終章

貴方達のいない世界で私は──

 鼠色の曇り空が青空を占拠して数日。

 季節外れの降雨が続き、乾燥機を購入していない家庭では溜め込んだ洗濯物の処理への苦慮が見受けられる。

 それは関東和平連盟傘下、三平会本部にしても同様。

 極道もまた人の子。

 緊急性に乏しい業務までも雨の中で行う強固な意志を有してはいない。彼らも何かと理由をつけては外回りではなく、本部内で成せる業務へと移行していく。


「……」


 名も知れぬ老人の自宅へ電話を繰り返す構成員を尻目に黒衣のスーツを身に纏い、実年齢以上に見られがちな皺を眉間に刻んだ男性が縁側を歩く。胸元に慄然と輝く三本線のバッジが、彼の三平会内に於ける地位を裏づけた。

 男性の名は天狗。先の切島相談事務所との一件以来、周囲からの視線に羨望と嫉妬が混じりつつあることを実感していた男である。

 視線を庭へ向ければ、既に数多の銃弾が穿った痕も破壊された扉も完全に修復されていた。

 ただ、昼と夜の境界が曖昧な世界に雨が降り注ぐ。


「いい匂いだ……」


 三平会と対立していた極道に土地を接収されるまでの幼少期を田舎で過ごしてきた天狗にとって、雨特有の湿った匂いには心地よさと一種の安らぎを覚える。


「おい聞いたかよ、一道さんのこと」


 安らぎを遮るは、室内で囁かれる構成員の噂。

 近頃の三平会で流れる噂などただ一つ。指向性をもって第三者が定めたかの如く、誰も彼もが一道のことを口々に語りたがる。


「どのことだ。言っとくが、馴染みの教会で会ったシスターと駆け落ちしたってのは聞き飽きたぞ」

「バーカ、そんなのじゃねぇよ。俺が聞いたのは教会で張られてて警察にパクられたって噂だ」

「下らん」


 端的に切り捨て、天狗は足取りを元の目的地へと定める。

 日曜日に礼拝へ参加するために教会へ赴いて以来、一道の行方は誰も知らない。

 如何に彼が奔放で組の経典おきてを無視する問題児と言えども、数日もの間音沙汰一つないのは異常事態。そして彼への信頼が著しく低いことも相まって、組員の大部分が好き勝手な噂を囃し立てては話の種としている。

