頑張るあなたに差し入れですよ。

永嶋良一

がんばるあなたにさしいれですよ

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 もうすぐ大学の入学試験だというのに、参考書に書いてあることがさっぱり頭に入らない。図書館の自習室で僕はため息をついた。この自習室では一つの机を二人が使っている。僕の横にはかわいい女の子が座っていた。ちらりと横を見ると、彼女が僕と同じ参考書を開いているのが見えた。ということは、僕と同じ高校生だ。おそらく、僕と同じ受験生だろう。


 彼女はどんどん参考書のページをめくっていく。それを見ていると、やりきれなくなった。だめだ。彼女を見ていると、あせってしまう。そうだ。こんなときには腹ごしらえでもしよう。もうお昼近くになっていた。僕はそっと立ち上がった。


 この図書館には食堂がついている。入口に券売機があった。券売機の前で僕は財布を出そうとした。しかし、財布が無かった。いつもズボンの後ろのポケットに入れておくのに。うっかり家に忘れてきたのだ。今日はこれから夕方まで空腹で過ごさないといけない。僕は自分の不注意を呪った。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。思わず声が出た。


 「なんてこった」


 すると、僕のすぐ後ろから声が聞こえた。


 「お財布を忘れたのね」


 僕は驚いて振り返った。隣の席の彼女が立っていた。彼女は女性ものの長財布を手に持って、僕に微笑みかけていた。彼女の微笑みを見ると、僕は月並みな表現だが、雷に打たれたようなショックを受けた。胸に熱いものが湧いてきて、息が苦しくなった。僕は彼女を見つめたまま茫然と立ち尽くしてしまった。


 「私がおごってあげるわ。だけど、私もあんまりお金を持ってないので、コンビニでカップ麺でも食べましょう」


 そう言うと、彼女は僕を外に誘った。僕は夢遊病者のようにふらふらと彼女についていった。足が地につかなかった。外に出ると、急いで彼女と一緒に近くのコンビニに入った。僕が赤いきつね、彼女が緑のたぬきを手にとった。彼女がレジで支払いをしてくれた。お湯を入れてもらって、二人でイートインに並んで食べ始めた。


 彼女は麻衣と名乗った。僕は麻衣と並んで座っているだけで胸が一杯だった。僕は夢中で赤いきつねの油揚げを食べた。赤いきつねの湯気の向こうに、笑っている麻衣の顔が揺れていた。


 大好きな油揚げなのに、なぜか味が全くしなかった。

 

                 2

 今日も実験で遅くなった。僕は大学の近くの下宿に戻った。今日は身体が熱かったので、研究室にあった体温計で熱を測ってみた。なんと41度もあった。こんな高熱は初めてだ。すぐに近くの医者に行った。


 「疲労ですね」


 医者はそう言うと、大きな注射器を持ってきて僕の腕に突き刺した。ぶどう糖の注射だった。その注射が効いて、2時間もすると熱は平熱に戻った。休むべきだとはわかっていたが、僕は実験室に戻った。やりかけの実験を続けた。


 下宿の時計を見ると、もう零時を過ぎていた。疲れていた。しかし、眠気を全く感じなかった。教授に指示された学会発表が迫っていた。ここで手を抜くわけにはいかなかった。夕食を食べていなかったが、食欲は感じなかった。


 一体何のために僕はこんな苦労をしているんだろう。そんな思いが僕の胸を満たした。僕は服を着たまま、布団にもぐりこんだ。天井を見上げた。何の希望もなかった。涙が湧いてきて、目尻から布団に流れて落ちた。


 そのとき、下宿のドアがノックされた。僕が布団から立ってドアを開けると麻衣が立っていた。麻衣は僕と同じ大学に通っている。折れた心に麻衣の笑顔がまぶしかった。僕は涙の跡を麻衣に見られないように、そっと顔を横に向けた。


 「まだ、夕食を食べてないんでしょう」


 麻衣は僕の部屋に入ると、そう言ってコンビニの袋を差し出した。中には赤いきつねと緑のたぬきが入っていた。麻衣がお湯を沸かしてくれた。僕たちは部屋の中央にある折り畳みの簡易テーブルでカップ麺を食べた。食べながら、麻衣がポツリと言った。


 「私ね、A物産を受けようと思うの」


 A物産か。僕はため息をついた。一流の会社だった。僕には無理だろう。僕も就職を考えなければならなかったが、実験に追われて就職活動は開始していなかった。

 

 「あなたは就職、どうするの?」


 緑のたぬきの天ぷらを箸で崩しながら、麻衣が聞いてきた。麻衣は天ぷらを崩して、ツユの中に破片を浸して食べるのが好きだった。


 「就職? そうだなあ? まだ、決めてないけど・・」


 「じゃあ、私と同じA物産にしなよ」


 麻衣はそれが言いたかったのだろう。言うとニッコリと微笑んで、僕の顔を下から覗き込んだ。麻衣の得意なポーズだった。このポーズをされると、僕はたちまちメロメロになってしまう。


 麻衣と同じ会社で働けたらいいな。


 将来にかすかな希望が湧いてきたような気がした。僕はあわてて、赤いきつねの油揚げを口に放り込んだ。


 まるで僕自身のようなほろ苦い味が口の中に広まった。


                 3

 眼の前で車が正面衝突した。そのはずみでタイヤが外れて、こちらに飛んできた。


 「あぶない」


 誰かが叫んだ。フロントガラスの向こうで黒いタイヤがみるみる大きくなって、こちらに迫った。僕の横のタクシーの運転手が急ブレーキを踏んだ。


 僕はタクシーの助手席に乗っていた。A物産に運よく入社して、上司二人と出張に出かけるところだった。空港に行く途中で、乗っていたタクシーが交通事故に巻き込まれたのだ。


