その2
後は幾つかの簡単な事務的応対を重ねると、調査に移るための情報収集から始めると無剣へ退室を促す。
交渉が成立した以上、事務所に長居する理由もなし。
無剣は軽く会釈すると、ソファーから腰を上げて足を進めた。
退室の直前。玄関で振り返ると打合せであろうか、二人が会話を繰り広げていることが視界に入った。
しかしてこれより先は
事務所を後にし、上った時よりも幾分か定まった足取りで階段を下る。
時分は然程経過していないのか、未だ太陽は頭上で輝きを保っている。無論、長袖にロングスカートを組み合わせた黒のセーラー服では急速に水分も奪われるというもの。
色白。人によっては病弱にも思える顔色に汗が滴り、ただでさえ散漫な集中力が加速度的に低下する。
油断していたつもりはない。
が、自身が襲われる可能性など微塵も考慮していないが故に──
「んッ……!」
路地裏より伸びる魔手が無剣の口元を覆い、尋常ならざる膂力が本来の進路ではなく薄暗い空間へと少女を引きずり込む。
「んんッ、んんんッ……?!」
「うお、このッ。暴れんな、よッ!」
我武者羅に両腕を振って抵抗する無剣に、背後から口を覆っている誰かが声を零す。
何ら支障のない左腕は元より、包帯を幾重にも巻き固定した右腕もまた反動を無視すれば良質な質量兵器となり得る。
左に鈍い感触が伝わり、口元の拘束が緩まる。
極僅かな隙を的確に活かして、無剣は腕を振り払って背後から距離を置く。
息を切らして振り返る際、袈裟掛けにしていた竹刀袋を掴み、内から年季を窺えさせる仕立ての良好な竹刀を構えた。
「誰、かなー」
改めて、無剣は路地裏に構えた刺客を睥睨。
四、五人といった所か、服装や武器類に統一感は皆無。鉄パイプにメリケンサック、拳を掌へぶつける者が窺える。彼らに共通点が一つあるとすれば、不意を突いて人を路地裏へ引き込む姑息な輩に相応しき容姿をしているということか。
彼らのリーダー格か、口元をハンカチで覆った男が一歩前へ進む。
「へへ、悪く思うなよ。こっちも金がかかってるからなぁ」
下品な笑みを零す男の視線は、無剣の身体を舐め回すようで不快感だけが的確に煽られる。
手首を捻って竹刀の切先を僅かに逸らし、男の首元へと合わせた。
照準を合わせられたことを知ってか知らずか、男はポケットの中を漁ると内から自身の得物を握り締める。
「──」
「コイツが怖いんだろ。えぇ、無剣裂さん?」
それは光源の絞られた路地裏にあって、鈍色の光を蓄えた刃物。銃刀法を施行すれば検挙は間違いない鋭利なる殺意。少女の人生と視界の片割れ、そして肉親を奪い去った悲劇の具現。
即ち、刃渡り三〇センチのナイフ。
「剣道の達人だかなんだか知らねぇが、所詮はモグリ。
命の取り合いってなると、話が変わるよなぁ???」
ハンカチを押し退けて舌を突き出し、嘲笑の念を露わに。
蝶の羽ばたきを彷彿とさせる軌道を描く刃先は、さながら死への誘い。
露骨なまでの挑発を前に、少女は見開いた左目を離すことが叶わない。瞬き一つ、視線の一つすらも凍り付いたかの如く静止するは、この場にいる誰よりも脅威を理解しているが故に。
防刃加工の一つも施されていない、一介の高校生が着用するに相応しいセーラー服など、錆つき刃毀れも著しい刃であろうと容易く刺し貫く。
無論、人体を破壊するのもまた容易。
「まして、片目と腕が潰れてんだ。そんな雑魚に手間取る訳──」
瞬間、一つの点が言葉を止める。
空を穿ち、音の壁を貫くは単純な膂力にあらず。
柄を手放さない程度に軽く握り、限界まで脱力。瞳のみは絶えず相手の姿を凝視し、竹刀と目標の首元を直線で結ぶ。
