四章『やっすい女』

その1

 午後から降雨と予報されるに相応しき、鼠色の空。

 烏星財団の手で隔離された地域の外では早くも街灯に明かりを灯す時分。

 無剣家の正面、車道と歩道の境なき道で幾重もの火花が舞い散る。

 かたやナイフ。

 一道歩が担いし得物で数多もの血肉を啜った末、刀身を漆黒に染め上げた一品。拳銃だろうと短刀だろうと集団だろうとお構いなし。

 それが自らの敵であるならば、一切の躊躇なく血の海に沈めるまで切り刻むまでのこと。

 かたや鍵。

 切島唯之介が担いし得物で数多もの来訪者を無剣の家へ招き入れた一品。友人だろうと訪問者だろうと複数だろうともお構いなし。

 それが家主を目的としたものならば、一切の躊躇なく扉を開くまでのこと。


「こ、の……ふざけた、真似を……!」

「……!」


 殺戮の末に成り立つ得物が、ただの鍵と互角に渡り合う異常事態に一道は幾十の苦虫を心中で噛み潰す。

 あり得ない。あり得てはならない。あり得る訳がない。

 動揺を見せているのは一道のみにあらず。

 大気も釣り合うこと自体が理から外れていると、ぶつかり合う度に驚愕の悲鳴に連なって周囲に衝撃を伝播させる。真空の破裂がマフラーを、正面を止めていないスーツを、一人竹刀を支えにして立ち上がった無剣の白髪をたなびかせた。


「早い……」


 互いの刃の軌跡は目で追うのが辛うじて出来るかどうか。甲高い音が瞬く火花に遅れて殺到する辺り、もしかしたら見逃している剣戟もあるのかもしれない。

 無剣は唇を噛み締め、一筋の血を滴らせる。

 下手に割り込もうとすれば、足を引っ張るという確信めいた疑惑が拭えない。

 故にただ見守り、祈るのみ。

 切島の勝利を。


「このォ!」


 叫び、一道は左の裏拳を放つ。

 有効打を与えようという意志は薄い。むしろ回避に意思を割かせることこそが本懐。

 事実、切島は突然の顔へ迫る一撃に状態を仰け反らせ、大きく姿勢を崩すことで回避を果たす。

 即座に空を切り、切島の胴体を薄く裂くは逆袈裟に振るわれたナイフ。


「ッ?」


 追随する微かな血を前に一歩二歩と後退し、一道を視界の中心へ収める。

 他方で一道はナイフを振って血痕を払う。


「ハッ。全刀流も大したことねぇな。これなら、さっきの嬢ちゃんの方が……?」


 余裕の笑みを浮かべ、舌を突き出す一道だが、左腕に走る違和感に視線を落とす。

 視線を落とした先。そこには灰のスーツが切り裂かれ、内より血を滴らせた左腕の姿。

 斬られた覚えなど毛頭ない。無剣からの刺突が悪化したにしても、切欠が皆目見当つかない。

 表情を素早く困惑へと移行させた一道とは対照的に、切島はあくまで無表情を貫いたままで相手を見据える。その手に握る鍵から、微かな血を滴らせて。

 全刀流に於いて鍵は初伝。一瞬の、裏拳を振るう隙があらば、人体を裂くなど造作なし。


「ふぅ……」


 一道との戦いで身体に熱が蓄積したのか、熱の籠った呼気を吐き出す。

 殊更ゆっくりと、排熱動作を行う蒸気機関車を彷彿とさせる仕草で。

 ゆらり。

 身体を左右に揺らし、不規則な動作で照準を逸らすと切島は一気に接敵。


「ハッ!」


 一道もまたタイミングを合わせてナイフを振るうことで鍵の一閃を妨げる。尤も切島は既に背後へと駆け抜けているものの。

 振り返り、通り抜けた先へ視線を向けるが、眼前には濃い青のジャケット。


「なにッ?」


 再び瞬く火花に上擦った声を漏らすも、視界から切島は消え失せている。

 次なる衝撃は右、左、前、前、前。

 五つの剣閃を煌めかせ、都度迎撃の剣閃を振るうもののなお止まる気配は皆無。たかだか刃渡り二センチにも満たぬ鍵如きが、真剣たるナイフを圧倒する怒涛の連撃を繰り出す不条理に気圧された一道は、知らず一歩後退る。

