第16話 太一の葛藤
太一は家に帰ってからも電車での出来事頭から離れず、ぼーっとしまま何もしない時間を過ごしていた。
今でも身体のあちこちに由貴の暖かい感触が残っているような気がしてしまい、太一は何も手に着かない。
ふとした拍子に脚に由貴の太ももがくっついていた事を思い出し、左腕が由貴の胸に埋もれていたことを思い出しては、邪な思考を振り払うように頭をふる。
何よりも太一の頭に残っていたのは、別れ際に言われた一言。
『また明日ね太一君』
今まで太一にこんな言葉を言ってくれる人は、幼馴染の二人しかいなかった。
だから由貴からそう言ってもらえた事は素直に嬉しく、太一は気を抜けば頬が緩み一人でニヤニヤしそうになっていた。
傍から見れば何もしていないのに一人で笑っている変な奴だ。太一もそれは自覚していたが、まるで本当に友達が出来たかのような気分はどうしても消し去り切れなかった。
ニヤニヤしたり、かと思えば急に頭を振ったり、そんなことを繰り返していた太一が我に返ったのは、昴からチャットが来たからだった。
『太一? 上埜さんとどうだった?』
振動するスマホを手に取るともうすっかりと夜中の時刻をさしていて、太一は自分がこんなにもぼーっとしていたのかと驚いた。
きっと、太一からの連絡を待っていた昴もしびれを切らしてメッセージを送ってきたのだろう。太一は慌てて昴への返事を打った。
『一緒に帰ってわかったけど、電車僕たちと一緒だったよ』
『マジか!? じゃあ探せば朝とか会えるかもな』
『あとね上埜さんも昴のことが気になるみたいだった』
『それこそマジか!?』
『電車に乗ってるときに昴の事きかれたからマジ』
『おいおい、おいおいおいおい!!』
『昴はいい奴だよって、良いこといっぱい伝えておいたから』
『太一……お前は本当に使える奴だよ』
昴から返って来る反応を見ていれば、太一の情報に満足しているのは間違いないようだ。ひとまず役には立てたらしい。
由貴と二人きりで帰ろうとしているところを昴に目撃された時はどうなることかと思ったが、あの時必死になって考えた弁解通り役に立てた事で太一は少しホッとした。
『でも羨ましいぜ、俺も上埜さんと一緒に帰ってみてぇなぁ』
『ごめんね、今日だけは昴のためにと思ってさ』
『分かってるから大丈夫だよ。太一なんだから別に変な心配はしてないって』
『ありがとう昴』
『いいって、だって太一が女の子から相手にされる事なんてないだろ?』
その何気ない一文に太一は心臓がはねたような気がした。
昴の言う通りで本来なら太一が女の子から相手にされるはずはない。
それは昔から太一を助けてくれた昴の言葉だからこそ、嫌味を感じる事なく受け取れる真実の言葉だ。
太一もそれには情けないながらも全面的に納得なのだが、電車で由貴に言われた言葉を太一は思い出してしまった。
『私はさぁ、太一君のことが知りたいなぁ』
あの妙になまめかしい声が今も耳元で聞こえるような気がして、太一はまた落ち着かない気分になってきた。
なにより信じてくれている昴に罪悪感が湧いてきて、胸にちくちくとした刺すような痛みを感じる。居たたまれなくなった太一は、きっとあれも由貴の冗談だと思うことにした。
よくよく考えてみると帰り道で太一はずっと揶揄われていた。あの言葉も由貴に揶揄われたに違いないし、むしろそう考える方が自然だ。太一はそう思い込んで、言い訳をするかのようにメッセージを打つ。
『悲しいけど昴の言う通りだよ』
『ま、太一にもきっといつかは春が来るんじゃないか』
『そうだといいけどねぇ』
その後は何気ないやり取りを数回交わして締めくくった。
昴から最後に送られてきた一文は『明日電車で上埜さん探そうぜ』というなんとも浮かれたようなもので、昴が満足しているなら由貴に揶揄われた甲斐もあったと、太一はそう思うことにした。
昴とのチャットを終えたあと、太一の頭に浮かんでくるのはやはり明里のことだった。
今日の朝は初めて昴にお弁当を渡すからと、太一の目から見ても気合が入っていた明里。
不安もあったのかもしれないが、それでもいつもより生き生きとしているように見えた。
そうして楽しみにしていたお昼にあんなことが起きるなんて、誰が想像できただろうか。
太一はもちろん、明里でさえもまさかの展開だったに違いない。
明里のお弁当が昴に好評だったところまではよかった。
流れが狂ってしまったのはそれからで、急に好きな人ができたと昴から打ち明けられた時、太一は声を出すことすらできなかった。
これから毎日お弁当を作ってきて昴との距離をつめる。明里はそんな事を考えていただろう。
まさかそれが今日だけで終わる事になるなんてあんまりな仕打ちだった。
それでも普通なら取り乱してしまうような状況で、明里は自分の気持ちを抑え込み、昴の事を応援すると笑顔を見せた。
その選択には、いったいどれだけの葛藤と苦悩があったのだろうか。
昴のためにと明里は言っていたけれど、太一にはそれからの明里が落ち込んでいるように見えて仕方なかった。
スマホを手にしたまま、悩んだ末に明里にもチャットを送る事にした太一。
『余計なことだったらごめん。あれで本当によかったの?』
気を遣いながら考えたメッセージはそんな曖昧なものになってしまった。
けれど明里になら何の事か伝わるはず。そう思っていた太一の考えは案の定当たっていた。すぐに明里から返事が返って来たのだ。
『大丈夫だよ。心配かけてごめんね』
こんな状況でも気を遣うことを忘れない明里からの返事。
はっきりとそう言われてしまえば、太一が言えることはもう何もなかった。
『明里がそう言うなら』
『昨日さ、太一も私を応援してくれるって言ったでしょ? ちょっと立場は違うけど、私も太一と同じように昴を応援したいと思ったの。だから太一も一緒に昴のことを応援してね?』
文面からも明里の健気な気持ちが伝わって来る。
太一はなんとなく明里がそう言うような気がしていたが、その通りになってしまった。
明里も好きな人のために自分の気持ちを犠牲にすることを決めたのだ。
太一にとってそれは悲しいことだったけれど、明里の決意を無駄にするようなことも言えなかった。
『わかった。余計なことを聞いてごめんね』
『いいの。やっぱり太一は優しいね』
『明里の方が優しいよ』
『ありがとう。じゃあまた明日ね』
『うん。また明日』
スマホを机に置いて太一はベットに倒れ込んだ。
明里の本心は分からない。きっぱりと諦めたのか、実はまだ心のどかで自分の決断を迷っているのか、太一にはあくまでも想像する事しかできない。
明里がはっきりと昴を応援すると言っている以上、これ以上何かを聞くことすら失礼な気がして、太一はそれ以上の追及はしなかったけれど、きっとまだ明里は気持ちに整理をつけられてはいないと太一はそう思っていた。
太一も明里を諦める決断をした時、今のように心から応援できるようになるまではそう短くない時間が必要だったからだ。
それでも明里は昴を応援すると決めたらしい。それならばと、太一も昴をしっかりと応援しようとそう静かに誓ったのだった。
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