その2

「お二人さーん。そろそろ出かけますですよー」


 幼子に促され、二人もまた席を立ち、玄関の扉を開く。

 時間帯の都合か、四季の概念が死滅したにも等しい気候が爛々と照りつける太陽の形で出力される。風が吹きさえすれば幾分かマシになるものの、別側面から語れば衣服の調整に悩むというもの。

 尤も、三人は普段と何ら変わらぬ服装であるが。


「制服の取り寄せ、ありがとうございますー」

「別に、鍵さえあれば上がるのは楽だし」

「はぁ……この程度ならサービスで構わないですけど、あんまり無理を言わないで下さいですよ」


 嘆息する鵜飼の言い分も尤も。

 現在、無剣は誰かから命を狙われている立場である。

 それは襲撃犯を撃退した今も不変、ともすればこうして大通りを歩いている最中にも再び手を出してくる可能性は〇ではないのだ。

 にも関わらず、一時的とはいえ事務所の実働要員を駆り出して着替えの回収を行うなど只事ではない。その隙に襲撃を受ければ、成すすべなく彼女の命は華と散っている。


「それはすみません……だけど、今は服を変える気にならなくて」

「ふーん……」


 簡単な相槌を打ち、鵜飼は意識を正面へ戻す

 言葉を綺麗に整えていたものの結局、無剣の目標は復讐。両親を殺害された少女が抱くには当然の感情でこそあるが、感傷に支配されても困る。

 ある程度ならば非効率も許容するが、度を越すようであらば依頼への応対も変更する必要が生まれるだろう。

 生まれ落ちる瞬間より裏社会に身を浸していた幼子の感情が、奥底にしかと存在を刻む怜悧な部分が、無剣裂という依頼人を値踏みする。


「そういえばさ、鵜飼。俺達はいったいどこへ向かってんだ?」


 一方で実働を主な活躍の場とする切島は、本来ならば社長が把握して然るべき情報を幼子へと問い質す。

 三人は大通りを抜け、気づけば歩道と車道の境もなき道路へと身を投じていた。


「……そうですね。無剣さんにも伝えていませんですし、丁度いい機会かもしれません」

「というか、なんで社長が知らないんですか……?」


 嘆息する無剣を他所に、鵜飼は目的地を口にする。


「鵜飼達が向かう先、それは三平会の本部です」

「ッ……!」


 三平会。

 その名を耳にし、無剣は一瞬だけ足が止まる。

 躊躇、と呼ぶもの酷な極短期間の足止め。一秒経過したかどうかの時間を経て少女は歩みを続けた。


「三平会って……あの極道の、ですよね」

「そうです。一か月前にも他の極道と小競り合いを起こし、支部の一つが強制捜査を受けた過激組織。

 極道間の縄張りもお構いなし。関東和平連盟の傘下、という地位を笠に時代錯誤の自警団ごっこですよ。正直、戦後にでも帰って欲しいです」

「へー、そんな大層な組織なのな」


 両腕を頭の裏で組み、切島は感心の声を上げる。

 なおも三人は足を止めることなく前進を続ける。

 信号の類は道を譲るかのように青の光を輝かせ、道を過る乗用車もまた彼らの動きに呼応して順々にブレーキをかける。

 やがて眼前に現れたるは、一つの大屋敷。

 江戸時代の城を彷彿とさせる大柄な門構えに、阿吽像の如く左右に立つ屈強な門番。厳つい顔立ちで周囲を睥睨する様は、道を極める者として相応しき代物か。


