その5

 週の始まりにして終わり。心身共に疲弊した肉体を労う休日の一つ、日曜日。

 人によっては昼前後まで惰眠を貪る自由な日に、教会では聖歌の美しい輪唱が優しく敷地外を飛び越える。

 主が人の子を抱き締める様を多数の色合いで落とし込んだステンドグラスは、差し込む陽光に多種多様な色味を増してレッドカーペットを照らし出す。左右には出席者に着席を促す木製の椅子と時代に合わせたクッション。

 ステンドグラスの真下には二列に並ぶ聖歌隊の子供達と、高さにして二階に及ぼうかという大型のパイプオルガン。更には幾つかの用紙に隈なく目を通して流れの確認を取る神父の姿も見受けられる。

 麗しい音色を奏でる超大型の鍵盤楽器と無垢な子供の歌声は、常世の騒乱からかけ離れた芸術ですらあり、着席する者の中には鼻を啜る者さえいた。

 椅子の感覚は疎らで一列が埋まっている後ろが無人、といった極端さも珍しくない。

 その内の一つ、数人は一緒に座れる椅子にたった一人で腰を下す男がいた。

 灰のスーツを直に着用し、浅黒い肌を見せびらかすファッション。十字のネックレスを額に当て、目を閉じて祈りを捧げ続ける男。

 見るからに堅気から乖離した容姿をした男の名は、一道歩。


「……」


 微動だにせず真摯に祈りを捧げる様は、堅気ではないにしても信心深さを雄弁に物語る。服装による失点もギャップとして機能する程に。

 やがて聖歌隊が頭を下げて退場し、神父による説教を執り行う。


「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。

 これは他の一節で罪を犯したことのない者のみが石を投げなさいと諭したものと同様に、赦しの心、寛容さの重要性を説いたものです。日本に於いては、人を呪わば穴二つが似た意味を持つのでしょうか」


 神父の言葉を一言づつ咀嚼し、自らの血肉へと昇華する。

 弾滑りの奇跡を起こしたのは八年前。

 額に撃たれた必殺の一撃が偶然の入射角を以って頭蓋を撫でた日に、一道は神の実在を確信した。以来、礼拝には必ず参加し、献金も無理のない範囲で札を送る。

 寛容さ。

 咄嗟に脳裏を過るのは、自身への横暴を働いた門番であろうか。


「殴るだけで済ましたんだ。俺は寛容さに溢れてるな」


 自惚れた調子で独り言を零すと幾らか頷き、今回の献金当番に宛がわれた女性の持つ箱へ福沢諭吉の描かれた札を渡した。

 礼拝は滞りなく進行し、教会を出た頃には青空に雲が差し込み始めていた。今日の天気は午後から崩れるとは、朝のニュース番組に顔を出した天気予報士の弁であったか。

 扉を潜った一道は、出入口が一つ故に生まれた人波の後列に位置し、追随する形で門を目指す。


「ん?」


 門へ近づくにつれ、人波が何かを避けるように左右へ分かれる。

 何かは人のシルエットに酷似していたが、その割には右腕に当たる部分が不自然に膨張し、左腕は地面に掠める程に長大。碌に手入れの施されていない髪は獅子の鬣を彷彿とさせ、本来足が該当する部位がスカートと思われる広がりを見せる。