 そこに一道自身を心配する声は、皆無。

 足早に辿り着いた先は、幹部同士の会合に用いる長部屋。正確には襖を挟んだ先に、組長たる樫屋都黒が待機している。


「組長、失礼します」


 一言前置きを入れ、襖を開ける。

 途端に鼻腔をくすぐるのは、微かな鉄の香り。

 切島相談事務所と事を交えた戦場の一つ。本来なら庭や塀と同様に、血痕の付着した畳の取り替えなどの作業をすべき所を樫屋の要望でそのままとなっている。

 不快、とすら断言出来る部屋を進み、最奥に控える一人の老人の前へ。

 禿げ上がった髪に瞳孔の小さな黒目。紫の着物を着崩し、煙管の先端から煙をくゆらせる初老の男性。樫屋都黒。


「どうしたんじゃ、のぉ。天狗」


 煙管に溜まった灰を付近の煙草盆を叩くことで空にすると、事前に丸めてあった刻み煙草を詰め、火を灯す。

 新しくなった煙草の新鮮な煙を堪能すると、天狗が口を開く。


「先日の刺客連中が軒並み殺害出来たと襲撃班から報告がありました。

 澪音人材派遣が確保していましたが、警備が手薄で楽だったとのことです」

「そうか、それは大儀であった、のぉ」


 煙を吐き出し、受け取った報告へ反応。

 心底どうでもいい些事と言いたげな態度であるが、事実として情報さえ確保出来ればそれ以上の要素は不要なのだろう。

 思慮の窺えない態度に、天狗は心中で抱いていた疑問を吐露する。


「……ただでさえ自白で関与が明言された状態で暗殺しては、我々が犯人だと自己紹介するようなものでは。

 情報をすぐ吐くように言い含めた件も含め、いったいどのようなお考えが」

「考えか、のぉ……」


 天狗の指摘を受け、樫屋は顎に手を当て暫し沈黙。

 雨水が瓦を叩き、池の水面を揺らし、道行く人の傘を濡らす。

 壁の一角に飾ってある時計が一秒、また一秒と時を刻み、自然の音による音楽祭が奏でられる。


「…………クハッ」


 遮るものは、樫屋の哄笑。


「クッハハハハハハハハハハハハハハハハッハハハハハハハハハハハハハハハハァッッッ!!!」


 爆竹の破裂を彷彿とさせる笑いが広間を超え、屋敷を超え、隣接する歩道にまで響き渡る。

 大気が震える声に天狗は肩の一つも揺らさず、ただ直立したまま受け止める。部屋の外では構成員の内、何人が動揺を示したことか。

 ひとしきり笑い終え、肩肘を立てて顎を当てると樫屋が己の思想を語る。


「ここ半年、一道の暴走は度を超しておった。件の事件自体、警察の調書に対してどれだけの労力をかけたと思っておる」

「重々……承知のつもりです」


 いっそ家族を皆殺しにしていれば隠蔽も簡単だったにも関わらず、娘一人を残しているなど言語道断。警察や報道屋が嗅ぎつけたことで世間一般にまで事態は波及し、裏の根回しにも尋常ならざる苦労をしたもの。

 だというのに、肝心の一道は碌に反省の色を見せることもなく衝動的な殺人事件を繰り返し、その度に隠蔽と根回しに尽力せざるを得なくなった。


「奴の言動に、関東和平連盟にも若頭の地位を疑問視する者が現れ始めていた。それも、かなりの数がのぉ」


 若頭とは次期組長を約束された地位。

 そこに着く存在が衝動的かつ破壊活動に準ずる者など、連盟を結ぶ側からしても厄介極まる。


「かといって、弾滑りを成した上で生還した鉄砲玉を無碍に扱えば、危険な役目に従事する者も減少する」


 弾丸の回転と頭部の入射角が天文学的確率で合致した時、銃弾は頭蓋骨上を滑り抜けて内部に一切の損傷を残さない。奇跡と呼ぶに相応しき事象を讃え、九州の極道では頭部銃撃を受けて生還した者を次期組長に確定する因習がある。