「お、やっと見えたか。歩き疲れたぜ」


 軽口を叩く切島を睨む片割れの視線は鋭い。

 もしくは会談の話が末端にまで伝わっていないのか、開門の様子はない。


「何者だ」

「切島相談事務所。組長には澪音経由で連絡が通っているはずです」

「……」


 鵜飼の言葉に互いの顔を見合わせ、左の門番が耳元の通信機で連絡を取る。

 その間も右の門番は三人を、幼子である鵜飼にまで油断なく目を配らせる。もしも迂闊な行動を見せれば、刹那の内に肉体が宙を舞うことであろう。

 一睨みを利かせるだけ後退る無剣に対し、切島は欠伸を掻く余裕さえも垣間見せた。


「組長から裏が取れた。どうやら本当らしいぞ」

「だから言っただろうが」


 心配性を拗らせた門番へ悪態を突く切島だが、それでも門が開く気配はない。

 何を手間取っているのかと目つきを鋭く研ぎ澄ますと、門番が不意に掌を向けた。


「身体検査だ」

「澪音経由の要請を信頼出来ないですと?」

「法の加護を受けられない身でな。納得せずとも理解して貰うぞ」


 鵜飼の返しに反論する門番に対して、なおも不満を表情に出す切島。だが肝心の幼子は軽く肩を竦めると、どこからでもどうぞと身を晒した。


「……そちらの立場上、仕方ない話ですね。気の済むまでどうぞ」

「チッ……調べたきゃ調べろよ」

「予め言っておきますが、これは竹刀です」


 鵜飼の態度に切島、無剣もまた追随。

 許可が下りたことで門番も心置きなく身体検査を開始。

 ジャケットの内側、オーバースカートの奥、靴の内側。男性が直接触れては問題のある箇所には各自で手を入れて安全を確かめて貰い、各々が凶器の持ち込みをしていないことを証明。

 とはいえ、得物を隠して捜査の目を掻い潜るのは不意を突く際の初歩。


「安全は確認されました。ですが、その竹刀だけは預からせてもらう」

「それは仕方ない話でしょうです。無剣さん、竹刀を」

「……」

「無剣さん?」


 振り向いた鵜飼に促されるも、セーラー服の少女が担いだ竹刀袋を手放す気配はない。

 嫌な予感を覚えつつ、騒音に紛れて聞こえなかった可能性に賭けて再度声をかける。


「無剣さん、竹な──」

「いやです」


 食い気味の拒絶が、辺りに木霊する。


「……何のつもりだ、お嬢さん?」

「大の大人が小娘の竹刀一つに怯えることもないでしょうが」


 ぴしゃりと、端的に言い放つ様は極道本部へ足を運ぶことが判明した当初から大きく乖離している。

 両親を殺害した張本人がいるかもしれない場所に、武器の一つもなしに赴く勇気がない。という点もある。

 極道という、人の道を逸した連中に対して二人程の信頼を抱いていない。という点もある。

 様々な感情が渦巻き、混沌のままに抽出した結果として門番の二人は無剣への視線を鋭利に研ぎ澄ます。


「餓鬼が、舐めたことを──」

「やめろ、牛頭ごず馬頭めず


 握り拳を作る門番を制する声が一つ。

 内側より開かれた門より顔を覗かせた男は、門番へナイフの如き鋭利な眼差しを注ぐ。苦労の程を窺わせる皺を眉間に刻みつけたその外観は、実年齢と印象の差異を幾分か広げる。

