第17話 空港にて。

 空港ロビーのあちこちには『2020TOKYO』の文字が掲げられ、空港ショップには一時期話題になった大会ロゴや可愛いのか微妙な大会マスコットの描かれた様々な土産物が置かれていた。


 壁に掛けられたモニターからは大会の成功を祈る (煽る?)文句が繰り返し流されていて、正直なところ、彼女は少し辟易していた。


 2019年4月10日。水曜日。13時15分。迎えに来てくれるはずの夫はいつもの渋滞に巻き込まれて遅れているらしい。


 案内役兼通訳だった編集者の黄さんとは浦東空港で別れたし、今回の中国行きに日本の編集者連中は係っていない。


 なので、いま、彼女は、少しお高めのアイスクリームを食べながら『ちょっとした一人旅の気分だわ』と、のんきな事を考えていた。


 壁際に座る彼女の前の通路には、走り幅跳びか何かの世界記録を示したのだろう絵と云うか模様が描かれていて、先ほどから年長さんぐらいの男の子が世界記録に挑んでは失敗を繰り返している。



 そんな男の子の様子を見ていた彼女は、これも職業病なのだろう、手持ち鞄の中からA5サイズのスケッチブックを取り出すと、目の前に広がる空港風景のスケッチを始めた。


 慌ただしく立ち働く職員たち。


 ギフトショップの店員の声。


 混雑さに満ちた到着ロビー。


 初めての飛行機に興奮気味の子どもたち。


 これから始まる新しい生活への期待と不安で胸が一杯であろう若い夫婦。


 旅に疲れ、それでも次の旅へと向かう背広姿の男性。


 ……見るもの聞くもの全てが彼女の創作意欲を掻き立ててくれる。



「あの、すみません」


 と、ペンを走らせている彼女に、高校生ぐらいの女の子が、おそるおそると云った感じで声を掛けて来た。


 彼女は、父親のスーツケースの上で眠る女の子を描き始めたところだったが、その手を止めると、その女子高生の方を見上げた。


「ひょっとして、」と、その女子高生は彼女のペンネームを出して訊いた。「ご本人ですか?」


 それに対して彼女が「本人だ」と答えると、女子高生は、とても興奮した様子で、自分は彼女の漫画作品の大ファンであり、子どもの頃から欠かさずに読んでいることを告げた。


 そうして、背中に担いでいた旅行カバンから文庫サイズの漫画本を取り出すと、「いいですか?」と、一応の断わりを入れてから、彼女にサインをねだった。


 彼女は、この申し出に笑顔で応えると、彼女から本を受け取り、「お名前は?」と聞いた。


「佐倉八千代です」声を弾ませながら、女子高生が言う。


「八千代さんへ」サインのついでに、漫画の主人公の顔もその中表紙に書き加えた。『ウェディングメロン』。彼女の代表作だ。「こんな感じで良いかしら?」と、本を女子高生に返しながら訊く。


 サインを貰った女子高生は、更に興奮した様子で、「ありがとうございます!一生の宝物にします」と言って、彼女に握手を求めた。


 それから二人は、軽い握手を交わし、更に二言三言の会話の後、笑顔で別れた。


 女子高生を見送り、ソファに座り直すと彼女は、スーツケースで眠る少女の続きを描き出した。



 しばらくすると、先ほどの男の子が、何度目かの世界記録へのチャレンジのため、走り幅跳びの舞台へと戻って来た。


 後ろにはヨチヨチ歩きの女の子が付いて来ている。


『きっと兄妹ね』と、彼女は思い、スーツケースの少女を描く手を止め、男の子の再チャレンジを見届けることにした。


 さっきよりも長い助走で、さっきよりも大きな掛け声で、彼は飛んだが、もちろん世界記録には大きく届かなかった。


 打ちひしがれている兄に、ヨチヨチ歩きの妹が近付いて行き、彼の肩を叩いた。


 失意の兄は、妹の顔をしばらくジッと見ていたが、その後立ち上がると、軽く笑い、妹を連れてスタートラインへと戻った。


 それから今度は、彼女を両手で抱え上げ、宙に浮かばせると、世界記録に向けて走り出した。


 結局、男の子が世界記録を塗り替えることはなかったが、塗り替えた妹の方は、多分に意味も分からず、兄の前で嬉しそうに踊っていた。



 この兄妹による世界記録達成の顛末を見届けてから彼女は、スケッチブックに戻ると、それでも少しの間手を止めたまま、自分の兄のことを想い出していた。


 スーツケースの少女は、眠ったまま何処かに行ってしまったらしかった。

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