 刃を重ねろ、一撃でも多く重ねろ、すり抜けた分だけ寿命が縮むと思え。

 気づけば一道の額から、幾つもの滴が垂れ流されていた。

 思考も徐々に刃を捌くという一つ事に傾向し、準じて肉体も無駄な力を廃して最適化。

 故に、唐突に側面から割り込む異物への対処が、遅れる。


「おせぇ」

「がッ……!」


 無数の刃に割り込む回し蹴りが一道の右頬を抉り、身を捩らせて塀へ衝突。

 内臓へ伝わる衝撃に空気を吐き出す刹那、眼前にまで迫った鍵を躱すべく身体を回転。ブロックに突き刺さる鍵を尻目に、手早く体勢を立て直す。

 口から漏れ出た血を拭えば、目つきは極道の若頭に相応しき凝縮された殺意の眼光。


「凄い、奴を圧倒してる……」

「まだやられてねぇッ!」


 無剣の零した言葉を否定し、一道は駆け出す。

 固く柄を握り締め、我武者羅に乱舞。

 元より刃渡り三〇センチ程度の取り回しに優れた得物。素早く連撃を見舞うことに限定すれば、短刀など遥か彼方に置き去りとする。

 風を斬る神速の連撃に、より手早い速度で追従して致命傷を妨げるはより間合いの短い、最早拳と大差ない得物の鍵。明かりに乏しい曇天の下、漆黒の刀身は火花が散る度に鍔競り合う鍵の姿を反射する。