 三平会もその因習を引き継ぎ、中学生の頃の一道が鉄砲玉の末に弾滑りを起こして生還したことで現在の地位が確固たるものとなった。

 立身出世は下っ端にとって分かりやすい意欲へと繋がる。

 反対に、それが反故にされれば信頼を裏切ることと道義。


「因習を取るか連盟を取るか……どっちを選ぶにもしても今後に支障が生まれる。だったらどうするか……」


 煙管の吸い口に口をつけ、一服。

 口内に蓄積した煙を肺へ送り込み、豊かな風味を堪能する。

 白煙を吐き出せば、天井へと上る様を目で追った。


「答えは容易。成果を上げて貰えばいいのぉ」

「成果……まさかわざとッ?!」


 天狗の主張にわざとらしく首肯し、樫屋は妖しく笑う。


「成果を上げるならそれで良し。死んだのなら大手を振って次の若頭を指名すれば良し。

 どちらに転んでも問題はない」


 自分がしでかした事には自分で決着をつけられるという印象さえあれば、関東和平連盟間での評価改善に繋がる。

 それに死亡したのならば若頭の座を別の誰かに襲名しても何ら問題ない。

 どちらに転んだとしても、組の運営には好都合。

 唯一、例外があるとすれば。


「ですが、既に三日は経過したのに一道の消息は掴めず」


 天狗の告げた言葉に、樫屋は始めて顔を顰める。

 烏星財団が隔離した範囲は既に捜索済み。血痕一つ発見出来ない完璧な隠滅振りは、他の場所で真価を発揮しろと理不尽な要求をぶちまけたくなる程に。

 現在も構成員の一部は一道の行方を掴むため、降雨の中を駆けている。

 彼らの努力が結実を結ぶかは、未だに不明瞭。

 それが三平会内に広まる不審と流言飛語にまで波及しているのも、樫屋にとっては面白くない事象の一つ。


「切島相談事務所への対処は如何なされますか。組長」

「……」


 天狗の言葉を受け、樫屋は苦虫を噛み潰す。

 本心を述べれば、嬉々として叩き潰して首級を門前に晒してやりたい。三平会に災い成す者の末路を、軽視する者の辿る未来を克明にしてやりたい。

 だが、ただでさえ澪音人材派遣や烏星財団に度重なる挑発行為を繰り返しているような現状。下手に干渉を強めれば、いよいよ背後の出資者連中が黙っていない。

 万が一烏星財団と事を交える事態になってしまえば、関東和平連盟との関係に翳りなどいう騒ぎではない。

 厄災の種を庇い切られると思い込む程、樫屋は仁義を重く見てはいない。


「…………当面の間、対処は……見送る」


 絞り出された声音は、苦渋に満ちていた。

 その後、幾つか今後に関する事項の確認を終え、天狗が広間を後にする。

 曇天より降り注ぐ雨粒は、今もまだ攻勢を強めているように天狗は思えた。



 曇天の空から雨が降り注ぎ一週間。断続的かつ季節外れの長雨に悩まされた日々を照らし出すように、雲の隙間から木漏れ日が射し込む。

 カーテンの隙間から漏れる久方振りの光が部屋を照らす中、無剣裂は姿見の前で身支度をしていた。

 普段の黒のセーラー服とは異なる、少女らしい服装に。


「もう冬ですし、少し……どころじゃなく寒いですねー。

 まー、女の子のお洒落は命懸けってお母さんも言ってましたし」


 独り言を呟き、左右に身体を振る。

 そうすれば黒のワンピースも追随して揺れ動き、端のフリルも花弁の如く身を震わせた。下に特別な寒気対策も施さずにノースリーブの服など正気の沙汰ではないが、半年振りの衣替えには代え難い。色白な分、しっかりした色合いがいいと店でお勧めされた衣服であったが、彼の先見には流石本職と頷くしかない。

 右目を覆う眼帯も髑髏を象ったシルバーが嵌め込まれた、病院で支給しようものなら即座に倫理観の問題として取り上げられる代物。

 着替える前に髪も梳かしていたものの半年もの間、粗雑に扱った代償とばかりに外へ跳ねた癖毛は多少マシになった程度。高校に通っていた頃はもっとストレートだったような、と首を傾げてみても後の祭り。