半身の肉体が一つの弓であるかのように左腕を伸ばし、臨界を迎えた刹那に解き放つ。
力を込めるは
其は利き腕が潰れ、一本で対処せねばならぬがために変質した異形の剣術。
全てが功を成し、宙を回るナイフが地面を舐めたと同時に、男の肉体が壁面に叩きつけられる。直線状に味方が並んでいないこともまた、彼らにとっては幸運なのかもしれない。
「れ、
「ふぅ……!」
男達がリーダー格の脱落に意識を引っ張られる中、無剣は殊更ゆっくりと息を吐き出す。
意識的に、男の手から離れた得物を記憶から抹消するように。
剣道を嗜むものであらば一度は習い、中学生以下では禁じ手にまで指定される突き。
剣道着を正しく着用していても、気管や頸動脈を穿てば命の危機にまで至るそれを、今では生身の人間へ躊躇いなく振るう。
かつての恩師や部員が知れば、いったいどう思われるか。
無駄な思考を振り払い、足下へ一閃。
小気味良い音を立て、凶器の刀身が中程からへし折れる。
「チッ。この餓鬼ッ、結構やるぞ!」
別の男のかけ声に応じ、後方の怜雄へ意識を注いでいた男達も改めて無剣を、その得物たる竹刀へ視線を移す。
長年扱ってきた得物は凹みや歪み、表面の擦れや微かな解れといった代物が無言の説得力で訴えかける。主の剣捌きを、百の言葉よりも雄弁に。
それは如何に高価な真竹を用いた竹刀であっても、普段から使用後には欠かさず自主的な点検を怠らなかろうとも関係なく。
幾つもの戦場を乗り越えた玄人であると。
血と汗が滲む鍛錬の果てに辿り着いた高みにあると。
少女が、隻腕隻眼となってなお常人よりも遥かに脅威度の高い存在であると。
しかして、彼女の優位は個体性能。
元より数では勝っているのだ。それに路地裏では下手に間合いのある竹刀よりも、小回りの効くナイフやメリケンサックの方が壁に接触するリスクが低減する。
靴裏が、音を立てて地面を擦る。
少女もまた、数的不利には理解が及んでいるのか。音に合わせて足を半歩後退り。
後、四人。
闇に慣れた目が男達の姿を正確に捉え始める。今はまだ朧気な輪郭に過ぎないが、数刻と経たずに色や詳細な容姿が追加されることだろう。
それまで無剣が無事であらば、という前提だが。
「表通りは……」
背後へ意識を傾ければ、光明が肌で実感出来る程に近いことも伝わる。
大通りの様子は普段と同じ活気模様。
自動車の往来もあるとなれば、振り返ってから数秒の全力疾走で男達は追跡を諦めるだろう。口振りから金で雇われただけの素人集団、公衆の面前で活動する無茶はすまい。
男達を視界へ収めたまま、無剣は距離を離す。
動き出せば一瞬、大きくタイミングを外せば全員を相手取る羽目になることも考慮しながら、慎重に間合いを図る。
切欠は、自動車のクラクション。
「ッ」
「追えッ!」
駆け出すは五、音を鳴らすは十の足。
初動を制したのは無剣。刹那の差異なれど、極短距離であらば初動こそが砂金にも等しい価値を持つ。
逃げ切れる。しかし相手が短慮でないという条件下の元。
無剣の不安を結実させるが如く、男達に足を止める気配はない。
反転して攻勢を仕掛けるか。
脳裏に過った思考へ翳りを指すは、光明を覆う人影。
「全刀流、初伝──棒切れ」
擦れ違い様の声音は先刻、数言だけ言葉を重ねた。知り合いとすら呼べぬ間柄の少年のもの。
「ッ……!」
背後より鼓膜を刺激するは、肉の弾けた音と血飛沫の飛び散る音。
突然の出来事に無剣は足が止まり──
「そのまま事務所まで走れッ!!!」
「……!」