 新たな手合いにも鋭い眼光を注ぐ無剣とは対照的に話が分かる者が現れたと、鵜飼は嘆息を一つ。


「澪音からの連絡は窺っております。まずは出迎えが遅れたことへの謝意を」


 頭を下げ、恭しく接するは黒のスーツを纏った男性。相応の地位に立つ人物であることは、細かな口振りと胸元で燦然と輝く三本線のバッジが物語っている。


「三平会の幹部ですか。こちらこそ、門前でご無礼を」

「先に言っておきますが、竹刀を手放すつもりはありませんのでー」

「無剣も拘るなぁ」


 多少砕けた、平素に近い口振りとなりながら無剣も譲るつもりはないのか。切島でさえも面倒そうに肩を竦める。

 男は一瞬、竹刀袋を睨みつけた後に視線を門番へと移す。


「確認は?」

「外観だけは……ですが、隠し武器の線が」

「必要ない。アレはただの小娘、刺客ではない」

「はッ」


 男の言葉には絶対服従か。確立された上下関係は二人を門の左右へ譲らせる。


「ここからは私めが案内します。私のことは天狗とでもお呼び下さい」

「天狗さんですか。鵜飼は鵜飼六子、性か名かはご自由にどうぞです」

「切島唯之介。切島相談事務所の社長やってますわ」

「……無剣裂」


 天狗に導かれるまま門を潜れば、そこは広大な庭と豪奢な屋敷。檜と鉄瓦を中心とし、至る箇所を現代の建築基準法に基づいて改修を加えた屋敷は、正しく現代の武家屋敷。

 玄関も、廊下も、紙障子にまで黒を基調とした色味のものが採用された三平会の本部は、極道の根城としても遜色ない。

 一同が縁側を歩く道すがら、人工的に作られた池では色鮮やかな鱗を持つ鯉達が彩りを加える。

 やがて襖の様子が変わる。

 黒を基調とした単調なものから、僅かに色調が変化している。質が向上しているのか、それとも古くから使用している和紙が色褪せたのか。

 何れにせよ、一目でそこが特別な部屋であると判断できた。


「組長はこちらでお待ちです」

「ありがとうございます」


 鵜飼の血族として刻み込まれたのか、年齢不相応に整った礼をする。

 他方で切島は細かく周囲へ意識を傾け、構成員や道路と庭を隔てる築地塀を一瞥。


「樫屋組長、件の方々をお連れしました」

「天狗か……入れろ」


 部屋の奥から響くは、臓腑の奥にまで響く低い声音。

 切島を除いた二人は僅か一声で背筋を知らず伸ばし、息が詰まる。

 襖の先、これより踏み入れる奥にて待ち受ける存在が辺り一帯に緊張感を走らせる。

 魑魅魍魎、悪鬼羅刹。暴虐の徒たる極道の一大勢力、三平会の首魁に相応しき気配が襖を挟んで漏れ出ている事実に、無剣は眩暈すらも覚えていた。

 唾を飲む音が殊更大きく、少女の鼓膜を震わせる。


「失礼します」


 天狗がわざわざ一度正座をした上で襖を引き、三人を促すように手招く。

 鵜飼も一礼し、縁を潜る。


「ッ……!」


 刹那。

 部屋の内外で変調した空気が、鵜飼の背に冷や汗を滴らせる。

 変わった。

 縁を跨いだ瞬間、一八〇度変化した。既に似たような修羅場を幾度も経験しているにも関わらず、明確な変化を痛感する。

 それは無剣とて同様なのか。振り返れば彼女もまた、急変したものに背筋を震わせていた。

 縁を跨ぐ前後で様子を変えない者など、切島のみ。

 幹部同士の会合に用いるのか。長大な部屋には一目しても十人は下らない幹部が正座して左右を囲み、一息には詰め切れぬ間合いの先に羽織を着用した一人の老人が座する。

 禿げ上がった頭部に片膝を突き、胡坐を掻いた姿勢は訪問者への礼儀が欠如し、瞳孔の小さな黒目がそれぞれを値踏みするかのように睥睨。空いた右手には紫煙を燻らせる煙管キセルが指に挟まれていた。


「何か、俺に用事があるらしいな。鵜飼の若いの」

「お初にお目にかかりますです、鵜飼六子と申す者です」


 老人の言葉に丁寧な言葉で返すと、鵜飼は用意された座布団に腰を下す。

 追随する二人もまた座布団に座り、その座り心地を確かめる。無剣は敵意がないことを示すため、包帯を巻き自由の利かない右側に竹刀袋を置く。


「切島唯之介。一応、俺が社長なんだけどな」

「……無剣裂」

「俺は関東和平連盟傘下が三平会八代目組長、樫屋都黒かしやとくろ

 してのぉ、若いの。社長を自称するなら」


 樫屋の目つきが、一層研がれる。目標は座布団に座し、胡坐を掻く切島。


「見知らぬ者への礼儀ってもんがあるんじゃないんかい?

