最終話(表) ①上埜由貴の人生観
上埜由貴の幼少期は、ただ悲惨だった。
由貴が物心ついた時、すでに家庭は最悪の状態で、心休まる場所なんてどこにもなかったのだ。
「何度同じ事を言えば分かるんだキミは!? いい加減俺の言う事を聞けよ!」
「貴方こそ! 私の話しをまったく聞こうとしないじゃない! 私は貴方の道具じゃないのよ!」
「人の話しを聞かないのはキミの方じゃないか! 俺の言葉を全部聞き流しやがって!」
「私にだって自分の考えがあるのよ! なんでも貴方の言う通りにするわけじゃないわ!」
「五月蠅い!! 大声を出すなよ! いいか? キミは俺の言う事を聞いてればいいんだ!」
「五月蠅いのは貴方の声じゃない! この前なんて貴方のせいでお隣から苦情が来たのよ! しかもそういう面倒な事は全部私に任せて、自分は部屋に隠れて何もしないくせに! 貴方みたいなのを口だけの役立たずって言うのよ!」
「なにぃ!? 俺が何もしてないだと! ふざけるな! もう一度言ってみろ! 誰が金稼いでると思ってんだ! あぁ!」
「私だって働いてるわよ!! そうやって自分が一番だって偉ぶるの止めてよね!」
由貴の記憶にある両親の会話は全て怒鳴り声だ。
朝、由貴の目覚ましは両親の罵声だった。
日中、由貴は両親が罵倒し合う声を聞きたくなくて部屋に籠った。
夜も両親の怒鳴り合う声が途切れる事はない。ドアの向こう側から絶えず響いてくる騒音。由貴が眠るためには、頭まで布団にもぐらなければならなかった。
とにかく、由貴の家では四六時中両親が喧嘩をしていた。
喧嘩と言えばまだ可愛げがあるように聞こえるかもしれないが、はっきりと言ってしまえば、由貴の両親がしていたのはただの罵り合いでしかない。
お互いを貶し合い、嘲笑して馬鹿にし、相手を傷つけ冒涜する。
相手に自分の意見を聞かせ、自分の優位を示すために、お互いの欠点ばかりを指摘し合う。
そこには愛情なんてものはない、あるのはただの憎悪だけ。
そんな汚い部分を物心ついた頃から見せつけられていた由貴。
初め由貴は、両親が喧嘩していると悲しかったし、大声を出す両親が純粋に怖かった。
顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら罵り合う二人は、お互いを貶める事に必死で、幼い由貴が傍にいても気にしないで罵倒し合う。
小さな子供が目の前でそんなものを見せられたらどうなるだろう。
時と場合、個人で違うとは思うが、大抵の場合は泣いてしまうだろう。
由貴だってそうだった。
「ぅ、ぅわぁああああん! や、やめてよぉ! パパ! ママ! もうやめて!」
それだけ両親が罵り合う姿は恐ろしいものだったのだから。
だが、由貴が本当に悲惨だったのはそこからだった。
子供が泣いて我に返る親だったら、まだ少しは救われたかもしれないが、由貴の両親はそうではなかった。
「五月蠅いぞ由貴!! 今大事な話しをしてるんだ! 黙ってろ!」
「ひっ、でも! でもぉお!!」
「黙れと言っただろうが!!」
拳を振り上げる父親の姿を泣きながら見ていた由貴は、次の瞬間には頭に衝撃を受けて床に倒れ伏していた。
痛くて、目が霞んで、身体が動かない。
それでも由貴の意識が途切れてくれる事はなく、由貴は床に倒れたまま両親の声を聞いていた。
「おい! 由貴の教育はどうなってんだよ! お前の育て方が悪いからこんなに聞き分けのない子供になってんじゃないのか!?」
「はぁあ!? ふざけないでよ! 私は一生懸命やってるわよ! 一人でね! 由貴の面倒は全部一人でやってんのよ! 貴方は何もしないからね!」
「当たり前だろうが! 俺は仕事で忙しいんだぞ! 子育ては妻のお前の仕事だろうが!」
「私だって働いてるのにおかしいでしょ! 何で私ばっかり負担しなきゃいけないのよ!」
「お前と俺じゃ仕事の大変さが違うだろうが! 簡単な仕事しかしてねぇんだから、子供の面倒くらいしっかり見ろよ!」
「貴方の仕事の方がたかが知れてるじゃない! それに私はちゃんとやってるって言ってるでしょ!」
