第2話 量子物理学講義

「時間は、立ち上がる」


 壇上の男性が言った。年の頃なら六十前後。未だ衰えを知らぬ知識欲のせいか、それともその黒々とした髪の毛のせいか、四十代と言っても十分通用するようにも見える。


「ある思想家が言った」


 机の鞄から取り出したスマートフォンの電源を入れ、メモを読み上げる。


「《過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想》――」


 もちろん、彼ほどの記憶力の持ち主ならば、今日の講義の文章は全て頭に入っているだろう。このスマートフォンは、講堂を埋め尽くす聴講生たちへの謂わば配慮だ。『これは引用だ』と。


「《僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われる》――そう、確かに」


 配慮だからこそ、「思われる」のところで顔を上げ、聴講生たちの方を見ることも忘れない。


「時間が通り過ぎて行くように見えるのは……幻想。人生がそれを演出する」


 スマートフォンを鞄に戻そうとして、少し考える。


「一日に一日分。人生は出し惜しみをする」


 そうして結局、スマートフォンは机の上に置かれることになった。


「そして僕たちは、今日を生きて、明日を生きようと思う」


 舞台の下手側へと歩き、立ち止まる。


「ここが今日だとして、」


 今度は上手側へと進み、立ち止まる。


「ここが明日?――本当に?」


 うしろ向きに先ほどの場所へ。


「場所を移動するように時間も移動する?」


 そして、立ち止まる。


「いいや、どこにも移動はしていないはずだ」


 学生のひとりがスマートフォンをこちらに向けている。


「動画かい?」男性が聞く。


「すみません。講義の記録を」恐縮しながら学生が返す。


「そうか、動画だ」


 そう。《ショウは続けなければならない》。


「動画は、動かない」


 ブブッ。


 机の上のスマートフォンが一瞬だけ動いた。


「無数の静止画像の積み重ね」


 画面が薄く光っている。メールの着信だ。


「その積み重ねが動画を動かす。動いているようにみせる」


 それとなく机に向かう。


「つまり、無数の静止画像の中から任意の一枚を取り出すと、」


 メールの内容が読めた。短い文章だ。


「その静止画の、時は動き出す――《時よ止まれ。お前は美しい》?」


 つい声に出してしまった。


 場内に小さなざわめきが起きた。


「失礼。メールに返信しても?」


 こんな文章を寄越す馬鹿はひとりぐらいしかいない。


「奥さんですか?」と、先ほどの学生がからかい混りの声で訊いた。聴講生たちの笑い声。


「残念。円満とはいかないまでも、いつまでも新婚というわけでもない」


 再び、聴講生たちの笑い声。


『そもそも、動いてはいない。もちろん、美しいことに変わりはないが』


 と、すばやくメールを打つ。


 ブブッ。


 メールは送られた。賽は投げられ、ハンニバルはアルプスを越えた。講義に戻ろう。


「そう。もし、全ての時間が同時に立ち上がっているとしたら?」


 子どもの頃の風景が思い出された。


「生まれ、育ち、年を取り、恋をする……運が良ければ」


 三度、聴講生たちの笑い声。


 しかし、どこかなにか大切な風景が欠けているような気がする。


「そして、その恋が終わり、更に年を取り……僕たちは死ぬ」


 講堂の後方扉が開いた。


 入って来たのは小学校からの友人だった。


 もちろん、メールの相手は彼ではない。


「《宇宙空間が少しも大きさを減じることなくそこに在った》」


 おっと、聴講生たちへの配慮を忘れた。


「《すべての物――たとえば、鏡面――が無際限の物であった》」


 まあ、たまには良いだろう。


「《なぜならば、私はその物を、宇宙のすべての地点から、鮮明に見ていたからだ。》」


 友人が遠慮深げに右手を振り、一番奥の席に座った。


「生・老・病・死。ブッダは一つの場所の別の出口からそれらを見た」


 いや、確かに、波のたち騒ぐ海を見たのだ。


「時間と空間は、君たちの人生から創られている。もちろん、僕の人生からも」


 ここで終業のベルが鳴った。


 が、最後に一言。


「そうして僕たちは、この時空で、共に生き続けている」


      *


 授業が終わり、講堂はざわついていた。


 階段を降りる友人の足元が少しふらついている。


「やあ、久しぶり」


 と、彼に声を掛けようとしたところで聴講生の一人が質問を投げ掛けて来た。難しい質問だった。と云うか、質問の体を為していなかった。任意の数字が答えだったとして、その質問が分からなければ意味がない。答えが与えられるのならば、時として質問は不要かも知れないが、それを言うには、君も僕もまだまだ若過ぎる。本人の代わりに質問を導き出しているうちに次の講師が壇上に上がった。この問答は次回にしよう。と言って、聴講生に別れを告げた。


「教授とはすごいなあ」友人が言った。


「君だって」と男性は返した。「今でも世界を救おうとしているんだろ?」


「ただの役所の職員さ」


「奥さんは?」


「元気だよ」


「よろしく伝えてくれよ」


「もちろん」


「それで、今日の用事は?」

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