 横の嬢ちゃんは言われずとも得物を脇に置いているのに、のぉ」

「あぁ、アンタが胡坐掻いてるからそれでいいのかと」

「切島ッ」

「……へいへい」


 然したる拘りがある訳でもないのか、樫屋に加えて鵜飼にまで指摘されれば容易く姿勢を正した。

 老人も切島の指摘自体には思う所があったのか、一気に殺気立つ周囲を手で制した上で口を開く。


「悪いの、若いの。俺くらいの歳になると正座もキツくてな」

「事情があるなら構わねぇよ」


 切島が周囲にひりついた緊張を投げかける一方、鵜飼は組長のすぐ側の座布団が一つ、無人であることに気づく。

 澪音人材派遣経由で幹部陣を全員集合させた上での会合を要求したはずなのだが、盛大に梯子を外された形となっている。これが襖の先で待機している天狗ならばともかく、そうでないとすれば──


一道ひとつみちの馬鹿は留守だよ……ったく、あの馬鹿が」


 視線を読み取ったのか。先行して疑問に答えた樫屋は、件の人物へ吐き捨てる。

 不満がないと言えば嘘にはなるものの、組長にすら制御できない結果であるならば飲み込むしかあるまい。後々こちらの事情を説明して貰うことを条件に不問とする。

 切り出すは、鵜飼。


「それでは、本題に入りたいと思いますです」

「あぁ、こちとら澪音人材派遣から幹部招集ごとの要件があると聞いたんだ。何事だ?」


 煙管を手放して眼前のすり鉢へ置き、樫屋もまた背筋を伸ばす。


「今回は先日、こちらの依頼人へ放った刺客についての説明を願いたく存じておりますです」

「刺客、のぉ」


 意味深に、あるいは周囲へ意見を求めるかのように、樫屋は一単語を反芻。

 縁側の方では流水が蓄積したのか、ししおどしが岩を叩く。

 乾いた音が会談の場にまで響き渡る頃、樫屋は選んだ言葉を出力する。


「知らんのぉ、刺客など」

「それは犯人から三平会に雇われた、との証言を得ていると知っての発言ですか」

「そいつらがどのように答えていようとも関係ないわ。大体小娘一人殺すならば、直々に鉄砲玉を撃てばいいだけじゃろうが、のぉ?」


 同意を求める言葉尻に、鵜飼は反論する術を知らない。

 別に自白剤を投与した訳でも、最新鋭の嘘発見器を用いた訳でもない。如何に詭弁に過ぎない戯言だとしても、あり得ないと頭ごなしに否定するには根拠に乏しいのだ。

 出来ることと言えば。


「依頼が組長にすら秘密裏に行われている可能性は?」

「それはそうだの。時間があるなら後でこいつらに好きなだけ問い質せばいい」


 このように、幹部連中への尋問許可を取ること程度。

 周囲に目を配れば、幹部が揃って嫌な表情をするばかりで不審な表情は窺えない。詐欺もまた極道の有力な収入源の一つ、素人の目を誤魔化すなど赤子の手を捻るより容易か。

 これ以上探りを入れても成果が出るとは思えぬ。

 鵜飼は一度無剣へ目配せし、次の話題を切り出す。


「でしたら、次の話題としましょうですか。

 件の依頼人から頼まれたのは、半年前に起きた殺人事件の犯人。その特定です。

 ご老体の耳目には、何か手がかりは?」


 三平会は悪辣な凌ぎで稼ぎを得ている一方、縄張りで悪事をかます存在には一切の慈悲もなく苛烈な報復を行うことでも有名である。

 行為の是非はともかく、無剣家の住宅は縄張りの内。

 即ち、犯人は三平会にとっても唾棄すべき敵には違いない。

 だというのに、樫屋はまるで質問を予期していたかのように一度口端を綻ばせ、黒セーラーの少女を見つめる。


「……」


 無剣もまた、威圧感すら漂わせる組長からの視線を睨み返す。

 死んだ魚の濁った瞳と退屈に飽き児戯を渇望する瞳、互いの視線が交差して火花を散らす。


「フッ」


 気づかれた。

 背筋を駆け抜ける悪寒が鵜飼の体温を急速に奪い去る。

 咄嗟に無剣の方を振り返るも、樫屋の言葉を遮ることなど叶わない。


「耳を──!」

「ッ……!!!」


 火山の噴火を彷彿とさせる感情の波が、無剣の顔を赤くする。

 自身の人生を狂わせた出来事と同じことを、過去に幾度もなく繰り返したが故の言葉。それを躊躇いなく口にする神経。組長の愚行をせせら笑いすらする幹部達。

 部屋に充満する全てが、無剣の身を捩らせて左手に竹刀を握らせる。

 切島の静止など、耳にも入らぬ。


「死んで償えッ、外道ォッ!!!」

「馬鹿、止せ無剣ッ!」


 正座とは礼節の他に、侍が自らに敵意をないことを示すための姿勢。しかして時代とは残酷なもの。

 不意を突き、確実に敵を屠ることを追及する過程で絶対安全圏──互いに畏まる瞬間すらも極大の隙と解釈する。

 なれば殺人剣たる武道の中には存在する、正座の姿勢から素早く喉元を穿つ手法も。


「殺す殺す殺すゥッ!!!」

「刺客かッ、やはりッ」


 寝耳に水か。左右を囲っていた幹部も反応が一足遅れ、動き出した時には既にロングスカートの端すらも掴めない。

 自身の疾走を加算して加速する神速の刺突が音の壁を軽く穿ち、表情一つ変えぬ老人へと突き出される。樫屋は自らに迫る刃の切先を、やはり顔色の揺るがぬままに見つめ──


「なッ……!」

「これは何のつもりだ、小娘」


 突き刺さる寸前。

 切先と樫屋の間に割り込む掌が、微塵も押し込まれることなく竹刀の進撃を食い止める。

 血走った憎悪の眼差しを腕の先へと向けると、そこには二十歳前後と推測できる黒髪の青年。淡泊な口調に相応しき涼しい表情は、それでも組長へ向けられた凶刃に瞳の奥で怒気を燃やす。

