」と言った。


「私が?コハッちゃんに?」と秋月。


「ええ。私に伝えてあげて下さい」と、小張は答えると、先ほど乗り越えたばかりの柵を再び乗り越えると、再びテニスコートの方へと消えて行った。


 呆然として立ち尽くす秋月に運転席の同僚が訊いた。「どういうこと?」


「さあ?」と、悩むのも悩ましいといった調子で秋月佳奈子は答えた。「いつもあんな感じだし」


     *


 さて。


 石神井警察署交通課の直ぐ横には二台の自動販売機が設置されていて、一つはお菓子やパン等のスナック類を、もう一つはカップタイプの飲料を提供している。


 数年前に定年退職した前署長は、副署長とは違い、署員及び署長ご本人の福利厚生に目のなかった人物で、着任早々それらの自販機の前に相応のスペースを確保、小さな丸テーブルと6脚の小さな椅子を置くと、署員並びに署長ご本人の憩いのスペースとした。


 そんな彼の遺志――もとい意思は、現署長にも十二分に伝わったらしく、石神井署の署員たちは引き続きその恩恵に浴していた。


 そうして、小張千春もまた、その恩恵を受け、頭を冷静にしたい時や何か難しい問題にぶつかって沈思黙考したい時等には、この丸テーブルの前に座る事を習慣としていた。


     *


 署に戻った秋月と同僚の二人も、(誰のせいとは言わないが)コンビニで飲み物を買い忘れていたことに気付き、このコーヒースペースへとやって来たのだが、果たしてそこに小張千春がいた。


 薄い茶色のスーツに赤いネクタイ。度なしの眼鏡を掛けて足には白のコンバースを履いている (これは間違いなく水曜日の格好だ)。


 黄色の個別ファイルに入った資料を読んでいるので仕事をしているように見えなくもないが、


《ふんふ~ん、ふふん、ふんふ~ん》


 と、スマートフォンで音楽を聴きながら鼻歌を歌っている様子から緊迫感は感じられない。


《ふんふ~ん、ふふん、ふんふ~ん》


 呆然としている二人の視線に気付いたのだろう。小張は軽く二人に会釈をすると、また資料及び鼻歌へと戻っていった。


《ふふふふ、ふふふ~ん》


 小張に声を掛けるべきかどうか悩んでいる秋月に同僚が訊いた。「どういうこと?」


「さあ、」と、悩むのを悩むのもバカバカしいといった様子で秋月が答えた。「いつもよりおかしな感じ」


《ふふふふ~ん、ふふふふ~》


 よほどこの曲が気に入ったのだろう。鼻歌にはいつの間にか歌詞が付いていた。


《dreaming、good night》

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