第36話 諦めたはずだったのに②
「あれ? え、どうして?」
「どうしてって、気付いたら太一もういないから焦って走ってきたに決まってるじゃん! おいてくなんて酷くない? 必死すぎて汗かいたわ。もう何年もこんな走ってなかったからね!」
まだ混乱が収まらない太一。
だが大きな声で口早にまくし立ててくる由貴の様子を見れば、大袈裟に言っているわけでも嘘を言っているわけでもないということだけは理解できた。
必死に走って来たというのが分かるくらいに由貴の息は乱れていて、汗で髪が額に張り付いてしまっている。
抱き着かれて感じる由貴の体温もいつもより暖かいような気がした。
「鬼畜な太一には罰が必要だと思う! 罰金だ!」
息を切らせながらも口では不満をぶつけてくる由貴だが、どうやら本気で怒っているわけではないらしい。
その表情はこれ以上ないほどの笑顔で、まるで飼い主を見つけて嬉しがる子犬のようにじゃれついてくる。尻尾があれば、勢いよく振り回しているだろう。
由貴を見ていてそんな風に感じた太一は、すぐに我に返って自分に呆れた。
なんて自分にとって都合のいい解釈なのだろうか。そんなふうに自分に好意的に見えてしまうなんて、全然吹っ切れていないじゃないかと思ったからだ。
太一は浮かれないように、冷静であれと自分にきつく言い聞かせた。
「いや、昴と話してたから邪魔しないようにと思って」
「あぁ、なんか今日はやたらと話しかけてきたんだよね」
「はは、その昴はどうしたの? 部活に行っちゃった?」
「さぁ、知らないけど」
「知らないって、放課後も二人で喋ってたじゃない?」
「だってこっちは早く太一と遊びに行きたいのにさ、いつまでも引き留めようとしてくるから鬱陶しくなっちゃって」
それで話を打ち切っておいてきたという由貴に、太一は度肝を抜かれていた。
今まで昴に対してそんなことを言う女の子は一人もいなかったからだ。
いつもぞんざいにされるのは太一の方で、昴は皆から大切にされていた。
それがどうだろう。何故か由貴だけは皆とは逆のことを言うではないか。
「しつこかったけど、途中で太一がいないことに気付いたからこっちも必死になっちゃって、何言ってるかなんて全然頭に入ってこなかったし、イライラしてきたらから、急いでるって言って無理やり切り上げて来た。だから知らない」
「そう、だったんだ……」
太一はそれだけ言うのがやっとだった。
急いで由貴から顔をそらし、どうしもにやけてしまいそうになる顔を見られないようにするので必死だったからだ。
由貴は明確に、昴よりも太一を優先してくれていた。
その事実が、太一に今まで感じたことのないような満足感を与えてくる。
あの明里ですら昴が頼めば躊躇なく太一を後に回すくらいなのに、由貴だけはそうしなかった。
由貴だけが、太一を一番に優先してくれたのだ。
今、太一の目には、目の前の女の子が特別な存在に見えつつあった――
「まぁ太一が悪いわけじゃないから許してあげる。んで、今日はどこ行こっか?」
――が、それでも太一はすぐに我に返った。
昴からもういいと、はっきりと言われている太一にはもう由貴と一緒に遊ぶための理由がなくなっている。
それでも由貴と二人で遊ぶというのなら、これからは太一自身の意志でということになる。
それはつまり、昴が由貴を好きだと知りながら、裏切るということ。
太一にはそんなことはできそうになかった。
「……ごめん、今日は帰るよ」
「え、なんで?」
太一の返答を聞いた由貴は、あっけに取られたような顔になる。
その反応は、まるで断られることなど考えず、太一と一緒に過ごせると信じきっていたように見える。
「ていうか、今日というより、これからもう遊ばない、かな」
「……それってどういう意味?」
一瞬前まではあっけにとられていたような由貴は、これから遊ばないという言葉を聞いた瞬間から、その表情を険しいものに変えていた。
声も低くなり、それでいて鋭い。
どういう感情かは太一には分からなかったが、楽しくなさそうなのは間違いないだろう。
太一は理由を説明するために、昴のことを隠しつつ慎重に言葉を選んぶ必要があった。
「友達からもういいって言われたんだ」
「それって……」
「うん。上埜さんのことをきいてって頼んできた友達。他のクラスのね。もう気になることは聞けたみたいで、充分だって言われたから」
初めから言い訳に使っていた架空の友達のせいにする。
まったくひねりのない設定だが、太一には他にいい考えが思いつかなかった。
展開的に昴の気持ちがバレてしまったかもしれないが、もう昴が積極的に動くと決めた以上はそこまで気にする必要もないはずだ。
「だからもう質問がないんだ。そうなると上埜さんと一緒に遊ぶ理由もないし……だから、僕はこのまま帰るよ」
太一は自分で言っておきながら悲しくなった。
せっかくできた友達との関係を、自分から断ち切ろうとしているなんて、それが本当にもったいないことだと自覚しているからだ。
それでも仕方ない。
昴のためにも必要なことだと太一は自分に言い聞かせる。
その覚悟を確固たるものにするために、あえて由貴の呼び方も苗字に戻していた。
太一は諦めたのだ、由貴との関係を……。
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