「うーん。せっかくですし、お父さんとお母さんにもっと綺麗な所を見せたかったんですけどねー……」


 顎に手を当て、右腕に視線を落とす。

 人生の清算を終え、今更着用する必要のなくなったセーラー服を椅子にかけてなお、右腕に巻かれた包帯だけが残る作業の存在を主張していた。

 忘れた訳ではないと、左手で包帯の上から優しく撫でてみても、返ってくる感触はどこか違和感を覚える類。皮膚に直接触れている訳ではない以上、仕方ない話ではあるか。


「おーい。まだか、無剣」


 部屋の外から切島の支度を促す声。

 もう少しですからー、と返事を送り、無剣は姿見の側に立てかけていた竹刀袋を肩に背負う。

 へし折れたことで刀身が半分以下となったため、端を折り曲げて不格好さを少しでも和らげようとした。それでも、ワンピースと竹刀袋の相性はお世辞にも良好とは言い難い。

 何も考えずに竹刀を収納した結果、洗濯してなおも付着した血痕も、そのような印象を加速させたか。

 尤も、仄かに血が香る位の方が丁度いいと無剣当人は考えているが。

 鏡に反射する自身の姿から、少しでも違和感が軽減するように思えたため。


「今行きますー」


 ドアノブを捻って開ければ、正面には普段通りの夏にも冬にも奇妙さを窺わせる服装の切島、そしてオーバースカートを着用した鵜飼の姿。


「……」


 最低限の清潔感さえ保てれば問題ないといったこれまでの態度から一変した、年頃の少女らしい可憐な衣装を纏った無剣を前に、切島は暫し口を開けて呆然とする。

 動き出す切欠は、横に立つ幼子の声。


「漸く準備が出来ましたですか、それでは行きましょうですか……切島?」


 無剣が首を傾げたことで横の少年の不調を感じ取り、鵜飼は脇をつつく。

 はっ、と全身を震わせ、意識を取り戻した切島は包帯の巻かれた左手で頭を掻いた。


「あ、あぁ……すまん、綺麗だなぁと思って」

「そう、ありがとう」


 素直な謝辞に無剣も軽い会釈で応じ、一同は玄関を目指す。

 一道の打倒後に闇医者へ見せた大小様々な傷は表面上、包帯に覆われる形で治療されている。何でも脇腹の分を除けば、致命傷と呼べるものもなくあくまで軽傷の範疇に収まるらしい。

 故、左手にしても幾らかの包帯で接合されただけで、激しい運動さえしなければ問題ないとのこと。

 依頼に応じたとはいえ、自身の依頼が切欠となって多数の傷を負った切島に対して、後ろめたさが絶無とはいかない。無剣としては視線を合わせることにすら、多少の背徳感を覚える。

 そのため最後尾に位置した少女は、努めて切島の左手を視界に収めないように足を進めた。


「土壇場で依頼の追加……こんな冗談みたいな話、なんで蹴らないんですかね。鵜飼の社長は」


 駅を目指す道中で、鵜飼は零す。

 元々無剣の人生の清算が依頼内容であり、それは一道の打倒という形で一つの決着を見たはずなのだ。

 依頼を完遂した以上、残るは切島が気紛れで許可した報酬の後払い──彼女の臓器摘出。

 しかし無剣はあろうことか曇天の空の下で依頼の追加を要求した。


『最期に両親の墓参りに行きたい』


 などと宣って。

 無論、鵜飼がそれを承諾する義理も何もない。始まりの時点で報酬の後払いという要求を呑んでいるのだから、次は無剣が譲歩する番である。

 だというのに、社長の切島は二つ返事で承諾。

 そのため、鵜飼は二人と共に見も知らぬ他人の墓参りへ随伴する羽目となっている。


「別に墓参りの一つくらいいいだろ。それに、報酬のことも忘れてねぇよ」

「軽いですね、切島は。会計を預かる身にもなって欲しいものです」

「ハハハ、いつも無茶をさせて悪いな鵜飼」

「……ぶん殴るですよ」


 三平会本部から逃走する合間に交わしたやり取りが脳裏を過ったのか、一拍置いて鵜飼は拳を握り締めた。


「っくしゅん」


 季節感を無視した服装の無剣がくしゃみすることで、二人の間に漂っていた空気が払拭される。振り返ってみれば、黒衣のワンピースを微かに揺らし、少女は自らを抱き締めていた。

 逡巡は一秒にも満たず、切島はジャケットを脱ぐと無剣へ手渡す。


「どういうつもり、ですか……?」

「無剣の服には合わねぇかもだけど、寒いよかマシだろ」

「……」


 躊躇したのは、ジャケットの下が黒のインナーのみである切島の服装も一因。そも、ただでさえ下はハーフパンツで冬とは思わぬ軽装を施した人物。更なる薄着をして風邪でも引かれたらそれこそ後味が悪い。

 押し返すべく腕を伸ばそうとしたものの、足を止めた隙に二人は駅を目指して歩みを進めていた。

 手元のジャケットへ視線を落とし、仕方なく袖には腕を通さず簡単に羽織る。

 先程まで切島が着用していたジャケットは、彼の温もりを仄かに感じさせた。あれで入念に身体を洗っているのか、鼻腔をくすぐるジャスミンの香りは無剣の神経を撫でるように和らげて落着きを与えた。


「……暖かいです」


 駅に到着した三人は切符を購入し、改札口を潜った上で電車に乗車。四駅は跨いだ先で降車し、その後はバスに乗り換え十数分。

 山の一角に建設された長閑で平穏な、時間の経過から置き去りにされたかのような総合墓地。周囲を枯れ木と足元の落ち葉で彩る寂寥な場所に、三人は足を踏み入れていた。


「ここに無剣家の墓がねぇ……随分と、広いな」


 切島が額に手を当て、周囲を見回す。

 平日なのも手伝って人の姿こそ窺えないものの、そもそもとして墓の数が凄まじい。その上、傾斜を利用して幾つかの階層に分かれた構造をしているため、その場から見回した所で墓石の一辺を覗いているに過ぎない。