 対峙する武具が鍵でさえなければ、全刀流でさえなければ追随することも叶わず、鮮血に沈んでいたのかもしれない。

 しかして存在しない仮定IFの話に価値などなし。

 振るう炭素鋼の刃の尽くが加工性と強度を両立した洋白に受け止められる現状こそが、現実。


「ふぅ……」

「余裕ぶってんじゃねぇッ!」

「あ?」


 軽く息を吐く程度。呼吸一つ乱さぬ切島の仕草は、余裕の証左。

 侮辱と受け取った一道は激高し、更に一歩踏み込む。

 間合いの短い二種の得物、ただでさえ拳の射程と相違ない状況下にあって、最早互いの体躯をぶつけ合うが最適の距離。

 事実、低く身を屈めた一道の目的は突撃によって敵対者が姿勢を崩すこと。

 目論みは成就し、腰へ直撃した衝撃によって少年は後方へと仰け反る。どこか気の抜けた声を漏らすも、実情は彼の自認よりも深刻。


「ハッ、形勢逆転ってなッ!」

「どこがだよ」


 刃を突き立てん好機と切先を伸ばした一道への毒が、自然と口から零れる。

 追随して振るうは、神速の貫手。


「が、ぎぃ……!」

「こんなの全刀流じゃあ初伝ですらない……修練課程だ」


 貫通こそ叶わぬものの、肉はおろか骨にまで届く手刀がスーツ諸共に肩を穿ち、突貫を食い止める。突撃の勢いで踏み込んだ一歩が、肉を抉る声音が体内に響かせた。

 苦悶に唇を噛み締める男が食い込む左手を掴み、引き抜く。

 元より体勢が崩れたが故に見舞った咄嗟の一撃。体勢を立て直すことこそが先決と、切島も追撃の手をかけるつもりなし。

 左手を濡らす鮮血を振るい、残りをマフラーで拭う。どこか子供染みた所作でこそあるものの、流血に濡れた利き手へ力を込めるだけで精一杯の一道に指摘する余裕はない。


「はー、爪に肉入ってねーよな……洗うの面倒だからあんまやりたくねぇんだよ、これ」

「ふ、ざけんなよ……てめぇ……!」


 罅が入るのも厭わずに歯を噛み締め、一道は自身の爪を見つめる切島を睨む。ジャケットごと体躯を穿たんばかりの鋭利さを以って。

 彼の言葉を受けてか、首を鳴らすと切島は視線を移す。

 興味の一切を持たぬ、感情の窺えぬ瞳で。


「ッ……!」


 無意識に息を呑み、一道が後退る。

 靴底を引きずる所作は左手で抉られた肩口を抑える様と相まって、端から見れば一方的に痛めつけられる被害者という印象すらも漂わせていた。

 対して膝を折り曲げ、発条の如く解き放たれた跳躍は加害者の少年を宙へと浮かべる。

 向かう先は無論、血の海に沈めるべき敵手。

 視界から消え失せたことで姿を見失った一道が、一瞬だろうとも視線を左右へ振る。だからこそ、反応が遅れて中空からの強襲が真価を発揮する。


「このッ……!」


 体勢を低く、可能な限り着地点を伸ばすように。

 一道の振るうナイフの切先はベレー帽の端を掠めるも、血肉には至らず。反対に身を丸めて飛距離を伸ばした切島の鍵は脛をズボン諸共に引き裂く。

 更なる出血に一道は顔を顰め、切島は位置がズレたベレー帽を抑えて調整。


「なんて出鱈目な動きを……」


 無剣は率直な言葉を零し、二人の戦いを見守る。

 三平会での一件で見せた動きとも異なる、常套手段セオリーから乖離した所作は着実に怨敵へ出血を強いている。彼の動く奇跡が、一筋の流血を以って繋がっていることこそが何よりの証左。

 両親の仇に最期の瞬間が近づいていることに高揚している自分を自覚しつつ、無剣は唇を甘噛みした。


「そぉらッ」


 着地の勢いを維持したまま反転し、去り際に懐から三枚の名刺を投合。

 切島相談事務所の宣伝以上の役目を持たぬ名刺など、流石の全刀流後継者も苦無の代替とはいかぬ。

 そも、激しい摩擦を発生させることこそが万物に切断力を与える絡繰り。彼の師匠ならいざ知らず、単なる名刺の投擲に刃を連想させる切れ味を付与することなど不可能。

 尤も、相手が事実を知らないのならば警戒心を最大にせねばならず。


「チッ、素早いッ!」


 腕の反動に従い、身を回した一道は名刺を回避すべく身を屈めて左手を含む三点で跳躍。上半身に遅れて両の足がアスファルトを離れる。

 直進する紙がブロック塀へ直撃するも弾け、名刺が風に揺れる。一道もまた着地し──


「ッ?!」


 直後、乗じて距離を詰めた切島が鍵を突き立てる。

 驚愕に目を見開くも、一道もまた素早くナイフを振るって火花を散らす。

 そして再度木霊する斬撃音。

 一撃、二撃、続いて三撃。甲高い音色が響く度、互いの間で光が瞬く。

 上段、中段、下段。突き、薙ぎ、払い。変幻自在に形を変える剣閃は、さながらそれぞれが独立した意志を持って相手の刃へと噛みつく。

 激しい剣戟を繰り返せば、やがて限界を迎えるのは道理。まして、本来は武具を目的として形成されていない以上、ナイフよりも早く摩耗が進行することもまた道理。


「あっ」

「あ、鍵が……!」


 半ばからへし折れ、無剣が思わず右手を伸ばす。

 切島が使用していたのは、着替えを取りに行って貰った際に彼女が貸し与えた無剣家の鍵。一道が全てを破壊した、平穏に過ごす家族を無くした家の鍵。

 その欠片が音を立て、アスファルトを転がる。

 得物の損壊などという好機を眼前の敵が見逃すはずもなく、振り抜いた腕から手首だけを捻り、切先を向ける。直後に刺突。

 多少無理のある姿勢から放たれた一撃でこそあるが、武具を失った切島に捌く手段はなく、腰を回して直撃を回避するのみ。

 結果として刃は頬を掠め、神経を刺激する鋭い痛みに奥歯を噛む。

 これ以上の追撃は困ると切島は大きく身を仰け反らせて後方転回。さり気に爪先で顎を掠めようと狙うも、一道も反射で身体を仰け反らせて前髪数本を生贄に生還。

 数歩遅れて追撃に駆け出すも、その差は一向に縮まらず。


「何か得物は、っと」


 一定の距離を取ると状態を起こし、切島は辺り一帯へ目を通す。

 しかして住宅街の一角、それも道路で事を交えるとあっては全刀流の得物として用いれるものも早々ありはしない。清掃に力を込めている人物に、今回ばかりは不満を抱かずにはいられない。