振り返りかけた姿勢を強引に修正し、黒のセーラー服が陽の光を浴びる。
追う足を影に遮られた二人では、最早彼女の追跡は不可能。
胴を袈裟に切り裂かれた仲間へ視線を落とせば、仰向けの身体に刻まれた傷口から止め処なく血が噴き出される。路地裏を染め上げる赤は、やがて二人の足先にまで鮮血の水溜まりを形成した。
視線を上げれば、選手交代とばかりに立ち塞がる少年が一人。
季節感を矛盾させるたなびくマフラーと生足を晒すショートパンツの組み合わせも、血を滴らせる両手の得物を前にすれば霞むというもの。
「木の枝……?」
「そ、木の枝だ。いいだろ、いい感じに握り易くて」
誇示するように手首を捻ってみせても、特段異質な要素はない。
どこにでもある、探せば道端にでも落ちている普通の枯れ枝である。
先端が鋭く研ぎ澄まされているのであらば、多少は理解出来る。鋭利な武具はそれだけで一種の殺意として成立するのだから。
しかして、衣服を引き裂き致命傷に該当するだけの深手を負わせるとなれば大きく話が変わる。
「子供の頃さ。よく探してたろ、こういうの。
いや、俺のは人伝に聞いただけだけど」
「ふざけてんのかッ!」
問答は不要と、残された男二人は同時に駆け出す。
全刀流、その名が意味するものも知らぬまま。
息を切らし、走るフォームも半年前からかけ離れた無様な代物。
そも速度自体が大きく低下している。剣道部の一員として、基礎の基礎たる走り込みを欠かしたことはないにも関わらず。
無様、無様、実に無様。
半年という月日を無為に過ごした代償を実感し、なおも足を止めることなく無剣は駆け抜ける。
結果、赤煉瓦造りのビルへと到達した頃には全身から汗を滴らせ、壁伝いに階段を上る嵌めとなった。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
まだ足を止めるには早い。
一歩を踏み出せ、繰り返せ。
黒の扉は後少しだ。到達さえすれば、それでいい。
無為で無価値な人生に、一つの清算を与えるまでは。
「まだ、だ……」
気づけば、竹刀を杖代わりにして歩みを進めていた。
先生が知れば怒鳴り散らし、一週間は道具掃除を命じられるだろう愚行にも、抵抗はなかった。剣士としての矜持など、右目と共に抉られているのだから。
視界に黒が入り込み、呼吸が一層激しく乱れる。
鉛の如き重さの足を引っ張り、歩を加速させる。包帯を巻いた右腕が自由を訴えたが、構うつもりはない。
邪魔な肉塊ですらあるそれを乱暴に叩きつけ、中にいる幼子へ訴える。
「はいはいはいです。今出ますから近所迷惑は勘弁ですよ、無剣さ……」
扉が内に引っ張られると、小柄な少女がお出迎え。
同時に、敵意を剥き出しにした眼光を前に思わず息を飲む。
「……っと、緊急事態でしたです。急いで入って下さい」
一瞬とはいえ気圧された事実を振り払うように首を振ると、来客のために扉を大きく開いた。
促され、無剣は外に跳ねた白髪を揺らして入室。鵜飼も確認後すぐさま扉を閉じ、備えつけられた五つの鍵で厳重に施錠を施す。
外には未だ切島がいるが、面倒を嫌って楽をして許される状況でもない。
「これは予想通り、って感じですね。
とりあえず適当に腰かけといて下さいです。何か飲み物を持ってきますですから」
「う、うん……」
緊張の糸が解けたのか。無剣の足取りは重く、鵜飼の言葉が半瞬遅ければその場にへたり込んでいたと確信出来る。
それでも竹刀を取り零すことなく、来客用の椅子に辿り着くまで意識を保ったのは彼女の意志が成せる技か。