 徐々に距離を詰めることで何かが黒のセーラー服を着用していること、右腕は包帯を巻いて左には竹刀を握っていること、そして髪は白と輪郭が克明となる。

 俯いているが故に白髪が表情は一道から窺えず、視線の先も不明瞭。


「ッ……」


 だが、視線が向けられた。

 背筋を伝う悪寒が、そう確信させた。

 殊更ゆっくり持ち上げられた竹刀の切先が彼の喉元に照準があったことも、己が直観を一層深く肯定する。

 とはいえ、名乗りの一つも上げない小娘にわざわざ付き合う義理もなし。

 一道は少女の脇をすり抜けるべく、右側へ進路を転換し──


「……」


 少女が真横に動いて進路を遮る。

 ならばと、次は左に動くも相手も追随。

 二、三も繰り返せば一道と少女の間合いは近距離、剣の間合いとなるも互いに譲るつもりはない。


「邪魔だ」

「……」


 冷たく、冷酷に。

 思考を信心深い男から極道の若頭へと素早く切り替えた一道は、低く腹の底から響く声音で脅迫する。

 対峙する少女は、なおも無言。

 使い込まれた竹刀の切先だけが、三平会若頭への敵意をまざまざと物語る。


「おい、用があるならせめてなんか言え」

「……」

「聞こえねぇのか、ガキッ」

「……」

「口も効けねぇ分際で──!」


 語気を荒げた一道が懐に手を突っ込んだタイミングで、少女は切先を大きく変換。

 喉元から正反対へ向けられた、だけならば結局会話が成立しないだけの餓鬼に過ぎない。

 だが、少女の竹刀が示した方角に特殊な意味を見出すことは、正面に立つ一道には容易であった。


「あっちへ向かえ……とでも?」

「……」


 問いかけに首肯で応じ、少女は一道の背後へ回る。

 竹刀を少し押し込めば容易に胸を穿つ間合い。脅迫の体は変わりない。

 口の一つも効かぬ態度に不快感は着実に刺激されるも、折りしも赦しについて説かれた直後。多少の不手際なら大目に見てやろうという意識が勝る。

 肩を竦め、切先に突かれるままに一道は足を進めた。

 周囲からの奇異の目に、舌打ちを一つ残す程度の怒気を含ませて。


「おい、どこまで行くんだよ」


 歩き始めて既に一時間は経過しただろう。太陽は頭上に向けて進行し、影はその勢力を着々と伸ばしている。

 しかして目的地へ辿り着く気配すらも見えず、一道は苛立ちを込めて背後へ問いかけた。

 どうせ返事は訪れない。

 彼の予想は不運にも的中し、背後で切先を突きつける少女は声を発することさえなく視線のみを鋭利に研ぎ澄ます。背中を刺突するが如き視線を、曖昧ながらも一道は自覚していた。

 暗殺者ヒットマンにしては、手口が稚拙かつ堂々とし過ぎている。

 無計画な刺客にしては、進む足取りに淀みがない。

 となれば、他に当たる可能性は一つ。


「怨恨、か」

「ッ……!」


 呟く程度の代物で、少女の放つ威圧感が微かに揺らいだ。ように思う。

 即座に取り繕って元の意識に戻すものの、一道の抱いた予想を補強するには十二分。

 口端を上向きに吊り上げると、眼前の横断歩道に黒の高級車が複数停車していることを視認する。

 高級車の車名は不明なものの、エンブレムの羽ばたく烏とその羽根に刻まれた星で全てを察するには事足りた。


「お疲れ様です」

「……」


 車から下車して会釈する黒スーツの集団にも、少女は一言たりとも発することなく通過。失声症を疑う有様であるものの、言葉自体の意味は認識していると首の動きや時折見せる反応で窺える。

 即ち意図的に無視していることを意味し、一道の神経を一層逆撫でするのだが。

 高級車に乗せて快適なドライブであらばまだしも、一時間はかかる目的地を徒歩で目指すなど正気ではない。気候が冬に寄っているからまだ良かったものの、夏ならば熱中症を警戒せねばならない事態である。

 ふざけた道中に会話の一つもなく、やがて陽光を遮って鼠色の雲が空に割り込む。

 切欠は、少女の振るう竹刀が風を斬る音。


「ここで止まれ、と?」

「……」

「そこは首で応じるのかよ、マジで声帯でもイカれてんのか」


 互いに向き直り、対峙する。

 俯いた顔を上げた少女の左目は鋭利に研ぎ澄まされ、純然たる殺意に塗り潰されていた。そして右にはガーゼの眼帯。

 なるほど、怨恨による犯行という線が強まるというもの。


「そんな怖い顔するなよ、可愛い顔が台無しだぜ?」

「ッ……!」


 肩を震わし、少女は歯を噛み締める。柄を握る手から軋む音が聞こえたのも、気のせいではあるまい。

 周囲に視線を回してみれば、そこは一軒家が立ち並ぶ閑静な住宅街。洗濯ものの一つも干されていない不自然な様相を呈しているものの、烏のエンブレムを刻んだ高級車が停車していた意味を考慮すれば、何もおかしな話ではない。


