第11話 量子物理学講義(レポート)
「私、駅前の本屋でバイトしてるんですね」と、モディリアーニの絵のような顔をして女学生が言った。ここは某大学の一室。顎ヒゲの教授の研究室である。
「そこに、あの人が来たんです。ここの学生で、ものすごい美形」と、安っぽいパイプイスに腰掛けたまま女学生は続ける。
「レジに立って、あの人が差し出す本のバーコードを読んで、『430円です』とか『いつもありがとうございます。1060円です』とか言うわけです」
彼女の前の机では、髭の教授が愛用のカップに入れたコーヒーを苦々しそうに飲んでいる。
「本当は、もうちょっと別の話もしたいんですけど、いつもあっちはちょっと微笑むだけで。でも、その、何て言うんですか、あの人に見詰められただけで?いつもそうなんですけど、ただただ、嬉しくなっちゃうんです」
ギイッ、と椅子の軋む音がして教授が立ち上がった。「ちょっと失礼」と彼は言って、右手にカップを持ったまま、隣の部屋へと入って行った。
「どうかされました?」と、消えて行く教授の後ろ姿に女学生が訊く。
「なんでもない」と、隣室から声だけ出して教授が答えた。「砂糖を足してくるだけだ」声はいまだ苦々しそうだ。「――続けて」
「あ、はい。……で、それから、その人が店に入って来ると私、必ずレジに立つことにしたんですね。『ちょっと代わって』って同じバイトの子に頼んだりして」
パタン、と隣室へ通じる扉が優しく閉められ、コーヒーの入ったカップとシュガーボールを手にして教授が戻って来る。「すまなかった」そう言いながらイスに座り直すと「どうぞ続けて」と、彼女を促した。
「あ、はい。えっと……。それで、その人も何となく気付いたんでしょうね。毎回、何か買う時は必ず、私のいるレジの方に並ぶようになったんですね」
ここで女学生は、相手のその初々しい仕草を想い出したのだろう、
「で、時にはシャーペンの芯とか、『それ、本当にここで買う必要あるの?』って思うようなものまでわざわざ買うようになったんです」
と、少し笑いながら、続けた。
教授は、砂糖を入れたばかりのコーヒーを、再び苦々しそうに飲んだ。
「それである時」と、ことさら幸せそうな声で女学生が言う。「ついに、あの人が、私を見詰めてこう言ってくれたんです。『良かったら、今度お茶でも飲みませんか?』って……あっちも、こっちの気持ちに気付いてくれていたみたいなんです」と、ここで彼女の話が終わったように見えた。
なので、その頃、丁度スモーリンの宇宙論的自然選択仮説におけるブラックホールの役割に想いを馳せ始めていた教授ではあったが、改めてイスに座り直すと、彼女の方を向いて、
「なるほど。つまり、」と、言おうとした。が、まるでその言葉を遮るように、
「でも、そこで私、気付いちゃったんですよね」と、女学生が言う。「彼女、女の子だったんです」
*
フェカンドゥ理論では、崩壊するブラックホールは、この宇宙とは基本的な定数パラメータがわずかに異なるかもしれない新しい宇宙の出現を引き起こす。
つまり、宇宙がブラックホールを持てば持つほど新しい宇宙は産まれてくるワケだから、その彼女の彼女が男性としてこの世に生を受ける宇宙だってきっとあるかも知れない。
*
「なるほど。それは、」と、教授は何かを――慰めになるかどうかは分からない何かを、言おうとした。が、再びその言葉を遮るように、
「でも、そう云うのも人生だと思うんです」と、女学生が強い口調で言った。「今、私たち、とても幸せですし」
これで、やっと、多分、彼女の話は終わりのようだ。
すると教授は、再びコーヒーに大量の砂糖を入れると、ようく掻き混ぜた後、甘くなり過ぎたその黒い液体を、彼女の前で、苦々しそうに飲んでみせた。それから、「それで、」と、優しいが威厳を忘れない口調で、「その事と君がレポートを忘れたことに何の関係が?」と、訊いた。
女学生は一瞬『あっ』と云う表情をしてから、「そうですね。関係ないですね」と言った。「どこかでつながるような気がしてたんですけど」
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