 止むを得ず先程、無剣との交戦の末にへし折れた竹刀の先端を拾い上げると、柄革を握り締めて一道へと迫る。

 身を低く屈め、滑り込むような突貫に対峙するは一道の振るうナイフ。

 風を切る刃の一閃が、竹刀の突き立てる刺突の軌道を逸らし、後方へと斬り払う。


「そんな即興の得物でよぉッ!」


 身を捻り、ボタンの留められていないスーツをはためかせて左腕を伸ばす。

 意趣返しとばかりの手刀を竹刀で切り上げるも、いなされた姿勢から強引に身を翻した状態故に足元が不安定。更に距離を詰めた上で続く刃の刺突はインナーを破き、肌に擦過傷を刻む。

 倒れゆく中、切島は片手で身体を支えると、発条が最大限に力を発揮するため押し縮められるように肘を曲げて力を蓄積。

 最大限に曲げられた右腕に血管が浮かび、五指はうっ血で紫に染まる。

 そして、開放。


「らぁッ!」

「がッ……!」


 静から動へと、切島の足が急激な状態の変化に対応し切れなかった一道の左肩を抉る。右を穿つことが叶えば武器を手放させることも期待出来たのだが、過剰に近づいた間合いを離せたならば及第点。

 勢いをそのままに足をつけ、手早く袈裟に振るう。

 衝撃に意識を奪われていた男が即座にナイフを軌跡に挟み込むことで直撃を避けるも、衝撃によって更に状態は後退。

 靴底がアスファルトに擦れ、爪先に力を込めることで姿勢を制御。

 喉を鳴らし、一道は怒気を剥き出しにするも視線を注がれているはずの切島は意にも介さない。

 竹刀の先端は僅か数度の使用にも関わらず、炭素鋼やスーツとの接触で丸まっていた。物を斬るには不適切な状態であるが、彼が修めている全刀流にかかれば支障は絶無と断言出来る。


「ふぅ……」


 深呼吸を一つ。

 切島は竹刀を腰に据え、左手でも掴む。

 右足を突き出した半身姿勢で膝を柔軟に対処出来る程度に曲げた構えは、居合を彷彿とさせる。

 完全な待ちの姿勢で待機するのであらば、一道も無理に攻めに転じるつもりはない。喧嘩を売った張本人である無剣を血に沈めるまでのこと。

 そう判断し、上半身を少女へ向けた頃合いに。


「チッ、動けるのかよッ!」


 摺り足。

 足裏が地面を離れぬように太腿を腰から押し出して接近する歩法。極まった摺り足の保有者は上体が安定し、隙を見せずに対応が可能となる。

 音を出さぬ手口に反応が遅れ、空と地を分かつ居合斬りが胴体を二つに両断。

 物々しい音を立てて削れるナイフさえ存在しなければ。

 一閃によって削れた炭素鋼が地面に散乱し、対峙する真竹もまた激しくその刀身をすり減らす。

 鍔競り合いを嫌った一道が腰を捻って左回し蹴り。風を巻き込む剛脚の一撃を竹刀で防ぐ切島であったが、元より破損品の再利用。容易くへし折れて欠片を散らす。

 後方へ大きく跳躍して距離を取ろうと図るが、読んでいたとばかりに一道も地面を踏み締めて跳躍。始動の差か、僅かばかりの距離は稼げたもののナイフを振るうに支障は皆無。


「そらぁッ!」


 かけ声を一つ。

 獲物を屠らんと振るわれたナイフは、愚直なまでに直進して切島へ迫る。

 空中で取り得る選択肢は極端に限られる。多少腰を捻った程度なら、着地の姿勢が崩れた所を畳みかければいい。仮に懐から新たな得物を取り出すにしても、初撃を防ぐには時間が足りぬ。