 左腕に力を込め、無剣は強引に竹刀を突きつけようと体重を乗せた。


「何のつもりだと、聞いている」

「ッ……!」


 なおも竹刀は先を進まず、むしろ押し返されている気配すらある。


「これはどういうつもりかのぉ、鵜飼」

「いえ、これは……!」

「言い訳は無用。全ては小娘の刃が物語っておる」


 樫屋の意向を代弁するように、青年は空いた左手を懐へと突っ込み内から抜き身の短刀ドスを構える。

 無剣との間合いは前のめりの都合も相まって竹刀一本分にも満たず、適当に振るうだけでも柔肌を傷つけるには充分。

 空を切る鈍色の刃は、さながら朝食の支度をするかの如く。


「ん?」


 青年の左手に手応えがなく、どころか視線を落とせば掴んでいたはずの竹刀もまた、姿を無くしている。

 刹那、第六感が掻き鳴らす警鐘に従って素早く身を屈めれば、鋭い切れ味を予感させる疾風の音。

 音の出所目掛けて短刀の切先を突き立てるも、件の獲物は既に間合いの外。


「切島……当代の全刀流か」

「はぁ……無剣さん、どうすんの。こっから先」

「離してッ。あの爺を今すぐ殺させてッ」


 幹部連中に周囲を囲まれた状況で、セーラー服の少女を担いだ切島が呑気に口を開く。その間にも担がれた無剣は抗議の意を示すも、背中を叩かれた程度で下すつもりはない。

 無剣の暴走が原因で交渉は完全に決裂、今や三人は三平会にとってのお尋ね者である。

 となれば、次に切島がすべき行動は──


「鵜飼、上手いこと逃げるぞ」

「それが出来れば苦労しないですよッ!」

「大丈夫大丈夫。まずは部屋を出て正面の壁へダッシュだ」

「ふざけるなぁッ!」


 怒号が一つ。事務所の面々が繰り広げる場違いな会話を遮る一喝を合図に、左右に並んでいた幹部が一斉に迫る。

 拳銃を抜く気配こそないものの、この数では短刀や金棒の類でも脅威としては充分。

 天井にまで届かん巨躯が大振りに振り被る。

 狙うは幼子たる鵜飼。

 荒事の一切を切島へと任せ、自らは戦に慣れぬ彼女ではその身を障子紙よりも容易く引き裂かれるだろう。脳裏に過った最悪が足を竦めさせ、ただ鈍色の輝きに目を奪われる。

 直後、鵜飼の視界に血飛沫が舞う。


「全刀流中伝応用──マフラー」


 首に巻くマフラーを素早く解き、切島は右腕を一閃。

 涼やかな声音と反比例に鋭利な音が空間を裂き、が巨躯の胴体を袈裟に斬る。


「……ハッ」


 顔にかかった血痕で意識を取り戻した鵜飼は、せめてもの抵抗で身を屈めて部屋の出口を目指す。


「そいつは当代の切島だッ。掴めるもんは全部刃物だと思えッ」

「切、島……?」

「全刀流だよッ。聞いたことねぇのか、モグリがッ!」


 刀とは本来、極めて繊細な得物である。卓越した刀鍛冶が打った業物が、時として国宝にまで祀り上げられることもある程の芸術品。

 とてもではないが戦国時代の甲冑を両断するなど叶わず、下手を打てば骨に阻まれてへし折れる産物である。

 ならば戦の最中で得物を失った武士はどうする。徒手を以って鎧武者を撲殺するか。脇目も振らず逃走するか。

 答えは否。

 戦場にて無数に落ちる棒。中折れした槍、甲冑から折れた飾り、もしくは木の棒……

