第60話 記念日③


「ねぇ太一? もう機嫌直して欲しいなぁ。私悲しくて泣いちゃいそうだよ?」


 あれから数時間後。


 未だに太一は由貴と二人で借りた個室の中にいた。


 太一が意識を取り戻した時は、すでに日付をまたいでしまっていた。


 薄れゆく意識の中、それでも太一は由貴に激しくされたことは覚えていた。よっぽど体力を使ってしまったようで、数時間以上太一は意識を失っていたのだ。


 起きた時には、太一のスマホに家から何件も連絡が入っていたが、由貴が勝手にチャットで友達の家に泊まると言い訳を送り、なんとか無理やり納得させていたようだった。


 初めからこうする計画を立てていた由貴は、個室も二十四時間押さえていたらしい。用意のいい事である。


 もう家族とも話を付けられ今更家にも帰れない太一には、そのままネットカフェで泊まるしか選択肢が残っていなかった。


「ねぇってば、お願いだから許してよぉ~」


 今太一は裸の由貴に後ろから抱きしめられていた。


 ちなみに太一自身も裸だ。


 目覚めてすぐ服を着ようとした太一だったが、由貴に没収されてしまった。


 あんな事をしてしまった直後で太一はまだ身体が上手く動かせず、しかも腕にはまだ手錠がはめられている。


 そんな状態で満足に動くなんて、到底無理な話しだった。


 反対に由貴はといえば、顔を艶々させて元気が溢れているように見える。とても今の太一の状態では立ち向かえないだろう。


 あんなに激しく動いていたというのに、太一には不思議で仕方なかった。


「ほらぁ、気持ちいいこといっぱいしてあげるから、ね? 太一が言ってくれたら私はなんだってしてあげるんだよ?」


 由貴が耳元で囁いてくる。


 少しきつめに抱きしめられると、さっきから密着している由貴の胸の感触を背中に感じた。


 艶っぽい今の由貴の言葉は決して嘘ではないのだろう。


『太一、太一好き、すきすきすき、太一好き! 太一!』


 太一は行為の最中に何度も由貴から名前を呼ばれ続けていた。


 あの時の由貴の悶えるような声は今でも太一の耳にこびりついている。


 その嬌声は、由貴の身体の内側から漏れ出してくる本物だった。


 あんな声を出して太一を必死に求めてきた由貴は、心から太一を求めてやまないのだろう。


 だからこそ、由貴が何でもしてくるというのは嘘ではない。


 太一もそれは何となく分かっていた。


 だが、それでも太一が無視を貫いていた。


 すると、由貴はあれやこれやで太一の気を引こうとしてくる。


 お臍に指を入れてきたり、耳に息を吹きかけられたり、太一はグッとお腹に力を入れて耐えた。


 だが、耳に何かぬめっとしたものが入って来た時には、流石に我慢できなかった。


「ちょっと!? 何してるんですか由貴さん!」

「あ、やっと反応してくれた。太一は耳を舐めると弱いんだね」


 太一としては振り返って批難したつもりだったのに、反応してもらったのが嬉しかったのか、由貴はだらしなく顔をとろけさせた。


 今の由貴はあまりにも自然体で、そんな姿を見せられた太一も、思わず毒気を抜かれてしまった。


「……ねぇ由貴さん。なんでこんな酷い事したの?」


 本当はもう口を利かないつもりだったのに、太一は自分から由貴に話しかけていた。


 だいたい、太一にも自分が感じていたものが怒りなのか哀しみなのか、はたまた別の何かなのか分からなかったのだ。


 意地になって由貴を無視していたが、そうする意味ももはや分からなかった。


 これまでは色々と計画について太一にも隠し事をして嘘をついていた由貴。


 だが、もう計画を完遂した今、隠す事などないのだろう。


 太一に聞かれるがまま、由貴はすぐに口を開いた。


「あ~まぁ、太一のためにって言っておいて、ホントはガッツリ自分のために行動してたけどさぁ。それもこれも愛ゆえにってやつなんだよね」

「何それ、どういう事?」

「つまり私はさぁ、初めから太一が欲しかったんだよ」

「初めからって、それっていつから?」

「太一と初めて会話するず~っと前からだよ。私はね、ずっと太一を見てたの。それでぇ、あの二人から太一を奪い取りたかったの。つまりは愛だね。今日の事も、今日までの事も全部そのためにやりました。え~、太一のために頑張るといいつつ、私利私欲のために行動してごめんなさい」