「一つ……聞きたいことがあります」


 漸く開いた口から漏れるは、疑問の言葉。

 わざわざ面倒な工程を踏んだ上、ここまで終始無言を貫いた少女が問うたのだ。無碍に流すのも気が引けるというもの。

 それに、赦しの大切さを謳ったのが、今回の説教だったのだから。


「いいぜ。スリーサイズから連絡先まで好きに──」

「この家が何か……分かりますか……!」


 戯言を遮り、竹刀で付近の一軒家を指す。

 一道が視線を送れば、表札に無剣と書かれた家屋。随分と長い間放置されていたのか、庭には雑草が生い茂り、雨戸に隠れた乗用車は埃と錆が散乱している。

 さながら、ある時を境に時が止まったかの如くに。

 そして三平会若頭としても、一道歩という一人の男としても無剣などという性の人物に心当たりがなければ、家宅に造詣が深い訳でもない。


、ただの一軒家だろ」

「ッッッ……!」


 何気なく、当然のように呟き、そして少女の逆鱗に触れる。


「それなら最早問答無用ッ」


 素早く半身の姿勢を取り、大きく前傾で沈み込む。

 駆け出す一歩は力強く、鳴り響く音は一瞬に過ぎずとも一道に地割れを錯覚させる。


「今すぐさっさと私の視界から消え失せろッッッ!!!」


 慮外の加速に一歩後退るも、それで竹刀の射程から逃れられる訳もなし。

 手首のみで切先を合わせて限界まで伸ばされた左腕が、主の手を離れる寸前の引き絞られた弓矢を彷彿とさせ、照準器の代替として右手の先に怨敵の喉元を捉える。

 そして、断罪の一矢が解き放たれる。

 風を斬り、音を穿ち、生家の時を止めた怨敵を貫く。

 少女、無剣裂の一撃は──


「ッ……!」

「おいおい……おいおいおい、こんな小娘がいったいどこで流儀マナーを覚えたんだよ?」


 軽口を叩いて右足を下げた一道の、血を啜って刀身の色を変えたナイフに阻まれて上向きに逸れる。

 短刀ドスと比較してなお短い刃渡り。装飾の類はなく、幾度となく握ったことで僅かな凹みを見せる柄。唾に当たる部位も数多の接触の果てか、端の塗装が剥げてさえいる。

 そして刀身の色は、馬頭が告げたのと同様の漆黒。


「黒のナイフ……一道歩ゥッ!」


 遂に竹刀の間合いにまで近づいた怨敵を前に、無剣が叫ぶ。

 同時に、左腕に渾身の力を込めて歪な鍔競り合いを制さんと振り下ろす。

 膂力任せの力づく。

 研鑽した技術も研ぎ澄ました剣の映えもありはしない獣染みた手法は、むしろ芳醇な殺意が延々と湧き上がる今の無剣には何よりも相応しい。

 それは結論として体格で勝る一道にナイフを押し込み、微かに表情を歪める。

 が。


「ガッ……!」


 鋭く、鋭利なる一突きが無剣の喉を掴み、万力の如き剛腕が呼吸を阻害する。

 一道の放った左の空手。

 呼吸を封じられてしまえば冴え渡る剣の腕前も形無し。地を離れた足が溺れたかのように藻掻くが痛苦を視覚的に強調する以上の意味を持たない。

 夥しいまでの骸で築かれた山の頂点に立つ男が、今更小娘の一人如きに躊躇する理由がないのだから。


「あ、がッ、この……!」

「こっちの質問に答えろよ。日本語、通じてんだろが」

「な、ぜッ……!」


 空気を求める金魚の真似事をしても可笑しくない状況にあって、無剣は瞳に涙を浮かべつつも殺意の眼差しを崩さず。

 吐き出す声音に籠るは、正確には天上に住まう神々にでも問うべき質問。


「な、ぜ……お父さん、と……お母さんをッ……!」

「…………あぁ、そういうこと」


 合点がいった首を傾け、そして傾げる。

 仔細な事情は不明として、一二年に渡る極道生活で公私問わず磨り潰した人間の中に、少女の両親が混ざっていた。何らかの形で真実を知った少女は、烏星財団と連絡を取って流儀を学び、一道の前に立ち塞がっている、と。