 キーッという鋭い音がして、タクシーが横向きに止まった。僕の身体が大きく揺れて、シートベルトが身体に食い込んだ。タイヤがタクシーのどこかに当たった。ゴンというものすごい音がして、タクシーがまた揺れた。そこへ、後続車が突っ込んできた。僕は眼をつむった。死を覚悟した。


 ・・・・


 気がつくと、ベッドで寝ていた。なぜか身体が動かなかった。


 「良かった。気がついた」


 麻衣の声がした。だけど、頭を固定されていて、僕は横を見ることができなかった。上を向いたままの僕の眼には白い天井だけが映っていた。急に視界に麻衣の顔が現われた。麻衣が上から僕の顔を覗き込んでいた。麻衣は泣いていた。麻衣の涙がポタポタと僕の顔の上に落ちた。


 「ここは?」


 麻衣の涙に濡れながら僕は聞いた。


 「病院よ。交通事故があって・・あなたはこの病院に運ばれたの。三日間、生死の境を彷徨さまよっていたのよ」


 「みんなは? 他の人は無事?」


 「無事よ。課長さんも部長さんも、タクシーの運転手さんも幸い軽症で済んだわ。あなただけが重症だったの」


 「ずっと、僕に付き添ってくれたの?」


 麻衣が泣きながら、うなずいた。麻衣もA物産に入社していた。配属先は僕と異なるが、僕と同じビルで仕事をしていた。

 

 僕は三か月入院した。


 僕の両親は僕が中学生のときに他界していた。兄弟がいない僕は叔父の家で育てられた。しかし、お世話になった叔父夫婦も去年相次いで他界し、僕は天涯孤独の身になった。麻衣も同じような境遇だった。麻衣も身寄りがなかった。


 僕が入院している間、麻衣が会社の長期休暇を取って、ずっと僕に付き添ってくれた。身体を動かせない僕に麻衣が食事を食べさせてくれた。


「病院のお食事だけでは飽きるでしょう」


 麻衣はそう言って、ときどき赤いきつねと緑のたぬきを作ってくれた。僕の大好きな赤いきつねの油揚げを、麻衣は鋏で切って小さくしてから、カップにお湯を注いだ。赤いきつねができ上ると、油揚げを少しずつ僕の口に運んでくれた。僕はゆっくりと味わって油揚げを食べた。甘辛い味がした。


 食べながら、僕の眼に涙が浮かんできた。泣きながら、僕は赤いきつねを食べた。すると、麻衣の顔が僕を上から覗き込んだ。泣き顔を見せたくなかったが、身体を固定されている僕にはどうしようもなかった。僕が泣いているのを見て、麻衣は驚いたようだった。そして、僕を見つめる麻衣の眼にも涙が浮かんできた。僕たちは二人して泣いた。僕の心を温かいものが満たした。


 僕の口の中で涙の塩辛い味と油揚げの甘辛い味が交錯した。


                 4

 僕はスーパーで赤いきつねと緑のたぬきを買ってきた。アパートに帰ると、緑のたぬきのフタを少しだけ開けた。中にスープとかやくと麺が入っているのが見えた。僕はあるものを中に入れた。そして、フタをでんぷん糊で判らないようにくっつけた。


 今日は麻衣の誕生日だ。お金のない僕たちには、豪華なレストランでお祝いしたり、豪華な贈り物をすることなどできなかった。僕のアパートで二人で、僕の手作りの料理だけで麻衣の誕生日をお祝いするのだ。僕はスーパーで買ってきた安い赤ワインと手作りの料理をテーブルに並べた。


 しばらくして、麻衣が僕のアパートにやってきた。


 「へえー。これを作ってくれたの」


 麻衣がびっくりして、僕の手料理に眼を見張ってくれた。僕たちはワインを飲んで、食事をした。楽しかった。質素だが充実していた。食事の途中で、僕は赤いきつねと緑のたぬきを出した。


 「やっぱり、僕たちはこれを食べなきゃいけないね」


 僕はそう言って、沸かしたお湯を持ってきた。そして、緑のたぬきを麻衣に差し出した。


 「そうね」


 麻衣はそう言って、緑のたぬきのフタを取った。麻衣の手が止まった。


 「これは?」


 麻衣はそう言って、緑のたぬきの中からあるものをつまみだした。僕は麻衣の前に正座した。頭を下げた。そして言った。


 「僕と結婚してください」


 麻衣が驚いて僕を見た。手の中のものがキラリと光った。僕がなけなしの貯金をはたいて買ったダイヤの指輪だった。決して高価なものではなかった。決して大きなダイヤではなかった。だが、僕の心の全てを込めた小さなダイヤだった。


 麻衣の眼に涙があふれた。涙が頬を伝って床に落ちた。麻衣は顔を手で覆って泣いた。そして、床に座って僕の手をとった。泣き顔で僕を見ると言った。


 「こちらこそ、よろしくお願いします」


 僕たちは赤いきつねと緑のたぬきを食べた。何があっても麻衣を幸せにしよう。僕は食べながらそう心に誓った。


 油揚げを噛むと、甘い味が僕の口の中に広がった。


                            了





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頑張るあなたに差し入れですよ。 永嶋良一 @azuki-takuan

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