第9話 good night baby(part2)

「これ、密室ではないですよね?」と、渡された資料を一通り読んでから小張千春は言った。


 が、そんな彼女に対して、「そんなはずはありません」と、少々語気を強めながら、警視庁捜査一課所属・松井茂は返した。2019年4月9日。火曜日。10時15分。石神井警察署・来客用会議室でのことである。


「寝室の窓も扉も何度も調べましたが、すべて内側から鍵が掛けられていて、外側から鍵を掛け直した形跡も見当たりませんでした」と、松井が言う。


 昨年還暦を迎えた彼の言葉には、叩き上げの、長年現場を見て来た刑事としての確かな重みがある。娘ぐらいの、場合によっては孫ぐらいの年齢の小張にしてみれば、この野太い声を聞いただけで前言を撤回しても良さそうなものだが、彼女もそう云う型の人間ではない。彼女はただただ、松井の話を真剣に、ある意味楽しそうに、黙って聞いている。


「それに、そもそも、そういう構造にはなっていないそうです」と、松井は続けるが、当初ほどの勢いは無くなって来たようである。多分、以前あった別の事件で見せ付けられた小張の推理力を想い出したのであろう。確かに彼女なら、資料を一瞥しただけで、自分が見落とした何かに気付くのかも知れない。


「『なっていない』とは、どなたのご意見ですか?」確信でも反発でもない、どちらかと言うと好奇心に近い口調で小張が訊いた。


 今日の彼女の格好はそれほど珍妙でもないが、それでも、オレンジの縁取りがされたクリーム色のクリケットジャケットに、胸ポケットには何故かセロリを入っていた。


「このマンションの警備会社です」と、セロリの匂いを気にしつつ、松井が答えた。「それと、知り合いの専門家にも意見を聞いています」


 ガチャリ。と、ここまで話したところで会議室の扉が開き、この石神井警察署で副署長を務める新津修一が「失礼致します……」と小声で言いながら、入って来た。全く至極当然の事だが、こちらの彼は、警察の制服を着てセロリも持っていない。


「どうですか?何か分かりましたか?」と、二人の顔を交互に見ながら新津が言った。彼としては捜査の状況に口を挿むつもりはまったくとないのだが、それでも、ただ、小張が暴走しないよう監視するのも彼の役目になっているため、時々こうして様子を見に来るのである。


「すみません。毎回、会議室までお借りして」と、松井。「そちらの管轄でもないのに」


 そうなのである。説明が遅れていたが、そもそも今回の事件は、石神井署管内で起きた事件ですらないのである。


「しかし、どうにも手詰まりでして」と、すっかり白髪だらけになった角刈りの頭を掻きながら松井が言う。「それで、お忙しいとは思いながら、小張さんのお知恵をお借りに」


     *


 小張千春が警視庁捜査一課で研修を受けていたのは今から四年前、2015年4月からの一年間であるが、この時彼女が解決した事件の数々は今でも一課の語り草となっており、その推理力・直観力に頼ろうと、時々、今回の松井のように、石神井署を訪れる刑事がいるのである。


     *


「まあ、うちの小張で本庁の刑事さんのお役に立てることがあるのでしたら、なんなりとお使い下さい」と、和やかな口調で新津は言ったが、彼の本心はただただ『巻き込まれたくない』と云うことだけだった。


     *


 と云うのも、これまでこうやって本庁から持ち込まれた案件は、二・三の例外を除き、奇妙奇天烈摩訶不思議なものばかりだったからであり、しかも何故だか毎回、その事件に自分も巻き込まれて来たからである。彼からしてみればまさに、奇想天外四捨五入出前迅速落書無用と言って良い四年間でもあった。


     *


「新津さんも一緒に聞きますか?」と、そんな新津の気持ちを知ってか知らずか、多分知らないのだろう、にこやかな笑顔で小張が言った。


「しかし、改めてご説明頂くのも何ですし……」と、扉の方に後ずさりしながら新津が返す。


「そうですね。新津さんのご意見もお聞きした方が良いかも」と、松井。彼は彼で無骨過ぎて人の気持ちが分からない時がある。


「では……」と、新津。本庁の刑事の言葉を無下にするワケにはいかない。「捜査のお邪魔になってはアレですし、なるだけ、手短に」


 と云うことで、以下は、今回松井が持ち込んだ事件の概要である。


     * 


 事件が起きたのは都内某所のマンションの一室・最上階のペントハウスで、この部屋の住人で、ビルのオーナー夫人でもあった木村栄 (59才)が寝室ベッドの上で絞殺されているのが発見された。


 死体に抵抗したような跡は無く、ベッドの上に静かに、見方によっては丁重に、寝かせられていた。


 寝室に入るためのドアには内側から鍵が掛けられており、二つある寝室の窓にも同様に鍵が掛けられていた。いわゆる『密室殺人』である。


 最上階のペントハウスと云うこともあって侵入も退出も困難。また、宝石等の高級品がそこら中に置かれてあったにもかかわらず、部屋が荒らされた形跡もなかった。


 警察は、栄の夫でビルオーナーでもある木村敦 (62才)を参考人として探しているが、事件の前日、近所のコンビニでペットボトル入りの水750mlを購入している所を目撃されて以降、その足取りは掴めていない。


     *


「なるほど。密室殺人ですね」と、神妙な面持ちで新津が言い、小張は少し頭を抱えた。

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