 ここから探すのは至難の業だと、暗に視線を無剣に送ってみるも。


「あー、困りましたねー……私、最後にここ来たの凄い昔なんですよねー……」


 唯一墓の場所を把握しているはずの無剣は、青い顔をしていた。


「……凄い昔って、どれくらい?」


 恐る恐る聞いたのは、事実を受け入れる覚悟が不足しているがためか。


「…………多分……二年以上は前、かなー……」


 横からわざとらしいまでに大きな嘆息の息が零れるも、無剣の返答を遮るには声量が欠けていた。



 三人が固まって捜索しても非効率的だと、それぞれが散開して総合墓地を散策する。

 無剣は微かな記憶を頼りに現在の階層を散策し、鵜飼は案内の看板か管理人を求めて下層へ、切島はひとまず二人から離れる上層へと足を進める。

 幸い、連絡手段には事欠かない現代社会。誰かが無剣家の墓を発見すれば簡単に情報を共有出来る。

 深夜まで降り注いだ雨の影響で足元は若干ぬかるみ、下手に駆け出せば転倒しかねない不安を抱かせた。陽の光での乾燥は、冬の気候では期待し難い。


「えぇっと、確か……ここら辺を右に曲がれば、お墓だったような……」


 無剣は一人、朧気な記憶を総動員して周囲の墓へ目を通す。

 無剣、などという苗字の墓が二つとあった覚えがないのは不幸中の幸いであるものの、如何せん記憶が古い。二年も月日が経てば、似た名前の墓が新たに現れても不思議ではない。

 どうかそのような事態が起きていないことを祈りながら、足を進める無剣であったが。


「あ……」


 不意に、言葉を失う。

 そして迷いなく足早に、足元の小石に躓かないよう注意しながら少女は視界の先を目指す。

 付近に植えられた一際大きな樹、緑が生い茂れば丁度墓が木陰に入る場所で誰かが両手を合わせていた。その横顔は、無剣にとって既知の人物のものであったのだ。

 人が迫ってくる気配に気づいたのか、墓前で手を合わせていた初老の男性も音の先へと振り向く。


はらい叔父さん!」

「おぉ、裂ちゃんかい……!」


 余程嬉しかったのか、無剣は払と呼んだ男へ跳び込み、固い抱擁を交わす。

 暖かく、各部に骨の角ばった感触が返ってくるも、死体の冷たさとは比較にならない生者のものに少女は久しいものを覚えていた。

 十数秒、固く抱き締め合った二人は満足したように離れると、顔を合わせて穏やかな表情を向ける。


「裂ちゃん、漸く外に出れるようになったんだね……!」

「大袈裟ですよ、叔父さん……私だって、もういい年なんですからー」


 わざとらしく笑顔を見せるも、払は目頭に浮かんだ涙を拭って反論する。


「他の人伝手に聞いてたからね……事件以来、裂ちゃんが引き籠ってたって話は……」

「それは……」

「それが外を出歩けるようになって……墓参りに来て……しかも、ちゃんとお洒落までして……叔父さんには、それが嬉しくてね……!」

「そんな……」


 涙腺を緩ませる払に声をかけようとした刹那、無剣の視界にブロック塀へ寄りかかったまま意識を失った一道の姿が重なる。

 ノイズのように一瞬。だが、その極僅かな時間で無剣が視線を落とすには充分な威力を秘めていた。

 払のように、純粋な心で自身を心配してくれていた、くれていたはずの人は沢山居たのだ。だというのに、彼らが心労を重ねる間、無剣は自分勝手に悲劇のヒロインを気取り、挙句の果てに両手を鮮血で染め上げる形で信頼を裏切った。