 故に、だからこそ切島は左手を伸ばし──


「何ッ?」

「切島ぁッ!!!」

「ッ……」


 肉を裂く感触に遅れ、間に異物を挟んで虚空を駆ける感触。そして五指による拘束。

 無剣の絹を裂く声を背景に、切島の左手は手の甲から一輪の花を咲かせる。己が血を花弁とした、血染めの花を。

 着地に意識を割ける姿勢かつ一道の意表を突く形としての選択だが、思いの外に効果的な様子。互いの体躯がアスファルトの上に着地し、反動で靴裏が削れる。

 切島は左腕を身体に引き寄せると、拘束されている一道も追随。

 当然それは、多大な隙を露にしたものであり。


「がっ、は……!」


 深々と鳩尾に食い込んだ拳が、一道の肺から空気を吐き出させる。


「オラよ、っとッ!」


 更に掬い上げる軌道で身体を持ち上げ、背後へ投げ飛ばす。最中で左手に突き刺さったナイフが外れ、噴水よろしく赤が噴き出した。

 背中に鈍い衝撃が走り、一道が一瞬意識を途切れさせる間に切島は首に巻いたマフラーを解き、右手で掴む。宙を舞う燈のマフラーが主の意思に応じて蛇の如く蠢き、先端がなおも意識を取り戻さない獲物を睨みつけた。


「全刀流中伝応用──マフラー」


 紡ぐ言葉の直後、空を裂く刃が地を抉る。

 半瞬前に意識を回帰させた一道が身体を回さなければ、アスファルトをも貫く一撃が彼の胴体に穴を開けていただろう。

 両手を駆使して身を起こし、敵を凝視。

 マフラーを周囲に漂わせ、自らを守護する結界を展開する切島は汗一つ流すことなく相手を見つめる。そこに一切の感情が介在する余地はなく、依頼がなければ意識を注ぐ余地すらなかったのだろう。

