第53話 奪い合う二人②


「いい加減太一を離してくれませんか上埜さん。太一は私の、恋人なんですよ。貴女のものではありません」


 一言一言ゆっくりと、まるで言い聞かせるように喋る明里に、さらにきつく抱きしめられる。


 それは息が苦しくなるほどの力で、太一は自分が今、明里の胸に顔を押し付けている事など気にする余裕もなかった。


 由貴に見せつけるように太一の頭をその腕に抱く明里。


 そんな様子を見せつけられた由貴は、それでもまだ不敵に笑っていた。


「見え透いたお芝居はもういいよ。嘘なんでしょ?」

「お芝居なわけないじゃない。私と太一はね、貴女に出会うずっと前から愛し合っているんだから。ね、太一?」


 耳元で明里に甘い声でそう囁かれ、太一は明里の胸の中で震えた。


 明里はうっとりとした表情で太一の頭に頬擦りをしてくる。


 人前でそんな事をするだなんて、太一ですらとても演技だとは思えなくなりそうだった。


 そんな明里の行動は、由貴にも少なからず動揺を与えたらしい。


 今まで余裕そうにしていた由貴の額から一筋の汗が流れた。


「無理してそこまでする必要あるわけ? こっちは田端さんが本当は太一の事好きじゃないって分かってるんだからね」

「ふふ、おかしな人。貴女が信じられないだけでしょ?」

「……証拠は?」

「証拠って?」

「田端さんが本当に太一を愛してるって証拠はあるの?」

「……そんなもの、すぐに見せてあげるわ」


 由貴の挑発ともとれる発言に、不敵な笑みを返す明里。


 何をするのかと太一が思っていると、不意に明里に顎を掴まれ、顔を無理やり引き上げられた。


 今、太一の目の前には明里の顔があった。


 頬を薄いピンク色に染め、うっとりと目を細める明里。


 太一がその綺麗すぎる表情に見惚れていると、あろうことか明里はゆっくりと顔を近づけて来た。


 艶のいいふっくらとした唇に太一は目を奪われる。


 まるでスロー再生されているかのように、ゆっくりと近づいてくる明里の唇。


 あと数ミリでお互いの唇が触れ合いそうになった時、



 太一の目の前にいた明里が吹き飛んでいた。



 それは比喩でもなんでもない。文字通りに吹き飛んでいた。


 明里は近くにあった机や椅子を巻き込んで、大きな音を立てながら床に倒れた。


 呆然としていた太一の目の前には、息を荒くして立っている由貴がいる。


 状況から見て、由貴が明里を突き飛ばしたのは間違いないだろう。


 それが分かったところで、太一は一歩も動けなかった。


 倒れていた明里が起き上がる。


 大丈夫? そう太一が心配する暇もなく、明里は由貴につかみかかっていた。


 髪が乱れるの気にせず振り乱し、お互いの制服が破れそうな程引っ張り合う二人。


 もはや太一には、その様子を唖然と眺めている事しかできなかった。


「いい加減にしてよ!」

「っぅ!?」


 しばらくもみ合いになっていた二人、今度は明里が由貴を突き飛ばした。


 太一の目の前で由貴が派手に転び、先ほどの明里と同じように周りの机を巻き込んで倒れる。


 低いうめき声をあげて、お腹を押さえて床にうずくまる由貴。


 それまでただ立ち尽くす事しかできなかった太一だったが、あまりにも痛々しい由貴の姿を見た時には、自然と由貴に向かって駆け出していた。


「由貴さん!?」


 ここが教室で、昴が見ている前だという事などすっかりと忘れ、由貴の名前を呼んで駆け寄る太一。


 そんな事を気にする余裕もないほど、太一は由貴の事だけで頭がいっぱいだった。


 一心不乱に駆け寄った太一が、もう少しで由貴に触れられる所まで来た時、


 太一の目の前には、明里が立ちふさがっていた。


「早く行こう太一」

「ぁ、まっ、待って明里!」

「いいから!」


 明里に腕を掴まれて引っ張られる。


 太一はもちろん抵抗したが、明里に睨まれた瞬間には、すっと感情が死んだ。


 それだけ明里の眼は有無を言わさぬもので、怯えた太一は由貴を置き去りにして、明里に手を引かれるまま教室を出た。




 帰り道の道中は、ひたすらに無言だった。


 明里は黙って俯いているし、太一は一言でも喋る気力がなかった。


 今日の出来事は太一に理解できる範囲を超えたものばかりで、一日中ずっと神経をすり減らしていた太一はとっくに限界を超えていたのだ。


 もはや太一はこの時、明里に手を引かれたら動く人形に成り下がっていた。


 だから、明里がいつもとは違う道を歩いて行くのにも、まったく気が付かなかった。



「ごめんね太一」


 太一が思考を取り戻したのは、そんな明里の謝罪が聞こえた時だった。


 教室での興奮していた様子とはまるで違い、今の明里はただただ気まずそうにしている。


「あ、明里? なんであんな」

「ごめんね。でもちゃんと理由があるの。ここで待ってれば、後で太一にもちゃんと教えてあげるから」

「え、何言って……ていうかここは?」


 気付けば太一は見慣れぬ公園にいた。


 学校からあまり離れてはいない場所だと思うが、太一たちの登下校のルートからはかなり外れている馴染みのない場所だった。


 どうして明里はこんな所に連れて来たのだろうか。


 太一の中の疑問はますます膨れ上がる。


「とにかく、ここで待ってて。絶対にここで待ってるんだよ。お願いだから」


 とにかく聞きたい事は沢山あったが、まだ混乱の残る脳では太一はまともに考える事もできず、気迫のこもった明里に言いくるめられて、ただ頷いた。


 太一が頷いたのを見て、明里はそそくさと公園を出ていく。


 本当に何が起きているというのだろうか。


 途方にくれる事しかできない太一は、小さくなっていく明里の背中を見送る事しか出来なかった。




 どれくらいその場で座り込んでいただろうか。


 辺りがすっかりと暗くなり、真冬の寒気で太一が震えていると、誰かが走って来る音が聞こえてきた。

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