「なんだと!? ていうか出来てないからこんな泣き叫ぶ子供になったんだろうが! キミは躾もできないのか!」
「貴方こそ自分はやりもしないくせに偉そうにしないでよ!」
由貴がピクリとも動けず冷たい床に倒れている間、両親はずっと言い争っていた。
朦朧とした意識の中で、霞む瞳でその両親の姿を見ていた由貴は、その時から悲しむ事を止めた。
無駄だと気付いたからだ。
子供の自分がどんな事をしても、両親は気にせず喧嘩を続ける。
二人にとって自分がそれほど重要な存在ではないのだと見せつけられ、由貴は諦めた。
由貴が何を言っても二人は喧嘩を止めない。
由貴が泣いても二人は怒鳴り合う。
由貴が倒れても、二人からは気にもされない。
だから由貴は、その日から泣くのを止めたのだ。
それから、由貴は自分の事は自分でする事にした。
喧嘩が終わるまで出てこなかった食事は自分で用意した。
両親が喧嘩している姿を、テレビでも見るかのように眺めながら淡々と食事を食べる毎日。
両親の喧嘩は日に日に激しさを増していき、家庭には凍えるような空気が立ち込める中、それでも由貴は気にしなかった。
由貴は、父親が知らない女を家に連れて来るのを何度も見た。
由貴は、母親が知らない男を寝室に連れ込むのを何度も見た。
由貴は知らない女や母親の嬌声を聞きながら、一人で食事を食べた。
そんな日々が何年も続き、いい加減慣れて来ると、由貴には両親をじっくりと観察する余裕すら出て来た。
ただでさえ面白味のない生活だ。何かしらの楽しみを見つけないと子供ながらにやっていられなかったのだろう。
だから由貴が両親が喧嘩する理由を考えていたのも、初めはただの暇つぶしだった。
毎日同じような喧嘩を見せつけられていれば、子供の由貴にもなんとなく両親の気持ちが見えていた。
両親にはお互いに自分の意見があり、そして、それが絶対だった。
だから相手の考えは全て認められず、自分の意見を押し付けようとする。
だが、どちらも自分の考えが絶対なのだ。押し付けられたものなど認めるわけがない。
だから言う事を聞かせようとして反発し合い、喧嘩になる。
こうして罵り合う両親の姿しかしらない由貴は、どうして二人は結婚したのだろうかといつも不思議で仕方なかった。
どうみても相性が最悪だからだ。
そこまで自分を貫きたいのなら、何でも言う事を聞いてくれる気の弱そうな相手を探せばよかったのに、そう由貴が何度思った事だろうか。
パートナー選びに失敗し、挙句の果てには、相性最悪の相手と愛の結晶まで作ってしまった二人。
今となってはもうそんな事をする気もないのだろう。
何故なら二人とも、由貴にとっては見知らぬ人と身体を重ねる事に夢中だからだ。
そんな状態の両親をみて、由貴は同情すらしていた。
心の中で可哀そうな両親を馬鹿にして、自分の心を保っていたのだ。
だが、そんな日々も終わりを迎える事になる。
由貴が小学生の時、両親が離婚したのだ。
あんな生活がいつまでも続かないのは必然で、ある日を境に由貴の父親は家から姿を消した。
離婚して家から出て行ったと、由貴が母親から聞いたのはそれから数日後の事だった。
別にあの男がいなくなってもまったく気にならなかった由貴は何も聞かなかったのだが、耐えきれなくなったような母親の方から話しをしてきたのだ。
由貴が母親から聞いたのは、離婚した事。
父親は由貴をいらないと置いて行った事。
そして、母親からの謝罪だった。
その全てが由貴にとってはどうでもいい事だった。
むしろ由貴が気になったのは、母親が何故か少し悲しそうだった事だ。
あんなに言い争いをして、お互いを貶める事に必死になっていたのだ。別れたのなら清々しい気分になるのが普通だろう。
実際由貴の母親も表面上はそんな様子だった。
だが、ずっと両親を観察していた由貴には分かったのだ。母親が心のどこかで悲しんでいると言う事が。
由貴にはそれが衝撃だった。
あそこまで醜い関係だったというのに、いざ別れると悲しむなんて意味が分からなかったのだ。