崩れるように倒れ込み、力尽きた証左に竹刀が左手から零れる。
乾いた音が部屋に響くと、念のためと確認に訪れた鵜飼もまた無剣の姿を認めた。
「随分と、疲れたみたいですね」
一六の、命のやり取りなど無縁な少女だ。
裏社会に身を埋めた自身とは比較にならぬ疲労が蓄積したに違いない。
微笑を浮かべて無剣の元へ足を運び、棚に入れてあったタオルケットをかける。穏やかな寝息を上げる少女は、外の喧騒などお構いなしに。
無剣が安らかな眠りについてから、時計の長針が一巡するだけの時間。
「おーい。全員のしてきたぞ、鵜飼」
数度のノック、そして友人と遊び疲れた後の如き呑気な声が椅子に身を預けた無剣の意識を覚醒させる。
鉛を彷彿とさせる目蓋の重みに数度視界を瞬かせ、悲鳴を上げる関節を他所に左腕を持ち上げた。意識は未だ夢の世界に片足を踏み込んだままなのか、物体を掴むはずの掌が虚空を切る。
黒のセーラー服が起き上がった頃には、黒の扉も玄関で声を上げていた少年を歓迎していた。
「いやぁ、鵜飼の予想が的中したな。無剣が尾行されてんじゃってヤツ」
「直観ですけどね。半年前に起きた事件の割には表でも裏でも話に聞かないなぁ、と思っただけで」
「おはよーございますぅ……」
眠気眼を左で擦り、自宅と勘違いした穏やかな口調で挨拶する無剣。
玄関での苛烈な、殺人経験のない素人とは到底信じ難い表情の少女が脳裏にこびりついている鵜飼は顔を顰めて淡々と見つめる。
一方、そのような一面を知らぬ切島は能天気に手を上げて声をかけた。
「おはよう、いい夢見れたか?」
「いい夢って、ほぁ……?」
返事が来るのは思慮の外だったのか、無剣は一瞬理解が及んでいない表情を浮かべ、急いで状況を理解しろと急速に脳内へ血液を循環させる。
一秒、二秒、三秒。
秒針が更なる時の経過を示す寸前、少女は顔面を蒼白にして後退った。
背中に衝撃が走り、首だけで背後の壁を認識した時には、既に頭は平常の調子を取り戻している。いっそ意識が曖昧な方が覚えていないと言い訳がついたという意味では、これも一種の悲劇であろうか。
「え、あ、あぅ……い、今の、き、聞い……?」
「うん、寝起きに弱そうな声だったな」
「止めるです、切島」
放置すれば、いったいどれだけのデリカシーに欠けた発言を繰り返すのか。
鵜飼は迅速に切島の腹部を叩くと、無剣へと歩を進める。
「意識は大丈夫ですか。これから何個か報告すべき案件が起きたので、手短に話しますです」
「手短に……うん」
首肯こそすれども、寝起きの少女の思考力に一体どれほどの信が置けるか。証拠に羞恥の念も相まって、無剣は小動物よろしく身体を震えさせていた。
「まず無剣さん。貴女は現在、誰かに命を狙われていますです」
「……」
動揺の色は、ない。
元より清算が終われば身体を切り裂いて臓器を摘出することも視野に入れていた身だ、今更命が狙われる程度で動じる精神などしていない。
故に、鵜飼も大した間を置かずに次の内容を続ける。
「なので依頼解決までの間、貴女にはこの事務所で生活して貰いますです。当然、生命の保証はしますので安心して欲しいです」
「それはよかった……かな?」
彼女の提案を断る理由など皆無。
全てが終わる前に、彼女自身の命が潰えるなどという結末を許容できよう訳もなし。なれば依頼に護衛をつけ加えるもまた必定というもの。
不安があるとすれば、唯一の戦力と見ていい少年か。
無意識の内に無剣の視線が切島へ注がれていたことを見抜いたのか、鵜飼は両手を振って安全を主張した。