 とはいえ、少女にとっては唯一の仇でも、一道にとっては塵芥の一つ。

 長年に渡る鏖殺の日々、一つ一つの理由を覚えている訳もなし。


「得物も得物で堅気っぽいし……まぁ、アレだろ」


 日常の一幕として言葉を語り。


「どうせ金でも欲しかったんだろッ!」


 緩急を以って殺意を発露。

 突き出されたナイフの先は、少女の胸元。

 行動原理に理解が及んでも、やることに変化が生まれる訳ではない。

 過去に幾万と繰り返した時と同じく、少女もまた引き裂き足下を彩る鮮血レッド絨毯カーペットの一部とするだけの話。

 誤算があるとすれば、少女の意志を軽く見たことか。


「う、きッ、さ……!」

「ッ、マジかよ」


 切先に割り込むは包帯を巻かれた右腕。

 一瞬、ナイフが刃毀れを起こさないかと不安を抱いたものの、伝わる感覚は石膏とは異なる。むしろ何度も切り裂いた馴染み深い感覚に酷似している。

 血が滲み、ややくすんだ色合いの包帯に鮮やかな赤が刺された。


「貴様ぁッッッ!!!」

「うおっ、と」


 乱雑な、膂力任せで技術も何もない逆袈裟に寸前で躱すも、一瞬喉から手が離れた隙に右腕をも押し込むことで無剣は距離を確保。

 手早くナイフを引き離し、得物の喪失を回避するも一道が抱く格下に遅れを取った屈辱は拭えない。

 他方、無剣も足下がふらつくのを抑えられず、酸素の枯渇で視界が霞む。

 竹刀を杖代わりにでもしたい所であるが、既に追撃で距離を詰めている一道の迎撃が先決。

 大きく呼吸を一つ。

 間合いが未だ竹刀の領域である内に一閃を振るう。


「アアァァァッッッ!!!」


 横薙ぎの一撃を、コートの端を掠める程度に収めて距離を詰めんと身を屈める。


「く、この……ガキッ!」

「アァァァァァッッッ!!!!」


 屈めた先に竹刀の刺突。

 咄嗟に切先を逸らして直撃を回避するも、間合いを詰める前に更なる追撃。

 隻腕、それも大多数の人間が利き腕とは異なる左であるにも関わらず、少女の一撃一撃は一道をして一定の脅威を覚えさせる。

 風を斬る音が鼓膜を揺さぶる度、背筋を冷たいものが駆け抜ける。


「殺すッ、絶対に殺してやるッッッ!!!」


 殺意が湧く。

 殺意が湧く。

 殺意が湧く。

 絶対に殺す。

 己の内にここまでの憎悪が宿り、育まれていたのかと驚愕すら覚える程に。殺意を核として肉体を形成しているのかと錯覚する程に。全身を熱く滾らせる昏い情念が、細胞の一つにまで染み渡っていると確信を抱く程に。

 一道の姿を教会で目撃した瞬間をも、写真越しに始めて怨敵の姿を認めた瞬間をも凌駕する激情が無剣の肉体を支配した。

 日常生活に於いて自壊を招かぬよう、肉体にかけられている制限リミッターを残さず外し、少女は憎悪の塊と成り果て剣閃を振るう。


「死ぃねェェェェェッッッ!!!」


 嵐の乱舞。その一閃毎に湧き立つ感情を上乗せし、掠めただけで相手の肉体に痣を作る。

 未だ互いに有効打はない。

 しかし、膠着状態と称するにはあまりに過激。

 証拠に二つの刃が重なる度に大気が震え、電線が激しく弛む。

 両親を失い、平穏な日々を奪われ、高校も中退同然の状態。依頼の報酬に限らず、最早全うな道に回帰することなど不可能に違いない。

 その末に刃を仕事に据えた男と一時的にも互角以上に渡り合えることは、皮肉なのかもしれない。


「この、ガキがッ……舐めた真似をッ」


 横腹を叩く。手首を捻る。切先を逸らす。

 一道は慣れた手つきで竹刀の乱舞を捌く。

 今時、侍の真似事を行う極道者など極々少数。刀よりも遥かに高効率で人体を破壊する手段が充実している現代に、距離を詰めて骨を避けながら切り裂くなど愚行の極み。

 故に刃を捌き致命を避けるだけならまだしも、反撃の一振りを見舞うことは叶わない。

 だからこそ、後一歩の足を踏み出せずに状況は膠着する。

 苦虫を噛み潰し、一道は力を込めて竹刀を弾くと素早く距離を離す。

 一歩、二歩、三歩。

 水面に波紋を刻むように、アスファルトを爪先で優しく触れる仕草は、間髪入れず最短距離で間合いを詰める無剣とは対照的。


「ラァッ!」

「っ、っと」


 暴風巻き取る逆袈裟の一閃を、重力に縛られぬ跳躍で回避。

 中空で互いの視線が交差し、嫌悪と憎悪が交わる。

 足場なくば軌道を変えることも不可能と、無剣は反動で腰を捻ると神速の刺突。

 手首の捻りを加えて、弾丸よろしく螺旋回転を描く竹刀が大気を穿ちて獲物へ迫る。無剣の予想を裏付けるべく一道が差し出したのは、右足の裏。


「つッ、この……!」


 革靴を貫く激痛に顔をしかめる一道だが、無剣もまた意図的に当てさせたと理解しているが故に表情は芳しくない。

 竹刀に押し出された反動を加算し、着地した先は塀の上。

 ナイフが空を裂き、音を切欠に一道は冷静さを取り戻す。

 黒セーラーの少女は膂力に任せた暴力的な挙動で剣圧を高めている。そこに幾分かの技術──直撃インパクトの瞬間に始めて柄を強く握るなど──は含まれているのかも知れない。が、全身の力を淀みなく竹刀に注ぐ精密性が備わっているかは間違いなく否。