 正当な権利だ。

 順当な復讐だ。

 命を奪ってはいない。

 脳裏に次々と湧き上がる言い訳を片っ端から握り潰し、無剣は顔を上げる。

 左手で口端を吊り上げ、無理矢理に笑みを作る形で。


「そんな大したことじゃないですよー」

「裂ちゃん……」


 無剣の姿に第六感が警鐘を鳴らす。

 無理して笑うことすら出来ず、外部から強引に吊り上げる様が無性に不安を駆り立てる。

 下手を打てば、まだ年若い少女の姿を見ることが永遠に叶わなくなるのではないか。そのような悪寒に背筋を冷やす。


「悩みがあるなら、叔父さんが乗るよ。男に言いづらい内容なら、叔母さんだっている。

 ……お父さんお母さんの代わりにはなれないけど、彼らが君を大事にしているのは、知ってるつもりだからさ……」


 あぁ、やっぱりだ。

 自分が現実から目を逸らしている間、無為に溶かした半年。

 もしもお父さんの財布が落下するよりも早く、誰かに内心をぶちまければ。犯人へ抱く殺意を吐き出してしまえば、もっと違う結末が訪れていたんじゃないか。

 両の腕を血に濡らすのではなく、もっと別の──


「払叔父さん」


 叔父の心配を振り払うように、彼に更なる心労をかけないように。

 努めて、わざとらしいまでの笑顔を。

 痛々しく思えるまでの、仮面を被っていることは丸分かりの笑顔を。


「もう、心配しなくていいですから」

「──」


 取り繕うことも放棄したのか、まるで死地へ赴くかのような声音に払は全身を駆け抜ける電流を自覚した。

 何か、払には理解出来ない覚悟を秘めた顔色に咄嗟に腕を伸ばす。

 お節介でも何でも構わない。弟と、その妻が遺した少女を助けるために成せることをすべきだと全身の細胞が騒ぎ立てる。

 寒風に揺れる少女の姿へ手を伸ばし、後少しで手が届く。


「叔父さんが心配することは何もないですよ」


 割り込む第三者の声が、払の手を縫いつける。

 何一つとして遮るもののない、虚空に。

 視線を声の方角、無剣の背後へ向ければ、そこにはオーバースカートを着用した一人の幼子が立っていた。

 一目しただけでは二桁にも満たないはずの、しかして年相応の無邪気さなど露ほどにも見せない幼子。冷え切った瞳が払へ注がれれば、下半身が金縛りにあったかのように主の意思を無視して直立を維持する。


「き、君は、いったい……?」


 辛うじて紡いだ言葉に、幼子は表情を崩すことなく応じた。


「鵜飼は鵜飼六子。無剣裂さんの知り合いで……そう、最近始めたネット記事の上司。のような者です」


 僅かな逡巡は答えに躊躇したというよりも、どう答えることがより自然か最善を模索する様に近く。

 事実、ネットに詳しくない払には弁の真偽を確かめる手段がない。


「無剣さんは対人恐怖症の診断結果が出ておりまして、如何に知古の知り合いといえども長時間の会話となればどうなる分かったものではないです。失礼ですが、用事が済んだのであらば速やかに立ち去って欲しいです」


 懐から取り出したるは、無剣の診断結果、という名目で偽装されたただの紙切れ。

 所詮は専門ではない鵜飼製であるものの、本物の医師免許所持者でもなければ正贋を見極めることは不可能。

 事実、鵜飼の言葉を聞き、払は一旦無剣へと視線を移す。

 鵜飼と名乗った幼子が口にしたことは事実なのか。無剣を真正面から見据える瞳に、少女は申し訳なさそうに視線を逸らす。

 果たして払は無剣の行為をどう解釈したのか。


「……そういうことなら、仕方ないか。

 いつでも連絡、待ってるからね」


 後ろ髪を引く思いで言葉を残し、払は無剣の脇をすり抜けて墓を後にする。

 曲がり角を抜け、後ろ姿も追えなくなった初老の男性を見送りもせず、直立したままの少女に鵜飼は距離を詰めて詰問した。


「まさかとは思いますですが、逃げようとした……ということはないですよね?」

「そんな訳、ない」


 絞り出す言葉は、ある意味では当然の否定。

 元より決定的な証拠を確保した訳でもなし。あまり深堀することなく鵜飼は切島を携帯端末で呼び出すと、彼が到着するまでの間、片時たりとも目を離さずに少女を監視した。

 切島が無剣家の墓へ到着した頃には、鼠色の雲は余さず消え去り、スポイドで海から抽出したような透明な青が空に広がっていた。足を離せば、そのまま吸い込まれてしまうような錯覚を抱いたのは、切島当人だけではあるまい。