 あらゆる長物を刃物として振るい、全ての敵を切り刻む。

 そのために考案され、研鑽され、継承されてきた剣術こそが全刀流。全刀流を継承し、次代へ繋ぐための礎こそが切島の家が務め。


「さぁて、動揺している隙に。っと!」

「きゃっ」


 切島は畳を踏み込み、数歩で樫屋の近くから襖付近にまで加速し、その場で回転。

 乱雑にして大胆、しかして彼の視線だけは冷静に周囲を取り囲む幹部を見つめ、一人一人の点を的確に斬りつける。

 切断とは強烈な摩擦力が極小さい点に集中した結果、本来の形状を維持できなくなることを指す。厳密な定義に於いて先端が鋭利でなかろうとも、強烈な過負荷を極狭い面積へ発生されれば切断は起こし得る。

 故に、布であろうとも隔絶した技量を以ってすれば人体すらも両断し得る。それこそが全刀流の基礎。

 なれば、その周りに咲き誇るは血で染め上げられた真紅の華。


「は、離してッ。下した方が動きやすいでしょッ!」

「ギャンギャン騒ぐなよ。てか、下したらすぐにあの爺を襲うだろ。

 もう帰るんだよ、こっちは」

「わ、分かったからッ。素直に逃げればいいんでしょッ!」

「切島、後ろですッ!」


 鵜飼の言葉に従い、振り向き様に一閃。

 短く握り直した燈色のマフラーがスーツ姿の男を横一線。破裂したかの如き出血が切島のベレー帽と無剣のセーラー服を朱に穢す。


「おいおいおいおい、いい加減消耗戦は止めようぜ。ここにいるのは幹部なんだろ、雑に死なすのは惜しいだろ」

「それはそうだのぉ。だから……」


 唐突に襖が開き。

 立ち並ぶは多数の極道構成員。

 漆黒の肉壁が三人の行く手を遮る。


「頭数も増やしてもらおう、かのぉ」

「狸爺……嵌めやがりましたですねッ」

「ほっほっほっ。この歳にもなると、澪音にでも歯向かわないと愉悦がなくてのぉ」


 樫屋は喉を鳴らし、幹部に怪我人を出す事態にも愉快とばかりに笑みを作る。さも、鵜飼の返しを期待していたかの如く。

 尤も、殲滅ならばともかく撤退であらば切島に切り抜けられぬ状況でもなし。


「部下の面倒もみれない認知爺の介護は趣味じゃないんでね」


 無剣を下すと、マフラーを首に巻き、両手には道すがらで拾った小枝。


「帰らせてもらうぞッ、っと!」


 愚直に、正面から、特攻とすら思える無謀さを以って切島は矮躯を駆けらせる。

 幹部連中にすら劣る練度の一構成員をかき集めた軍勢など、恐れるに足らず。

 二刀の小枝を手早く振るい、斬られた相手が反応するよりも早くその場を離れる。一撃が浅かろうとも構わぬ、今は屍を増やすことよりも敵の衆目を集めることこそが肝要。

 素早く、手早く、疾風の如く。

 駆け抜けろ。駆け抜けろ。己が身を風に溶かして万物を置き去りにしろ。


「がッ……て、めぇッ!」


 そうして歯を食いしばる敵でもいれば──


「ハァッ!」

「ッァ……!」


 膨大な隙を晒した敵の真横を、無剣の竹刀が穿つ。

 鵜飼のみならず依頼人をも守ることも珍しくない普段と異なり、今回の依頼人は中々に腕が立つ。少なくとも極道の構成員程度が相手で、拳銃の一つも使用しないのであらば充分戦いの構図は成立する。