「大丈夫ですよ。ちゃんと寝室は別に用意しますし、そもそも切島に性欲みたいな代物は感じられませんですし」
「そんな単純な問題かなー……?」
「単純な問題ですよ」
頭上に疑問符を浮かべて首を傾げる少女に、幼子は首を縦に振って不安を取り払う。
肝心要の切島自身は、いったい何を揉めているのかと頭を掻くばかり。
傾げた首を元に戻す際、だったらと無剣は人差し指を突き立てる。
「着替えは?」
「着替え、ですか……そうですね。時間も時間ですし、今日の所は制服で我慢してもらって明日にでも切島が買いに行く、というのはどうですか」
「いやです」
「……」
鵜飼は提案を切り捨てる無剣に抱いた僅かばかりの苛立ちを、努めて表面化しないように奥歯を噛んだ。
制服のまま就寝、という行為か。それともつい数時間前に出会ったばかりの少年に私服を選ばせることにか。抵抗を抱く気持ち自体を切り捨てるつもりはないものの、状況を考慮して欲しいのが本音。
命を狙われている以上、彼女に外出させることすらも危険が伴うのだ。個人の我儘を優先させられる平時とは訳が違う。
「全部終わるまで……」
しかし、小さくか細い声で呟く拒絶の理由は鵜飼の想像したどれとも異なるものであった。
「全部終わるまで、私を留める全てが終わるまで……私は進んじゃ駄目なんです」
「進む……つまりなんです?」
彼女個人が理解するには充分な表現だとしても、第三者からすれば全く意味の分からない言語。鵜飼にとって無剣が紡いだ言葉は、知りもしない辺境の国で用いられる独自言語にも等しい形で伝わった。
一応視線を切島へと向けてみても、当然と言わんばかりに首を傾げるのみ。
二人の頭上に浮かぶ疑問符に気づいたのか、慌てて両手を振って無剣は通訳を果たす。
「あ、そ、その……買うんじゃなくて、自宅の制服を回収して欲しい……って、意味です……はい」
「制服、ですか……お言葉ですが、無剣さんはあくまで事務所待機。鵜飼も万が一に襲われれば一たまりもないですから、共に待機する形になるですが。それを理解して言ってますですか?」
事務所内にいる人物は三人。
そこから無剣と鵜飼を取り除けば、残る人物は後一人。
「えぇっと……それは俺が回収に行けってことか?」
自身を指差し、切島が問う。
制服の管理状況は当人に問えばいい。だが、実質的に制服以外にも下着を筆頭として必要な衣服は相応に存在する。それらを如何に性欲が薄いと言われても異性の切島に回収させる気なのか。
鵜飼が忠告しているのは、そういうことなのだろう。
質問して始めて気づいたのか、無剣は頬を朱に染めると一度視線を落として数秒沈黙。
殊更時間をかけて起き上がった顔に、迷いはなかった。
「大丈夫、です……それでお願いします」
無剣の要望から翌日早朝。
未だ陽の光も水平線から顔を出したばかりの、白の吐息が零れる時間帯。放射冷却が肌に突き刺さる明朝に、一人の少年が住宅街を歩く。
紺のインナーの上からジャケットと燈のマフラー、そしてベレー帽を着用した少年の名は、切島唯之介。
彼が手に持つ携帯端末が表示する時刻は、早朝四時半。老後を健康に過ごすべくジョギングに励むとしても埒外の時間は、人一人足りとも見当たらない。
それは首を左右に振っても変わらず、切島の目的としてはある意味では好都合な環境が構築されていた。
「ここを真っすぐ行って、次を左……いや、右か?」
端末に表示された地図アプリの案内に従って歩き続ける。が、どこか不安な言葉を吐く後ろ姿は追随する者がいれば即座に交代を申し出ていた程に。
左肩に袈裟掛けするは空の旅行用バッグ。