「ふぅ……まるで猪武者。殺人剣ってのも、そういう意味じゃねぇと思うけどな」

「黙れェッ!!!」


 瞬間湯沸かし器を連想させる速度で激高した無剣は左腕を大きく振り上げ、大上段。

 踏み込みと連動し、振り下ろされた刃が塀を叩き、ブロック一つを半壊させる。肝心の一道は、半瞬前に右に跳ぶことで刃を避けたものの。

 身を転がし、素早く立ち上がると一道は少女の担う得物を確認。

 竹肉の裏まで頑強な繊維が満ち、それでいて柔軟性も高水準で確保している真竹製の竹刀。本来、学生が持つに相応しくない高級品だが、しかして幾万と人血を啜ったナイフを相手取るには部が悪い。

 弦の解れに各部の割れ、罅。柄革は末端が破れ、内から竹が微かに漏れ出ている。


「かッ……黙、れ……!」


 度を越した咆哮に喉が限界を迎えたのか、吐き出す唾に赤が混じる。無剣は得物の摩耗には目もくれず、右肩を正面の置いた半身の姿勢で竹刀の軌道を覆い隠す。

 息も絶え絶え。全力機動を開幕から延々と繰り返していたのだ、どこかで限界が訪れるのは自明の理。

 優位を取る好機と、一道は腰を低く落として右のナイフでアスファルトを撫でる。


「黙れえェェェッッッ」


 血反吐を撒き散らし、ぐらつく竹刀の悲鳴を無視して無剣は再度接敵。

 唸りを上げてしなる先は、一道の足。咄嗟に左を引くことで回避し、代理に自動車の往来を幾つも支えたアスファルトを破砕。

 続けて地を滑る柄革の音が無剣の更なる接近を告げ、竹の欠片を引き連れて竹刀が跳ねる。

 迎え撃つ一道もまた、ナイフの先端を竹刀へ突き立てんと刺突。

 三度の激突。そして不吉の音。


「あ──」


 ぶつかり合う瞬間、軋む音が連鎖する。

 一際鼓膜を震わす音を立て、枯れ枝を踏みつけるかの如く、呆気なく竹刀が折れた。

 しなりが許容範囲を超越し、不自然なささくれを見せると繊維が露わとなる。次から次に、臓物を曝け出すように。

 砕け散る破片の一つに垣間見るは、父との記憶。


『あの竹刀、買って欲しいなー』

『はぁ……裂。それは結構な高級品なんだろ、前から買ってるのでいいでしょ』

『今さ、部活内で注目されててねー。今度の他校との練習試合で先鋒任されてるんですよねー。だからねー』

『分かったよ……その代わり、負けたからって練習をサボるのはナシだよ』

『分かりましたー!』


 見開かれた瞳が現実を逃避し、右脇から伝播する鈍い衝撃で引き戻される。


「つッ……!」

「これで、ただの小娘の出来上がりっと」


 地を滑り一度、二度。

 摩擦に制服の端々が破れていき、勢いが止まる頃には剥き出しの二の腕から擦り剥いた血が滲む。

 立ち上がろうと左手で地面を叩くも、直後に踏みつけられては苦悶の表情を浮かべるばかり。

 視線を上げれば、手元でナイフを弄ぶ仇敵の姿。無力化した無剣を見下ろす、優越感に満たされた浅ましい人間の姿がそこにはあった。


「あッ……離、せ……!」

「離す訳ねぇだろ、散々人様を振り回しやがってよ。

 主も仰せになってるぜ。右の頬を殴られたら左の方をどうたらとか……こう、ボコっていい的なのを、さぁ!」

「あぐ……!」


 踏みつけた右足でにじり、無剣は短い悲鳴を漏らす。

 身体の各部は竹刀の痛打を受けて、内出血と青痣を幾つも刻まれている。青痣を刻む威力で直撃を逸らした結果など、当たればどうなるかなど想像することも断固として拒否する域である。にも関わらず、身体を動かす度に鈍い痛みが広がるのだ。

