第14話 東京大学本郷キャンパス

 1969年9月23日。火曜日。17時55分。東京大学本郷キャンパス。


 前年1月に起きた同大医学部における無期限ストライキに端を発した東大紛争は、翌年1月の安田講堂事件における共闘派学生の大量検挙を受けて急速に退潮し、1969年中には完全に収束するに至った。と、モノの本には書かれている。


 が、しかし例えば、この四日後の9月27日には工学系大学院の入試会場に過激派学生が乱入することになるし、この時点でも構内を少し歩けばバリケードの残骸に当たったりつまずいたりするし、残骸を片付けようとする教職員を襲う過激派もいれば、その残骸を使って再封鎖を企てる学生たちもいたりした。


 まあつまり、何が言いたいのかと云うと、この頃の東大なり大学なりのキャンパスには、よほどの用でもない限り、部外者は訪れない方が賢明だ、と云うことである。


 と云うことであるのだが、そんな事を書いているうちに、また誰か部外者が訪れたようだ。


     *


 ブブブッ。グオン。シュン。


 今にも崩れ落ちそうな立て看板の陰に、一瞬、更に真っ暗な空間が現れたかと思うと直ぐに消え、「ダカラ言ウダロ『君子危ウキニ近寄ラズ』ッテ」と、ぼよぼよと云うかぶよぶよと云うかぷよぷよと言う奇妙な声が聞こえて来た。


 また、それに続いて、「付いて来いとは言ってないでしょ?」と言う若い女性の声も聞こえて来た。「いつも勝手にくっついて来て」


 女性は前回の時と同じ濃い紺色のジャケットに大きなゴーグルの付いたヘルメットを被っている。


「『義ヲ見テセザルハ勇無キナリ』トモ言ウダロ?」と、奇妙な声の主が言う。「キット付イテ来テクレテ良カッタッテ思ウサ」


「今回モネ」と、そうのたまう奇妙な声の主は、どうも彼女の背中に文字通り『くっついて来て』いるようで、その姿は見えない。と云うか、形が不定形なのでいるのかいないのかも正直よく分からない。


 ピッピッピッ。女性のヘルメットから小さな信号音がした。


「本当ニコンナ殺伐トシタトコロガ大学ナノカ?」と、奇妙な声の主。「勉強ナンテ出来ナインジャナイカ?」


「私に聞いても知らないわよ」と、ゴーグルを目の位置に降ろしながら女性が言う。「でも、隠れるには丁度良いかもね」


 そう言うと女性は、何処からともなく白い杖のようなもの取り出すと、道に散乱した瓦礫を器用に避けながら、すぐ近くの茶色い建物の中に入って行った。「この上みたい」


     *


 二階と三階をつなぐ階段の踊り場に四つの人影があった。そのうちの三つは大柄な男のもので、残る一つは細身の女性のものだった。


 男たちは、ある意味この時代のこの場所にピッタリの格好――つまりジャケットにジーンズにヘルメットにゲバ棒――をしていたが、女性の方はまるで場違いな格好――丈の短い若草色のAラインワンピースにピンクのスカーフ。薄オレンジのストッキングを履いているが何故か靴は履いていない――をしている。


 ワンピースと同じ色のニットキャップを目深に被っているため女性の表情は見えないが、壁を背に大柄の男たちに取り囲まれている状況はあまり居心地の良いものでもないだろう。


 男たちの一人は、大声で何か訳の分からないことを叫んでいるようだが、多分当人も自分が何を言っているか分かっていないだろう。しきりに女性に意見を言うよう求めているようだが、同時に、相手に話す暇も与えない速さと音量で自身の話を続けている。


「何か言ったらどうだ!」と、この状況で何かが言えるとでも本気で思っているのだろうか、別の男が彼女の手を掴みながら言った。


     *


「ドウスル?」と、物陰からこの様子を見ていた奇妙な声の主(そろそろこの言い方も面倒になって来たので、以下 《Mr.B》と呼ぶ)が訊いた。「助ケルカ?」


 訊かれた女性の方は、これに「助けて良いなら」と、ゴーグルの縁を軽く叩きながら答えた。「助けたいわよね」


「生体ちぇっく?」と、Mr.B。


「今、やってる」と、ゴーグルの女性。直後、ヘルメットからピーッと小さな音がした。「オッケー、3人とも影響なし」


 と、彼女が言うが早いか踊り場から男たちの姿が消え、窓の外から何かが崩れ落ちる音がした。


 驚いた様子でワンピースの女性が窓の外を見ると、先程の男たちが崩れた立て看板の下敷きになっていた。


     *


「大丈夫ですか?」ゴーグルの女性はそう言いながら、踊り場の方に降りて行った。ワンピースの女性は未だ何が起きたのかよく分かっていない様子だ。


「アノサ」Mr.Bが、ワンピースの女性に気付かれないよう小声で言った。「チョット気ニナルンダケド」


「ごめん」と、こちらも小声でゴーグルの女性が応える。「後にしてもらえる?」


 ワンピースの女性は、警官のような彼女の服装のせいだろうか、ためらいがちに階段を後ずさり始めた。


 制服の女性は、彼女を落ち着かせようとゴーグルを上げ、ヘルメットを外して素顔を見せた。「もう、大丈夫ですよ」


 素顔を見せた女性に安心を覚えたのだろうか、ワンピースの女性は後ずさりを止め、今度は階段をゆっくりと上りはじめた。


「アノサ」また、Mr.Bが言った。「ヤッパリ、気ニナルンダケド」


「何が?」と、制服の女性が訊きかえす。


 ワンピースの女性は、一段一段ヘルメットの彼女の方へと近づいて来ている。170㎝近い細身の彼女は、着ているもののせいもあるのだろうが、まるで何処かのショーウィンドウから抜け出して来たように見える。


「4人ジャナイノ?」とMr.B。


「何がよ?」と、制服の女性。


「確認スル対象」


「え?」


 目深に被ったニットキャップのせいでワンピースの女性の表情は読めない。が、異様に白い肌が暗闇で光っているように見えた。


「おすガ三匹、めすガ一匹、合ワセテ四匹」


「でも、」と、制服の女性。「ゴーグルの生体反応は三つしか」


 ワンピースの女性はニットキャップを外した。握手でも求めるように右手を前に差し出している。


「ナラ、生キ物ハ三匹ナンダロウ?」


「あっ」と、制服の女性は気付き、急いでヘルメットを被り直そうとした。


 が、その時、ピシュン、と云う小さな音が、彼女の腹部の辺りでした。


 と同時に、ワンピースの女性が、踊り場の窓から外に飛び出して行った。


「オイ!チョット!」Mr.Bが叫ぶ。


「困ったわね」と、制服の女性は言った。撃たれた腹部から生温かいものが流れ出しているのが分かった。「アイツだわ」


 同じ建物の屋上から二体のスライム状の何かが飛び出していた。


 その何か達は、キャンパス内を走り去るワンピースの女性に取り付くと、彼女とともに暗闇の中へと消えて行った。潜伏場所を変える必要があると考えたのだろう。

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