「随分と綺麗な空だこと」


 呟く言葉を掻き消す寒風が、少年の背を丸めさせる。

 音らしい音の途絶えた墓前に、耳が痛くなる静寂が続く。

 払が先客として清掃などを行ったのか。無剣家の墓周辺には落ち葉の一つもなく、線香はこの瞬間にも白煙を天空へと運んでいる。

 無剣は一人、墓前に立つと右腕を正面に伸ばす。

 ワンピースで必然的に露出の増えた容姿に似つかわしくない、煤汚れた包帯。今や唯一残った事件の残滓を、左手で丁寧に解いていく。

 一分かけて白日の下に現れた右腕は二の腕付近に微かな切り傷を残すのみで、事件で負った怪我自体は完治していた。

 そのまま無剣が左手を離せば、風に揺られて包帯が宙を舞う。


「どうかなー。お父さん、お母さん」


 墓前に問いかけ、無剣は黒のワンピースを見せびらかすようにその場で一回転。

 切島と違い、両親の幻影が見えるということはない。それでも無剣は問い質さずにはいられない。話しかけずには、いられない。


「似合ってますかー。それとも、お父さんとしてはもっと露出を抑えた方が安心だったりしますかー」

「……」


 少女の問いかけに答える者は、いない。

 墓が突然話し始める訳もなく、かといって切島や鵜飼が安易に答えていい話題でもない。

 故に一人芝居よろしく、無剣が終始喋り続けるばかりの状態が続く。


「二人の仇は取りましたから、安心して天国で眠っていて下さい。

 だからー……」


 既に平穏は遥か彼方。世界そのものが転移してしまえば、最早追いつくことも取り戻すことも不可能。

 ましてや、両手が血に濡れた状態では天国の門を叩くことなど出来る訳がない。両親と再会する未来など、砂一粒たりともありはしない。


「だから……怒ってよ……!」


 漏れ出た本心か、一筋の滴が頬を伝う。

 それが切欠となり、決壊したダムの如く噴き出した大粒の涙が次から次へと地面を濡らした。

 半年以上の月日をかけて、初めて両親の墓参りへ赴いたこの日。

 無剣裂にとって、一つの事件が漸く幕を下した。



 最期の禊として思いの丈を吐露し、抱えていたものを吐き出し切って泣き喚いた後。

 目蓋を赤く腫らした無剣が振り返る。

 色白の肌も相まって殊更に赤が目立ったが、二人にそれを指摘する無粋はない。


「それじゃ、そろそろ臓器を売り捌くのに必要な手続き? でもしましょうかー」


 怯えの色を窺わせず、気丈に振る舞う無剣。

 本来の依頼を終え、追加の依頼も完遂した。

 最早悔いはない。当初の予定通り、自らの身を捧げて全てを終わらせる。

 そう腹を括って無剣は声をかけたものの、何故か二人の反応は芳しくない。特に鵜飼など、少女には意も介さず渋い顔を浮かべて切島を睨み続けている。

 どうかしたのか、首を傾げる彼女に少年は改めて口を開く。


「おいおいおいおい、最初に言ったはずだぞ。臓器を売る必要はないってな」

『……まぁ、今言うことでもないかな。どうせ何を売るにしても否定しないだろうし、君の場合は』


 依頼したあの日に、切島が告げた言葉を思い出す。

 確かに臓器を売ることによる後払いを否定した上で、何か別の代替案を提出するようなことを口にしていた。だが今この瞬間までに、彼が報酬に関して口を開いた覚えはない。

 無剣としてはてっきり、切島が適当を述べただけで最終的には臓器を売ることになると思っていた。


「じゃあ、何を差し出せばいいんですかー?」


 抱いて当然の疑問に切島は指を一本突き立て、少女自身を指差す。

 意味することなど、ただ一つしかありはしない。


「お前自身」

「…………は?」


 理解が及ばず素っ頓狂な声を漏らす無剣。