 その余裕が、一道に一層の屈辱を植え付けた。


「マフラーまで刃だと……どこまで滅茶苦茶やりゃあ気が済むんだよ、ゴラァッ」

「どこまでだろうな、うん」


 右腕を伸ばし、一足遅れてマフラーが蠢動。

 中空を縦横無尽に動き回る刃は、ナイフなど比にもならぬ間合いを以って一道へと迫る。

 直線の一撃を寸前で躱すも、直後に右へうねり頬を掠めた。体勢を傾けて直撃を避け、背後へ跳び刃を逃れる。

 切島は手首を幾らかスナップさせ、マフラーを操作。獲物を胴で囲う蛇を彷彿とさせる所作は、互いの力量差を雄弁に物語る。


「ハムに巻かれてる紐って、何なんだろうな。うん」


 右腕を引き抜けば、急速に包囲網が収縮。

 二秒と経たずに中心部をマフラーで包み込むも、一道は辛うじて人が潜り抜けられる下の隙間へ身を滑らせ、飲み込まれる事態を回避。

 巻きつくことに失敗した蛇は即座に身体を緩ませ、次なる侵攻に備えて姿を変える。


「全刀流……天狗が自慢げになんか言ってた気がするな……!」


 言葉の端々に怒気を籠らせ、一道は脳の奥底に眠っていた記憶を参照。

 知恵者を気取って弁舌を働かせたのは、天狗であったか。


『古くは戦国の世から伝わっている流派、己が得物を失ってなおも功を求めた侍が祖とも言われている剣術……それが全刀流だ。

 元々は……』


 違う、相手の担う技術の歴史など知ったことではない。

 記憶を早送りし、肝心の情報を引きずり出す。


『全刀流の真髄は得物の強度に応じて、精密に特定箇所を擦り続けることにある。そうすることで万物の切断を実現する。

 免許皆伝ともなれば、投げた名刺が厚さ一〇ミリの金庫を貫通するとも言われているな』

「強度に応じて……精密に擦り続ける……」


 紙面すらも刃に変換する秘訣が、紙で指を切る稚児と同程度の事象とは拍子抜けする話である。もしくは、単なる事故を殺人術にまで昇華した先人の執念に畏怖を抱くべきか。

 ともあれ、絡繰りが読めれば対策を講じることもまた容易。

 脇を掠める毛糸が肉を削り、一道は意識を保つべく舌を噛む。勢いが良過ぎたか、口内に鉄の味が広まるも無視。

 踏み出す足に力を込め、一挙に距離を詰めんと加速する。


「近づかせるかよ!」


 引き寄せる力に乗じて一瞬空中で弧を描くマフラーが、切島の指示に従って敵対者へと殺到。

 竜巻を彷彿とさせる軌道を描くマフラーは道中でアスファルトを削り、人一人を閉じ込めるには充分な空間を確保する。一度範囲内に収まれば、先程の収縮動作で全身を切り刻む算段か。

 尤も、根幹に当たる計算式はこれより歪みを生じるのだが。


「近づけるに決まってんだろぉッ、あ゛ぁ゛ッ」

「チッ……!」


 一道は叫び、敢えて側面のマフラーへ接触。

 免許皆伝者の投合にしては、ブロック塀一つ貫通出来ない名刺は稚拙に過ぎた。ならば奴は急な獲物の方向転換に、殺傷力を維持したままの制動が不可能なのではないか。

 目論見は的中し、左肩は激しく擦られる感触こそあれど、それが痛覚へと昇華する兆しはなし。切島の舌打ちもまた、予想の的中を裏づける。

 異物の乱入で軌道が狂い、マフラーの進路妨害が解除。

 隙を見逃すつもりはないと、一道は加速を重ねる。

 懐へと跳び込めば、そこはナイフの領域。下手な長物など反射の世界に於いては邪魔ですらある。

 剣閃が一つ。


「全刀流初伝──財、布……!」


 咄嗟に懐から取り出した財布を二指で挟み、漆黒の刀身へぶつけるも──


「ハッ、振り込みがあめぇッ!」


 切れ込みが入ってしまえば最早手遅れ。

 偉人の描かれた札を宙へとばら撒き、硬貨が明かりに乏しい空模様に光を加える。それらを内包していたはずの外側は、綺麗に両断され半身を空中に浮かべていた。

 次に手ぶらと化したのは、切島。

 音の壁を打ち破る刺突が破滅的な衝撃を連れ添って腹部へと伸び、左脇腹へと突き立てられる。


「切島ッ」


 背中から微かに顔を覗かせる切先に、未だ休息を訴える身体に鞭打ち無剣が駆け寄る。

 が。


「チッ……心配いらねぇ、よッ!」

「あぁんッ?!」


 切島は脇腹から伝わる灼熱など意にも介さず右腕を振るい、マフラーを一道の腕へと巻きつけ拘束。更に手元に残った財布を顔面めがけて投合。

 反射神経で直撃を回避すると、一道はナイフを引き抜き距離を離す。

 時が経てば失血死すら見える手応えに、これ以上の積極的交戦は不要との判断に基づいての行動だが、大蛇の如く左腕を締め上げるマフラーが目論みを妨げる。


「なっ……!」


 二メートル近い距離の段階でマフラーが伸び切り、引っ張られる形で後退に失敗。背を仰け反らせる姿勢から回復した一道が燈のマフラーを睨みつける。


「邪魔しやがってッ」

「おおっと、そうはいかねぇよ」

「なぁッ?」


 ナイフで切り裂かんと振るうものの、張り詰めた状態なら容易な行為も拘束の緩まった状態では刀身を優しく巻き込む程度。

 得物の主導権が掌握されている以上、脇腹の傷から滝の如く出血していてなおも切島の圧倒的優位は崩れない。一定の間合いが確保されているため、一道は失血死狙いの逃避すらも封じられているのだから。