三日分の着替えは収納出来ると通販番組で豪語していたバッグに、ありったけを突っ込めば当分の間、着替えに困ることもなかろう。
やがて地図アプリは目的地へ到達した旨を機械的に告げると、切島も視線を右手へ向けた。
表札に無剣と書かれた家屋。随分と長い間放置されていたのか、庭には雑草が生い茂り、雨戸に隠れた乗用車は埃と錆が散乱している。
さながら、ある時を境に時が止まったかの如くに。
切島が門を押すと、錆ついた可動部が不快な金切声を立てて来訪者を出迎えた。そして玄関に辿り着くまでの間に、懐から銅と亜鉛、そしてニッケルから構成された合金を取り出す。
事実上の家主である無剣から手渡されてた鍵。それが、合金の用途であった。
「さっさと制服をかき集めて鍛錬に移ろ」
早朝からの活動は彼の
むしろ昼辺りに足を運んで近所の誰かから目撃された方が面倒極まる。
鍵を開けてドアノブを捻れば、来客を歓迎するは若干の埃っぽさ。
「ゲッ。なんだよ、これ……」
玄関付近から覗くだけでも、扉を開いたことで通過した寒気に舞い散る埃と彩りを加えるはずだった枯れた花の入った花瓶。後者は種類の判別もつかないまでに生気を失いながらも、花弁が存在したであろう先端は未だに幹と直結している。
廊下にしても、無剣が何度か往復した中央部は埃が少なく、一歩離れた途端に獣道にも通じていた。
「いや、一人暮らしにはやたら広い家だし、そういうもんなのか?」
疑問符を口にしてみるも、首を傾げた段階で本懐を思い出す。切島は靴を脱いで廊下から伝播する寒気を踏み締めた。
事前に無剣から、制服はリビングのカーテンレールにハンガーごとかけてあるとの情報は得ている。そしてリビングが廊下に沿って進めば簡単に辿り着く場所であることも。
慎重に、無闇矢鱈に埃を踏まないように細心の注意を払い、切島はリビングへと到達。
「あぁ、アレか」
薄暗い部屋の中、端末の光で辺り一面を照らしてみれば容易に目標物を発見。真っすぐ足を進め、速やかにセーラー服を回収。バッグへ乱雑に放り込む。
三着分は入れたであろうか。続けて下着を求めてリビングを後にする。
その時であった。
「ん?」
引き返す途中、棚に飾ってあった一つの写真立てが視界に入り込む。ある程度夜目にも慣れた頃合い故か、もしくは扉のすぐ側にある棚だから意識が向かなかったのか。
埃に塗れた写真に写っているのは、仲睦まじい夫婦と二人に挟まる愛の結晶たる幼子。
小学校低学年程度であろうか。白髪を短く揃えた幼子は余程楽しいのか、二人の前よりカメラへ飛び出して両手を広げている。撮影としては予期せぬアクシデントにも関わらず、夫婦は互いに向き合うとカメラ目線も忘れて微笑みを浮かべていた。
在りし日の無剣家の一幕。
切島がそう結論づけるのに、大層な時間は必要なかった。
「
口を滑らし、切島はハッとして口を塞ぐ。
既視感、などというものではない。瓜二つと呼ぶには色素の抜けた白髪を筆頭に差異も激しい。
ならば何故、写真の正体とは異なる妹の名を呟いてしまったのか。
雰囲気の類似。
写真と妹の体躯の差異。
それらしい言葉は幾つか浮かぶものの、正鵠を射ているかと言えば首を横に振る。
気づけば写真立てを手に取り、まざまざと見つめていた。あまつさえ左手で無剣と思われる幼子を撫でてさえいる。
「あぁ、そうか」
腑に落ちる感覚が、撫で回す手を経由して伝わる。
「お前が助けて上げろって言ってんだな、唯花……」
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