 素早く鵜飼へ視線を移すも、会計を筆頭に様々な業務を担当する幼子は額に手を当てて嘆息を漏らす。

 どこか思考が定まらない状態の中、提案者である切島だけは喜々として言葉を紡ぐ。


「鵜飼の過労を心配してただろ、無剣。

 そろそろ従業員を一人雇おうかなー、とか考えてたんだよ。そこに臓器を売るー、なんて依頼人が来たら、もう当人を買うしかないじゃん。だろ」

「はぁ……もう好きに纏めて下さいですよ、切島」


 鵜飼に同意を求めるも、当人は事実上のタダ働きに最早仕事の熱意は消失。投げやりな言動で職務を放棄した。

 他方、眼前で冗談みたいな光景が繰り広げられる中で無剣は徐々に自身の境遇を理解していく。

 臓器ではなく、自分自身が切島相談事務所に買われたこと。

 それは半ば切島の独断でこそあるものの、鵜飼も同意していること。

 自身が、これからも生きられるということ。


「ッ……!」

「おいおいおい、そろそろ水分枯れるだろ」

「だって……だってぇッ……!」


 再度溢れ出した涙に切島が突っ込みを入れるも、駄々を捏ねる無剣は右腕で顔を覆った。

 自分でもどの感情に起因する涙なのか、検討もつかない。ただただひたすらに続く落涙は、まるで半年分の積もり積もった全てを吐き出すように無剣の涙腺を激しく刺激した。



 無剣裂が巻き込まれた事件を巡る依頼を完遂して、数か月。

 沈鬱な面持ちの男性が鉄筋コンクリート製のビルが立ち並ぶ周囲の中、赤煉瓦で外装を形成したビルを見上げる。

 視線の先は烏星ビルディングの三階に備えつけられた、切島相談事務所の文字が踊る看板。男性は手元の携帯端末に表示される同音の文字列と看板を交互に見直す。

 間違いない。目的地である。

 見る者に転ばないかと不安を抱かせる急勾配の階段を登り、辿り着くは三階。

 場違いとも思える高級感ある黒の扉に事務所の名を掲げた看板には、OPEN《営業中》の文字。

 扉の周辺にチャイムの類は見当たらない。ノックで来客を示すなど時代錯誤甚だしいものの、足を運んだ目的と比較すれば全うに違いない。

 男性は自嘲の笑みを口端に浮かべ、扉を叩くべく手の甲を近づけ。


「だーかーらー、何度言えば分かるんですか切島ぁッ!」


 ……幼子の声が、寸前の所で遮った。


「なんだよ、実質給料が倍増して社長さんも大変なんだぜ」

「だからって支払いが遅れていい訳ないじゃないですかッ。ふざけるのは給料以外でしてくださいですッ!」

「私の給料も、なんか……最初に言われた時に違うよーなー?」


 続く声は少年少女か。年若く明るい、しかして男性が今求めているのとは異なる雰囲気に逡巡が生まれる。

 本当にここでいいのか。

 もっと精査して判断すべきではないのか。

 見比べた中では確かに最安値でこそあったが、根本的に完遂出来ないのであらば何の意味もないぞ。


「分かった分かった、分かりました。銀行行って金取ってくるから黙っ、て……ろ……」


 ドアノブの捻られる音がして踵を返そうとした、既に手遅れ。

 漆黒の扉は開け放たれ、燈のベレー帽とマフラーを着用した少年と顔を合わせた。直前まで紡いでいた言葉も尻すぼみとなり、代替として互いに気まずい雰囲気が流れる。


「…………あー、こちら切島相談事務所です。なんかご依頼でしょうか」


 務めて平静を装った少年に促され、男性は事務所の玄関を跨いだ。

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切島相談事務所の事件簿──異界迷走少女編 幼縁会 @yo_en_kai

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