 そのまま切島は振り返ると、今もなお血を噴き出す左手を、さながら社交界のダンスへと誘うように無剣へ差し出す。


「竹刀を少々、貸してくれ」

「え?」


 要求の意味を理解出来ず、竹刀を反対に胸元へと引き寄せる無剣だが、切島の目に冗談の色は皆無。

 刹那、寒気が全身を駆け抜けるも、躊躇の時間としては許容範囲。


「……はい」


 先端を差し出すと切島は掴み取り、手元で一回転。

 柄をしかと握り締め、身を低く屈める。皮肉とでもいうべきなのか、刀身を半ばから折られた竹刀は、切島にとってむしろ扱い慣れた重みを掌から伝えてくれた。

 力強く踏み込み、右腕を引き寄せることで重し代わりに更なる加速。


「クッソがッ……!」


 新たな得物を担って迫る切島の姿に、今更拘束から抜け出すことよりも迎撃の方が先決と一道もナイフを構える。

 彼我の距離が急速に縮まり、やがて刃が振り被られる。

 横薙ぎと、刺突。

 真竹と、炭素鋼。

 相半する二つの因子が、殺意という共通点のみを以って交差する。瞬間的に弾ける破滅の奔流に大気が泣き、電線も台風の如く揺れ動く。

 火花の一つもなく、彩るものなどどこにもない無骨な鍔競り合いに、観客はただ一人。


「いい加減にしろや……俺は三平会若頭だぞッ!!!」

「チッ……それが、どうしたんだよ……!」


 力づくで押し通さんと、一道が踏み込む。

 元より切島の振るった武器は、どれも本来は別の用途こそが本懐。ナイフと正面切って斬り結ぶことこそが異常事態に他ならない。

 現在の竹刀にしても、最早廃品こそが本来の道。

 そんな端役に、神の寵愛を受けし人間が敗北するはずがない。

 硬い自負の象徴たる弾滑りの痕を見せつけるべく、一道は切島との距離を詰める。


「さっさと、死ねや……ボゲがァァァッッッ!!!」


 咆哮が塵芥を周囲へ飛ばし、柄を握る手に一層の力を加える。

 そして刃に亀裂が走る。

 一つ、二つ、そして三つ。

 蜘蛛の巣よろしく刀身全体に伝播する破滅の兆しが、アスファルトへ欠片を落とす。炭素鋼の、漆黒と背面の純白を煌めかせる欠片を。


「……は?」


 掌を介して伝わる違和に、思わず一道は声を漏らす。

 全刀流の真髄は針穴に糸を通すかの如き精密性。特定部位を擦り続けて始めて万物を刃と化す技術を以って、斬り結ぶ度にナイフの特定部位へ過負荷をかけていたとしたら。

 答え合わせと言わんばかりに臨界を迎えた刀身が弾け、周囲に欠片が飛散。

 同時に、竹刀の進行を食い止めていた唯一の抑止力は喪失し、切島は腰を捻る。


「顔がきたねぇんだよッ!!!」


 肉を抉る生々しい音を立て、へし折られたことで先端を鋭く研ぎ澄ました竹刀が一道へと食い込む。薙げば薙ぐ程に生理的嫌悪感を醸し出す音がグロテスクな一文字を刻み、抵抗を無くした直後に先端から肉と皮、そして途中で折れた木片がブロック塀へ前衛的アートを創造する。

 竹刀の一閃に巻き込まれ、十字の首飾りが金具から千切れ、アスファルトに散乱。幾らか感性で転がった末、付近の排水溝へ落下した。

 傷口は深く、誰の目から見ても致命傷であることは疑う余地もない。

自らの身に振りかかった事態に理解が及んでいないのか、一道は後退のつもりでたたらを踏み。自主的にしては緩慢に過ぎる所作は、やがて背後の塀へと背中をぶつけて糸の切れた操り人形のように頽れた。