 嬲ろう、という意志が鎌首をもたげるのも無理はない。

 とはいえ、感情の赴くままに少女をいたぶるのも神の教えに反する。


「何しろ、今日の説教は赦しの大切さを説いてたんだ……」


 獣もかくやな憎悪の籠った眼差しを前に、一道は手元でナイフを弄ぶと逆手に持ち直す。


「なので、今日は素直に首へ突き立てて終わろうかぁッ!」


 迫るナイフの切先を、射殺さんばかりに無剣は凝視する。

 甘受するつもりなど毛頭ない。剣先を素早くを避け、右腕をぶつけて体勢を崩させ、そして距離を取る腹積もりである。如何に現実が彼女の肉体に追随しないのだとしても。

 二人の間に甲高い音が木霊する。

 一つはナイフ。

 もう一つは、家の鍵。


「あ……?」

「おいおいおいおい、危なくて見てられねぇな」

「切……島……?」


 たなびく燈のマフラー、急激な動きに傾いたベレー帽を左手で抑え、右手に握るは無剣家の鍵。一足遅れて玄関の扉が音を立てて閉じ、鍔競り合うごとに金属同士が擦れ削れる。

 少女の呼びかけに応じて視線を落とせば、平常時と何ら変わらぬ面持ちを覗かせた。

 切島唯之介、ここに見参。


「なんだ、文句なら受け付けねぇぞ。先に言ってた訳だしな」

『基本的にお前の意志を尊重するが、もしもヤバいと判断すれば躊躇なく割り込む。それでいいな?』


 交わした盟約は、馬頭からの情報提供を受けた帰り。

 復讐の邪魔をするなと告げた無剣に、切島自身が告げた条件。


「うん、分かりました」


 頷き、首肯する少女であるが、顔を見れば不満を抱えていることは火を見るよりも明らか。

 しかし事務所としても、依頼人死亡のために報酬が支払われないという事態が回避したいもの。まして、臓器を売却することで依頼料を払うつもりの相手であらば尚更。

 つけ加えるならば、この盟約は鵜飼の指示を介していない。

 で取り交わされた約束である。


「チッ」


 舌打ちを一つ。

 弾けるようにナイフを引き戻すと、一道は闖入者との距離を取るべく跳躍。一足の下、塀の真上へと着地した。

 長袖と半ズボン。夏にも冬にも適応し切れない半端な服装の少年は、鍵の先端を塀の上へと突きつけ睨む。僅かに目つきを細めるだけの、不良にも行える仕草が、三平会若頭の背筋に冷たいものを走らせた。

 第六感が最大限に警鐘を鳴らし、心中で赤を明滅させる。

 尤も、それで大人しく引くような繊細な感性など、始めて鉄砲玉を務めた日に無くしている。


「そしてお前も、赦しを説くには色々雑だろ」

「……黙れよ、半端ファッション野郎が」


 売り言葉に買い言葉。

 互いの言葉で憤怒の感情を一段階上げ、一道は敵視の眼差しを鋭く研ぎ澄ます。

 急速に張り詰める空気に、更に言葉を続けるは切島。


「それにもう一つ、流儀を語るならもっと大事なことがあるだろ。な」


 烏星財団に手配して人払いを済ませた住宅街。どこまでの範囲かは切島も記憶していないものの、刃を幾ら重ねてもカーテン越しにすら誰も覗かない隔絶空間を形成した今、何をしようとも外部に漏れ出ることはない。

 仮に、互いの名を大々的に名乗ったとしても。


「……あぁ、そうだな。確かに大事な流儀があったな」

「だろだろ。今から互いに殺し合う仲、素性も知らないのは悲しいだろ」


 境界線に足を置く無剣には理解の及ばない会話を繰り広げると、同意と言わんばかりに互いの得物を構える。

 これから死ぬ者へ送る礼儀の一つ、そしてこれより殺す者へ向けた礼儀の一つ。

 空を斬る一閃は、切島。


「切島相談事務所所長兼全刀流後継、切島唯之介──」


 続く音は、指先で回るナイフの音色。


「関東和平連盟傘下三平会若頭、一道歩──」


 曇天の空の下、獣が二匹。

 視線を交差させ、身を低く構える。

 相手よりも深く、懐に飛び込むため。相手よりも早く、喉元を掻き切るため。


「いざ──」

「尋常に──」


 示し合わせた訳でもなく、互いに一つの文節を担当。

 故に続く言葉を発すべく、同時に大口を開けた。


「勝負ッ!!!」

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