 証拠として、一人逃げ回る鵜飼や切島を躍起になって狙う相手に一撃を与え、自身へ迫る刃は刀身を巧みに操ることでいなす様は頼りがいがあるというもの。


「ッ、素足の砂場なんて小学校の組体操以来な気がするなぁ!」

「指で掴む感じがいいって、師匠が言ってたぜ!」


 縁側を跳び抜き、切島と無剣は土煙を上げて地を滑る。やがて殺し尽くされた勢いは二人を地に立たせ、樫屋の座する部屋へと向き直らせた。

 組長の姿は、多数の構成員と奥に控えた幹部連中に紛れて窺えない。

 代わりに見えたのは、一足遅れて群衆の中から抜け出した鵜飼の姿。

 先程まで意識していなかった幼子を認め、切島は非常用の武器としていた小枝を手放す。


「置いていくなですッ。この中だと鵜飼が一番弱いんですよ!!!」

「喚くなよ、おレディさん。嫌われるぜ」

「そんなことよりッ……!」


 無剣の叫びに呼応し、三人は一斉に駆け出した。

 刹那、乾いた破裂音とほぼ同時に、半瞬前まで切島がいた場所に黒穴が穿たれる。

 鼻腔をくすぐる微かな硝煙も相まって、彼らが拳銃を解禁したことを理解。間合いは元より、あまりに密着していた状況故に同士討ちの危険性があったからこそ、引金を引くことを厳としてきたのだ。獲物が屋外に固まった以上、最早漆黒の殺意を躊躇う理由はない。

 火薬が燃焼し、銃声の乱舞が二人の足跡に黒点を穿つ。


「どうやって逃げる気なんですかー。身体に穴が空くまでに答えて欲しいですねー!」

「今から言うから絶対聞き逃すなよッ。いいな、まずはこのまま走って──」


 いつの間にか背中に捕まっていた鵜飼を背負って声を張り上げる切島に、最初は怪訝な表情を浮かべていた無剣であったものの、やがて合点がいったのか頬を緩ませた。

 疾走していった先、並列していた堀に一つの扉が姿を現す。

 切島はタイミングを見計らってジャケットの内側へ腕を突っ込むと、二指で目標を掴み取る。


「全刀流初伝──名刺」


 鮮やかな軌跡が、扉と堀を繋ぐ蝶番を両断。

 更に狙いを定めるため、数ではなく精密性に賭けた一射が切島の右腕を僅かに逸れ、固定を無くした扉を穿つ。

 結果、勢いに押された扉は細々とした破片を散らして道路へ飛び出す。


「チッ、裏口から逃げる気だッ。回り込ませろ!」


 青年の指示の下、構成員の内少なくない数が左右に散る。彼らが近くの門から扉の先を目指し、挟撃する算段か。

 その上、未だ銃口も相当数が扉なき出入口へ注がれている。

 故に間へ割り込む切島の姿に、幾人かの構成員が動揺を示した。


「最近の子供ってさ、存外に手癖が悪いんだわ」


 言い、両手で弄ぶは陽光を受けて照り輝く鈍色の刀身。


「いつの間に短刀を……!」


 歯噛みして視線を落とし、唇を伝うは一筋の赤。

 勢いよく持ち上げられた瞳に、逡巡の色はない。


「撃てぇ!」

「だろうなッ!」


 雷鳴が鳴り響き、弾雨が殺到。

 雨粒を避ける傘こそなけれども、切島の両手には雨粒を両断せしめん刃こそが相応しい。

 まずは自身に迫る弾丸二つ。垂直に刃を突き出して刀身の真上を滑らせると、手首を軽く捻って軌道を逸らす。

 鉄瓦を穿つ二穴は、そうして産声を上げた。


「逃げるまでの時間稼ぎ、任せたですよッ!」

「お安い御用で」


 鵜飼からの言葉に応じる間にも、次の弾丸が運び込まれる。

 正中に近い一撃は軌道を逸らし、掠める程度であらば弾頭に傷をつけて軌道を歪める。

 全てに対して均一な対応を施すのではなく、コンマ数秒の長時間で適切な処置を判断した上で実行する。幾万幾億と身体に叩き込まれた経験則を総動員し、切島は自身を一つの機構マシーンとして動作させた。