 アスファルトに一つの染みが生まれ、徐々に伝播。無剣が上空を見上げれば、いつ降り出してもおかしくない様相であった曇天が、溜め込んだ多量の水を吐き出していた。


「お、俺が……負け……た?」


 事実を確認するように呟き、自身を見下ろす切島を凝視。

 少年はマフラーを腹部に巻きつけて一応の止血を行うと、先端を朱に染め上げた竹刀を少女へと手渡す。


「ほら、後はお前がやれ」

「え……?」

「元々お前の清算が依頼内容だったろ。だから、トドメはお前が差すべきだろ」

「…………うん」


 殊更ゆっくりと首肯し、無剣は足を塀へ横たわる男へと向ける。

 犯人を見つけ、刃を重ねた瞬間から幾分か時間が経過したためか、頭に上り切り全身を煮え滾らせていた血も幾分か沈静化している。

 それは同時に、常人であらば持ち備えて当然の殺人への忌避感をも、蘇らせたことを意味する。


「私の家……」


 何の因果か、一道が寄りかかるブロック塀の背後に無剣の生家が立地していることも関係しているだろう。

 両親の眠る場所、そして自身が生まれ育った場所を前に人理に悖る行為を本当に取れるのか。誰かから最期の警告をされているようにも思えるのは、気のせいではあるまい。

 眼前に立つセーラー服の少女が何を目的にしていたか。

 身体が冷えつつある一道は、身体を僅かに仰け反らせて口を開く。


「お、俺は三平会の若頭だぞ……関東和平連盟傘下の、なぁ。

 よく、考え直してみろ。カハッ……関東一帯の極道勢力を傘下に収めた、烏星財団だって簡単には手を出せねぇ……大物だ。どこの弱小事務所だか分からんヤツらなんぞ……ガキの手よりも、簡単に捻れるぞ……!」

「……」


 吐血し、自らの衣服を鮮血に染め上げるも口を閉じる選択はなし。それでもと恐怖に塗れて喚き散らかす戯言は、無剣の神経を逆撫でして有り余る。

 命の危機を明確に感じ取りながら、被害者を前に開口一番開く言葉が己の所属する組織の自慢など、唾棄すべき思想そのもの。

 熱の籠った空気を吐き出し、ゆっくりと取り込む。

 入り込む外気は体温よりも格段に低く、上昇しつつある熱を一時的にだが沈静する。即座に燃え上がりはするものの、根底にあるものだけは維持したままに。

 半身の姿勢を取り、折れた竹刀の切先を一道の喉元へ。


「や、待て……馬鹿ッ。止めろ……!」


 命乞いが通じていないと解釈し、一道は塀へ身体を押し込む。

 動かぬ身体でなおも逃避するための破れかぶれなのだろうが、端から見れば滑稽極まりない。


「い、いくらか知らんが……金なら返すッ……オヤジに頭を下げれば、すぐにでも……用意出来る……お、俺は若頭だ……無碍にはしねぇ……!」


 柄を握る手に、力が籠る。

 矢を射るために限界まで引き絞るように、左腕を引き延ばす。それでいて剣先はブレることなく、無様な体たらくを繰り返す男へと。

 喚くごとに血を噴き出す有様で、それでも一道は言葉を繰り返す。


「か、家族か……そっちが大事かッ。

 ほ、本人は無理にしても……か、代わりの奴を──!」


 害虫の吐く音を掻き消すべく、無剣が繰り出すは神速の突き。

 剣道の正道から外れた一撃は正確に胸元を穿ち、一際大きな血染花を咲き誇らせる。

 刀身が半ばからへし折られていたためか、黒のセーラー服のみならず、無剣の顔にまで不快極まる粘度の高い赤が付着。重力に従って垂れ下がるに連れ、涙を彷彿とさせる風味を見せた。

 白目を剥いたそれは大口を開け、全体重をブロック塀へと預ける。意識の喪失は、火を見るよりも明らか。

 全ての音が途絶え、雨粒が周囲を叩く。聞き様によっては鎮魂の音色にも、祝福を遮るノイズにも思えるのは気の持ち様か。

 無剣は握り締めていた手を緩めると、その結果として竹刀が地面へと転がる。

 そして一道から、生家から背を向けると天を仰いだ。


「おいおいおい。まだ息があるぞ、コイツ。これでいいのか?」


 しゃがみ込み、手を口元に寄せると微かにだが、一道の呼吸が掌に伝播する。

 烏星財団の手で隔離空間と化した住宅街は、事実上の無法地帯。空間内でどれだけ人命を奪った所で、後で財団が総出を挙げて後処理を行うため露見する確率は極端に低い。

 暗に命を奪う最期の好機だと主張する切島に対し、無剣は言葉を紡ぐ。

 自虐と慚愧の念を綯い交ぜにした、雨に紛れても構わない声量で。


「……どうせ私は復讐相手の意識を奪うだけでスッキリする、やっすい女ですからー」

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