 素直に頭を下げるどころか、裸で恥ずかし気もなく土下座をする由貴。


 しっかりと床に掌と額を押し付け、裸のまま屈辱的な姿をさらす由貴は、太一に対しては本気で申し訳ないと思っているのだろう。


 情けない姿を惜しげもなくさらす由貴を見て、太一はもう怒る気力もなかった。


「ちょっと由貴さん! その、今そんな恰好で土下座なんてしないでくださいよ」

「許してくれるってこと?」


 勢いよく顔を上げた由貴が飛びついてきて、太一はまた抱きしめられてしまう。


 なんだか何もかもがどうでもよく、太一は由貴に抱かれたままその身を預けた。


「いや、まぁそれはまだ置いといて、その、ぼ、僕が欲しいだけなら、なにもあんな事しなくてもよかったじゃないですか」

「いやいや、絶対必要だったんだよ。だって、あの人達には太一の事嫌いになってもらわないといけないでしょ?」


 でしょ? と言われても太一はすぐに頷く事などできなかった。


 由貴はとろけた表情のまま、過激な思想をその口から紡ぎ出す。


「太一の拠り所は私だけでいいの。私しか頼れる人がいなければ、太一はずっと私の傍を離れないでしょ? 今までも唯一の拠り所から離れようとしなかったんだから」


 太一はそれについて否定する言葉を持っていなかった。


 実際に昴と明里だけいればいいと、今まで他の友達を作ろうとはしなかったのだから。


 いや、正確には出来なかったのだ。


 心にしみついた臆病は太一の根幹をなす感情だ。


「お猿さんからは恨まれてるからもう太一は戻れない。ちなみに田端さんには、太一からお猿さんが好きだって聞いたのはバラしたから」

「んな、なんでそんなことしたんですか!?」

「そうすれば田端さんも太一に愛想尽かすでしょ。最後に言われた言葉を思い出してみて、ね。それに田端さんもずっと欲しかったものが手に入ったから、もう太一の事なんて相手にもしないよ~。はい、ということで、太一にはもう頼れる人は一人しかいないよね?」


 にやにやと嫌らしい笑みを向けて来る由貴。


 今の太一の状況を簡単に説明すれば、由貴に脅されていると言えるだろう。


 昴には間違いなく一生怨まれ続ける。


 明里も太一が勝手に情報を暴露した事には呆れているだろう。


 それに、由貴の話しでは今の明里はもう縋りついてくる昴しか見ていないらしい。


 それならもう太一を相手にしてくれる可能性なんて皆無だ。


 つまり、太一は一人になったのだ。


 今までは昴と明里がいたから一人ぼっちではなかった。


 その二人から離れたくなかったから色々と頑張っていたというのに、結局は二人とも失ってしまった。


 太一の感じる喪失感は人生で最大のものだった。


 特に明里から見捨てられたという事実は、すぐにでも忘れてしまいたいとすら思う程に辛い。


 本当に一人ぼっちになってしまったのなら、太一はもう立ち直れなかっただろう。


 だが、実際には今の太一は一人ではなかった。


 何故か。


 由貴がいるからだ。


「太一にはもう私だけって理解できた? だから私から離れちゃダメだよ。一人ぼっちは怖いでしょ? でも安心して、私はあの二人とは違うから。親友ぶって太一を見下してた男とも、他の男のために太一を捨てた女とも違うよ。私には太一だけ、他は友達もクラスメイトも何もいらない。私には太一だけなの。そして、太一にも私だけ」


 うっとりとした由貴の瞳には太一だけが映し出されている。


 狂気的なその瞳は、恋に盲目となっていた昴ともまた違う。


 そんな由貴をどう表現していいのか太一には分からなかった。


「……なんで?」

「ん、どうしたの?」

「なんでそんなに、僕の事を、必要としてくれるの?」


 それは初めから太一が抱き続けて来た最大の疑問。


 どうして皆から相手にもされず、あるものにしがみつく事しか出来なかった太一を、由貴はここまで気に入ってくれたのか。


 太一は由貴と身体を重ねた今となっても、まだその理由を聞いていなかった。


「安心してよ太一。私は適当に相手を選んだりしないから。ちゃんと太一がよくて、太一だけしかいないって思ったからこんな事したの。あの二人から太一を奪い取るためにね」


 太一は少しだけ恐ろしくなった。


 由貴に心を覗かれたような気がしたからだ。


 安心させるような由貴の口調は、太一があの二人から由貴に乗り換えてもいいのかと探っているのを見越しているようだった。


 それでも、そんな太一の内心を分かり、受け入れようとしてくれる由貴の魅力に、太一はもう逆らう事は出来なかった。


「簡単に言っちゃうと相性が最高だと思ったからなんだけど、後でちゃんと教えてあげる。それより、私の事を許してくれたなら今はもっと私を求めて、安心してもっと私に溺れてよ。私は太一の全てを受け入れるから。だから、太一も私の傍から離れないで」


 太一はまた由貴に押し倒された。


 汗とお互いの体臭が入り乱れた小さな個室で、また身体をこすり合わせる。


 許すとか許さないとか、太一はもうそんな事はもう考えていなかった。


 だって、太一にはもう由貴しかいないのだから。


 抵抗する気もなく、ただ由貴を受け入れる。


 太一が抵抗しないでいると、由貴がうっとりとした表情で顔を近づけて来た。


 太一はゆっくりと目を閉じて、由貴の唇を受け入れた。

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