 結果として克明に浮かび上がるは、陽の光と影の境界に幾重にも穿たれた弾丸、そして無事な影を背負い立つ切島の姿。


「どうした。弾切れか?」


 余裕な声音で挑発する切島。

 他方で背後から伝わる視線には、さしもの彼も軽く歯軋りを鳴らす。


「……で、だ。いったいいつになったらそっちは逃げるんですかい、無剣さん」

「……鵜飼さんから、言われた。切島と一緒に引けって」

「なんだよ、それ」


 震えた声色、しかして身を縮ませるのみで努めて恐怖を隠しつつ語る無剣に嘆息し、切島は肩を竦める。

 信用に欠けた言動を取った覚えはないものの、鵜飼は何を不安視しているのか。

 とはいえ、既に幼子が逃げ切れる程度の時間は稼げているはず。これ以上の遅延行為は大周りしている構成員の合流を許し、自ら退路を断つ事態にも繋がる。

 幸いにも相手は弾倉交換リロードの真っ最中。想定外の粘りに間断なく撃ち続けるような姿勢を作ることも叶わなかったのだろう。

 クナイよろしく短刀を投合すると反転し、無剣を連れて撤退開始。

 背後から青年の怒号が耳をつんざくも、今更対応してやる義理もなし。ましてや数秒の後に左右の道路から口汚い罵声が飛び交うとくれば、逡巡の余地すらない。


「組長を騙し打ちするとはッ。ぶっ殺してやるッ!」

「待てや卑怯者ォッ」


 怒号と罵声がアスファルトを叩く革靴の音に混じり、混沌の様相を呈する。

 なれば、切島が正常に対応してやる道理もない。無剣を連れている以上、事故が起きてしまっても困るというもの。

 右に左に曲がり角を曲がり、徐々に追随できなくなった構成員が一人一人脱落していく。


「しかしよくついて来れるな、無剣は」

「半年前はッ、模範生で通ってた、ので、ねぇ……!」


 ブランクの関係もあって呼吸が激しく乱れ、走るフォームも大概に効率を度外視した有様なものの、今すぐに脱落するという気配もない。

 手に持つ竹刀がそうさせるのか、切島は無言で右手を差し出すも追走する少女に手放す気配はない。

 竹刀袋を三平会本部に置き、それっきりとなった以上、手元に確保しておきたいという気持ちは分かる。門番と衝突してでも一時的に手放すことすら拒否したのだ、込める思いも一押しというものか。

 理解を示すと、切島は正面を向いて一層の加速。

 既に二人は街の一角にまで到達している。ここまで行けば、構成員が下手に手を出せば目撃者の数からして通報と伴う警察の介入を招く口実になりねない。

 事実、背後に振り返ってみても、そこには漆黒のスーツはどこにもない。


「ひとまず、撒いたか……」

「ぜぇ、はぁ……はぁ……!」


 足を止めてみれば、微かに呼吸を乱す程度の切島とは対照的に、無剣は膝に手を当てて激しく乱れた呼吸を必死に正そうと大口を開ける。もしくは、顎を閉じる余力すらもなくしているのか。

 地面に向けて垂れた舌の先を伝う涎が、彼女の疲労の程を予期させる。

 ここまで全力疾走を続けてきたのだ。なまじ鍛えていた過去がある分、現在とのギャップに肉体が動揺している可能性も否めない。


「あー、とりあえず……どっかの店で休むか。鵜飼と合流する場所も兼ねて」

「そ……する……ぜぇ……ぇ!」


 息も絶え絶えとはこのことか。

 ともすれば幽霊を思わせる動きの手を掴み、切島はひとまず適当なカフェを目指す。

 向かう先はカフェテラス『シューティングクロウ』、烏星財団の調理部門が関与しているチェーン店だと聞く。

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