由貴がそんな母親の感情に、一応の納得ができたのは、それから数年が経った後だった。
母親の部屋にあったアルバム。そこには昔の両親の姿が映っていた。
たぶん初めの頃の二人は、あんな関係ではなかったのだろう。
二人とも肩を寄せ合って笑っていた。
こんなに幸せそうな二人が、どうしてあんな関係になってしまったのか。
それは由貴には分からなかったし興味もなかったが、由貴はきっとお互いに本当の自分を隠していたのだろうと思った。
気に入った相手を手に入れるために、お互いに本性を隠して近づき、自分の良い面ばかりを見せて気に入ってもらう。
そうしてお互いの関係が確固たるものになって、それからようやく二人は本性をさらけ出したのだろう。
もうこれは自分の物だと安心して……。
その頃、由貴はもう中学生になっていた。
この年頃になると同年代の男子から興味を持たれることもかなり増えていた。
普段は馬鹿な話しばかりしている男子が、由貴の前では真面目ぶったり、いい人ぶって近寄って来るのだ。
本性を隠して、いい面だけを見てもらおうと必死になっている男子を沢山見て、由貴は両親もこうだったのだろうと考えた。
だから結婚して、それからお互いの本性を知った両親は上手くいかなかった。
本当は最悪の相性の相手だともしらず、表面上だけ上手くやって深い関係になり、本性に気が付いた後はマウントの取り合い。
お互いに憎しみ合って、それでいて別れたら悲しむのだ。
由貴はそんな両親をずっと馬鹿にしていた。
馬鹿な両親の姿を教訓にして、自分は絶対に失敗しないと誓ったのだ。
由貴は近づいてくる男子全てをあしらった。
自分にピッタリの男がいなかったからだ。
スポーツが得意な男子も、勉強ができるインテリも、顔がいいとチヤホヤされているイケメンも、明るくて陽気な人気者も、由貴は興味すらわかなかった。
両親のようになりたくないと常々考えていた由貴には、自分に必要な相手がどんな人なのか、もうこの時には思い当たっていたのだ。
だからクラスで人気になるような男子や、周りの女子が夢中になるような男には見向きもしなかった。
由貴が求めていたのは顔でも運動神経でも、頭の良さでもなかったからだ。
由貴は自分が母親に似ている事は自覚していた。
気が強く、自分の意志がしっかりとしていて、自分が主導したい性格。
だからこそ、相手に求めるのは何よりも相性が大切だと思っていた。
由貴の言う事を何でも聞いてくれる人。両親とは違い、由貴以外には興味がなく決して由貴の傍から離れて行くことのなくずっと尽くしてくれる存在。
それが由貴の理想の相手の姿だった。
両親の姿を反面教師にして、由貴は子供ながらに完成された恋愛観を構築していた。
だが、そうそう理想の相手が見つかるという事もなかった。
由貴の周りに集まって来る男は沢山いたが、その中には興味を引かれる存在は一人もいなかったのだ。
由貴は幼い頃から身体の発育がよかった。
中学生にもなると、身体の凹凸もはっきりして、同年代の中では一際目を引いたのだろう。
由貴が興味を持たなくとも、男子は沢山よってきた。
うっとおしい男子を全て切り捨てていた由貴は、嫉妬したクラスの女子から妬まれ、おかしな因縁を持たれる事にもなってしまったのだが、まったく気にしなかった。
自分の中の哲学と価値観が全てで、他人に何を言われようとも関係ない。
由貴はその姿勢を貫いて中学時代を過ごした。
そうして高校生になる頃には、由貴もまた大人になっていた。
中学生の時までは、夢見る少女のように運命の相手が必ず現れると信じていたが、そんな都合のいい事は早々起こる事ではないと学んだのだ。
だから由貴は、気長に探すつもりだった。
妥協はせず、自分にとって最高に都合のいい相手をこれからの人生で探す。
そう考えていた由貴は、思いもよらぬほど早く、最高の相手を見つけることになった。
二年になった時クラスメイトにいた、気弱そうな男の子。
それが、神田太一だった。
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