第54話 赤羽昴の恍惚①


 赤羽昴は今、人生の絶頂期にいた。


 ぴったりと寄り添うかのように昴の隣にいるのは、なんとあの上埜由貴だ。


 昴がずっと欲しいと思いつつ、それでも中々手に入れる事が出来なかった女の子。


 その由貴が、今は昴の隣にいる。


 どうして由貴が昴の隣にいるのかと言うと、それはひとえに昴の作戦が上手くいったからだ。


 明里と太一に伝えた、由貴の前でキスでもしろという作戦。


 普通ならそんな無茶な事を言われたら、反発するのが人間というものだろう。


 それでも明里は従順に昴の命令を受け入れた。


 昴には明里がどんな無茶な頼みでも引き受けてくれる事は分かっていた。


 昔一人だった明里を助けたあの日から、明里が昴に従順な事は常に変わらなかったのだから。


 とは言え、まさか明里があそこまでするとは昴としても思ってはいなかったし、由貴が本気で太一を取り返そうとしていたことにもショックを受けたのは事実だった。


 だが、それでも昴はすぐに気持ちを切り替えた。


 むしろ今がチャンスだと考えたのだ。


 昴の作戦通りに、いや、期待以上に明里が動いてくれたおかげで、置いて行かれた由貴は太一を明里に取られたと思ったのか、その場で落ち込んでいた。


 明里に突き飛ばされたまま立ち上がれないでいる由貴からは、いつもの明るさが消え失せている。


 そのあまりの痛々しい雰囲気に誰も由貴には近寄れない。


 だが、昴はあえてそんな由貴に寄り添い声をかけた。


「上埜さん、大丈夫? 俺に掴まって、保健室に行こう」

「ぅ、ぁ、赤羽君?」


 顔を上げた由貴は、余程ショックだったのか泣いていたようだった。


 それを見て昴は、今こそが由貴の心に付け入る隙だと思った。


 肩をかし、保健室までの道中で親身になって慰めた。


 するとどうだろう。今までは素っ気なかったあの由貴が、なんと昴に対して笑顔をみせてくれたではないか。


「……ごめんね、ありがとう赤羽君」


 由貴からお礼を言われた昴は、それだけで軽い感動を味わった。


 心が弱っている時、人はそこに手を差し伸べてくれた人間に傾倒する。


 昴は太一や明里の時の経験から、その事を理解していた。


 あの二人は一人ぼっちだった事もあって特別その傾向が強かったが、これはどんな人間にも当てはまる。


 喩え自分をしっかり持った由貴であろうとも、心が乱れた時には隙が出来て当然なのだ。


 由貴を保健室に連れて行ったあとも、昴は親身になって太一や明里にされた事を慰めてあげた。


 そして、昴のその行動はすぐに結果に結びついた。由貴はころっと昴にすり寄ってくるようになったのだ。


 こうなるともう昴の想い通りだった。


 これまでの事が嘘のように会話が弾み、とんとん拍子で由貴との距離が縮まっていった。


 由貴は昴の事をしっかりと見て話しを聞いてくれるし、今までは避けられていた距離まで近づいても逃げられる事もない。


 むしろ、由貴の方から昴に近寄って来るくらいだった。


 今までどれだけ望んでいても太一がいるせいで到達できなかった場所は、今はもう自分の物となった事を昴は実感していた。


 由貴が隣にいるこの瞬間はまるで夢のようで、けれど現実として由貴が傍にいてくれる事に、昴はえもいわれぬ充実感を味わっていた。


 しかも、昴は由貴から一緒に帰らないかとお誘いまで受けたのだ。


 昴は迷う事なく部活もサボることに決め、今は由貴と一緒に下校している最中だった。



 幸せの絶頂にいる昴は、部活をサボることになんの感情も抱かなかった。


 昴はこれまで部活をサボったことなんてなかった。


 昴にとって本当に夢中になれるものが身体を動かす事だけだったからだ。


 スポーツに取り組み、身体を動かす事は本当に楽しかった。


 のだが、由貴の隣にいる今では、どうしてあんなに頑張っていたのかと不思議になるほど魅力を感じなかったのだ。


 なんの未練も罪悪感もなく、昴は由貴と二人で帰ることを選んだ。


 昴はそれだけ浮かれていた。


 道中、二人で帰る間も会話は尽きる事がない。日常的な事から家庭の込み入った事まで、昴が話題をふると由貴は何でも答えてくれた。


「上埜さんは放課後はどこかで遊んだりする?」

「あはは、私こんな見た目だから意外かもしれないけど、放課後はいつもすぐに家に帰ってるんだよ」

「あ、そうだったんだね。でもどうして? 何か事情でもあるとか?」

「実は親が厳しいんだ。勉強しなさいって」

「あはは、それは大変だな。ちなみに厳しいのはお父さん? それともお母さん?」

「どっちもだよ。だから成績悪くなったら大変なんだ」

「上埜さんは成績いいからなぁ。明るくて話しやすいし、勉強もできるなんて絶対昔から人気だっただろ?」

「いやそんな事ないよ、でも中学の時もクラスメイトとは皆と仲良かったかな」

「やっぱりね。俺も上埜さんは凄いと思ってたんだよ! もっと早くこうして仲良くなりたかったくらいだ」

「あはは、ありがとう。赤羽君にそう言ってもらえると本当に嬉しいな」


 これまでも積極的に話しかけていたけれど、こんなにも好感触なのは初めてで、会話が弾む度に昴の心も弾んだ。


 まさに夢のような時間を昴は過ごしていた。


 だが、楽しく会話をしながら帰っていた途中、駅に近づいたところで由貴の声のトーンが急に落ちた。


「どうかした?」

「えっと、あの二人の事がまだ気になっちゃって」


 あの二人と言われて、それが誰の事かなんて昴にはすぐに分かった。


 太一と明里のことだ。


「二人に悪いことしちゃったなって」


 由貴は本当に心優しい性格らしい。


 自分が傷つけられたことなど気にしていないように、太一と明里の仲を心配している。


 その優しさに感動すると同時に、昴は今までで一番の嫉妬心が燃え上がって来るのを感じた。


 目の前であんな事をされたというのに、由貴はまだ太一の事を嫌いになっていないらしい。


 どこまでも自分の邪魔をしてくる太一の事が、昴にはもはや憎い相手としか思えなかった。

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