第3話 石神井公園の小張千春
2018年10月19日金曜日。14時15分。お天気に恵まれたこともあってか、水辺観察園の方ではたくさんのバードウォッチャー達が、ホトトギスとミゾソバの陰に隠れながら、そろそろやって来るだろうマガモやキンクロハジロの写真を撮ってやろうとカメラを構えたむろっていた。
そんな愛好家連中から少し離れた場所――三宝寺池の畔に設置された木道の上を、一組の男女が歩いて来る。
男性の方は先ほどの「世界を救おうとしている」彼だ。年は六十前後、着古した感じのダウンジャケットによれよれのジーンズ。
女性の方は二十代前半でもあろうか、焦げ茶色のロングスカートに濃い紫のカーディガンを羽織り、その上に派手な模様の長い長いマフラーを首の辺りでぐるぐる巻きにしている。
一見、父娘に見えなくもないが、双方の服のセンスの隔たりと歩く時の距離の取り方から赤の他人である事が分かる。
「それでは、今日もお仕事なんですか?」池の反対側から飛んで来たオナガガモに興奮しながら女性が訊いた。
「いえ、今日はお休みを頂いてまして、家が近所なんですよ」と、男性は答え、手にした双眼鏡を持ち上げつつ、「今日のこれは趣味です」と言った。
「でも、お仕事で来られることもあるんですよね?」手に持ったスマートフォンを地面に落とさないためだろう、お間抜けオバケのストラップを右の手首に通しながら女性が質問を続けた。
「仕事で訪れるのはここだけではないですが、」と、先程オナガガモが飛び出して来た辺りを眺めながら男性が答えた。「ここはプライベートの方が断然多いですね」小さな魚が飛び跳ねているのが見える。「自転車で三十分ぐらいですし」
「お仕事だと、」
ピロン。
女性の話を遮るように彼女のスマートフォンが鳴った。メールの着信だろうか?
「すみません。ちょっと失礼します」スマートフォンの画面を器用に操作しながら彼女が続ける。「お仕事だと、どの辺りが多いんですか?」
男性が双眼鏡を観察園の方に向けると、バードウォッチャー達のシャッターが一斉に切られ始めたところだった。「色々ですね。北海道や沖縄に行った事もありますけれど――メインはやっぱり、関東ですかね」
シャッターの理由は、キンクロハジロが池に飛び込んで来たためらしい。
ピロン。
女性のスマートフォンが再び鳴った。
「たびたび、すみません」そう言って、スマートフォンの画面を再び開き、暫く考え込んだ後、勢いよくメールを打ち始めた。「えーっと、『ペア』って日本語で何でしたっけ?」返信を打ち込む手が止まり、女性が訊いた。
「『ペア』って、『一組』とか『一対』とかの『ペア』?」双眼鏡を覗いたまま男性が答える。キンクロハジロがエサを捕まえた。
「それです!えーっと『対の拳銃は見付かりましたか?』……送信っと」
『変わった娘だな』と、男性は思った。三宝寺池に入った辺りで声を掛けられたので相手をしているのだが、鳥に詳しい訳でも興味がある訳でもなさそうだし、話し相手が欲しくて話し掛けて来たようにも見えない。そもそも、その交わしている会話自体あまり噛み合っているようには思えない。
「メール、ゆっくり打たれて構いませんよ」一応、気遣っている感じぐらいは出しておこう。
「いえいえ、ただの仕事のメールですんで。お気遣いなく」
「休日にまで仕事のメールが来るんじゃ大変ですね」
「え?いや、今日は非番じゃないですよ」
ピロン。
また鳴った……今、「非番」って言った?
「いいですよ、電話されても。こっちは気にしませんから」
「いや、メールで十分な内容……と言いますか、色んな人を相手にした同時対応メールなので、電話じゃ無理があるんですよ」
「……はあ」
「本当はグループチャットが良いんですけど、お年を召されている方々もいらっしゃるので――って、すみません。『テグス』って何ですか?」
本当に、一体、何の仕事をしているのだろう?
「『テグス』って、釣りの時に使う?」
「釣り糸?」
「まあ、そうですね」
「じゃあ、丈夫ですよね?」
「太さにもよると思いますけど」
「魚が暴れても大丈夫?」
「まあ、何キロもある魚を釣る事だってありますから……」そう男性が答え終わるのが早いか、「じゃあ、当たりっぽいです」と、彼女・小張千春はニンマリと笑って、送信ボタンを押した。
ピロン。
と、今度は男性のスマートフォンが鳴った。
「あ、しまった」と、男性。買い物を忘れないようにとの妻からのリマインドメールだった。
「どうされました?」
「いえ、家内からでして」
きっと、子供の頃からの付き合いだから彼女には分かるのだろう。確かに彼は、買い物の事などすっかり忘れて鳥を見ていた。
「お買い物の催促とか?」
「そうなんです……よく分かりましたね?」
「なんとなく分かるんです。刑事の勘って言うか――」
「え?」と、驚いた声で男性が訊き返した。「刑事?」
先ほどのキンクロハジロが、二人の頭上を、エサを咥えながら飛び去って行った。
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