切島相談事務所の事件簿──異界迷走少女編

幼縁会

一章『安い女』

その1

 異世界へ足を運ぶのに苦労はない。

 近しい者の屍を見れば、刹那の合間に日常は消える。



 著しい残暑の日差しが頭上を照らし出す。

 既に一〇月を半ばまで経過しながらも、気温は三〇度を容易く越し、異常気象という言葉を否応なく人々の心に刻み込ませる。

 当然、街を行き交う人々の服装は半袖。

 それでも肌を伝う汗が現在の気温を一層に際立たせた。

 なればこそ、それが周囲の視線を集めるのは極自然な話。

 黒のセーラー服に身を包む貧相な身体立ちに線の細い顔。外に跳ねた白髪と常ならば快活であったろう容姿に影を差すは、死んだ魚の如く濁った瞳と目の下に浮かぶ隈。

 右腕には肌を隠すように包帯を巻き、右目にはガーゼ製の簡素な眼帯を着用している。健康とは言い難い肉体には、左肩に掲げる竹刀袋こそが最大の異端とも言えた。

 季節感を無視しただけではない、異質とまで言える存在の足取りは覚束なく、ともすれば夢遊病の類を連想させた。尤も、時折立ち止まっては携帯端末の画面を確認して現在地を確認する様は、辛うじて目的地の存在を認識させる。


「……」


 残った左目が虚ろな眼差しを注ぐ。

 液晶にて日の光を反射する画面の先では、現在地と目的地を繋ぐ一筋の赤線。

 自動更新の地図アプリが、彼女の足取りに確かな結末を提示する。

 彼女の横を通り過ぎた男が、饐えた臭いに思わず振り返る。

 首の辺りまで伸ばされた白髪と黒のセーラー服には、長いこと入浴していないことを暗示するフケが大量に零れている。不衛生極まりない容姿でありつつも、少女が意識している様子もないことがより、男性の表情を引きつらせた。


「浮浪者かよ、風呂くらい入っとけや」


 零れた言葉は本心の一つ。

 季節外れの高温が道行く人々の心から余裕をなくしていることも、つい本音を吐き出させた一因であろうか。

 やがて不安定な少女の足取りが止まり、眼帯の目立つ顔を見上げる。

 辺り一帯のビルが鉄筋コンクリートで形成されていながら、見上げた先の一件だけが赤煉瓦で形作られている。経年劣化も激しいのか、所々の綻びが目につき、中にはカビている場所も珍しくない。

 看板に踊る文字列は、『切島相談事務所』

 一足遅れて地図アプリも目的地への到達を告げる音色を鳴らす。陰気な雰囲気を剥き出しにした少女には似つかわしくない、明るくポップな音は数年前に流行した代物である。

 見る者に転ばないかと不安を抱かせる急勾配の階段を登り、辿り着くは三階。

 場違いとも思える高級感ある黒の扉に事務所の名を掲げた看板には、OPEN《営業中》の文字。

 チャイムを探す素振りも見せず、少女は左手で幾度かのノック。


「はーいです。ご入り下さいです」


 扉の先から聞こえた声は幼く、彼女の聞いた話から来る印象からは乖離している。

 が、意に介することもなく、促されるままに少女は取っ手を捻った。


「こんにちはです。こちらは切島相談事務所。鵜飼は事務担当の鵜飼六子うかいむこです」

「……どうも」


 扉を開いた先には掃除機を片手に応接室と思われる部屋の清掃を行う幼子。

 体躯は小学生相応であろうか、上下一対のスカートオールの下にはワイシャツ。艶のある黒髪を腰付近にまで伸ばし、白の靴下が膝の辺りを覆っている。客へ対するにはやや鋭利な青の瞳が少女へと注がれた。

 鵜飼と名乗る幼子からの挨拶に、軽く会釈で返すと少女は革靴を脱いで歩を幾らか進める。

 少女が執務机へ回り、手元に書類を数点取り出す。


「それでは依頼内容をどうぞです」

「猫探しを……依頼したい」


 少女は自らの名を口するよりも先に、か細い声音で依頼内容を語る。

 それが暗号。表に出せぬ依頼を通すため、建前の言葉を重ねる行為。


「なるほどです、それで首輪の形は?」

「それは豪勢な代物で、ダイヤを三つも使ってるんですよ」

「ほうほう、では次に尻尾はです?」

「とっても……世にも珍しい、白斑模様ですね」

「なるほど、でしたら今から資料を作りましょうです」


 互いの暗号を紡ぎ、鵜飼は机から一つのリモコンを取り出す。

 赤のボタンが一つ設置されただけの簡易的なリモコンを押すと、窓ガラス全面へシャッターが下り、自主的に改造した壁は内部に盗聴防止の音波を放つ。無論、シャッターにしても音波にしても外からは把握不可能な細工が施されている。

 これにて相談事務所は陸の孤島へと変貌し、自主的に暴露しない限り内部の出来事が漏洩することはない。

 鵜飼が執務机を離れ、奥の応接セットへと少女を招く。

 頭を大きく揺らし、少女は鵜飼に追随した。


「……はいです。ですので、すぐにでも帰宅して下さいです。切島」


 移動中、鵜飼が誰かへ電話しているのが視界に入ったが、少女は些事だと気にも留めない。

 ガラス製の長机を挟む二つのソファー。幼子の手招きで腰を下せば、質のいい反発が背中に伝わる。もしも半年前であらば、欠伸の一つでもする気になれたのだろうか。

 簡単な感想が脳裏を過るも、直後に血塗られた風景が割り込む。


「ッ……」


 廊下を濡らす赤。両親を濡らす赤。少女から零れる赤。


「大丈夫ですか、依頼人さん?」

「ッ……あ、だ、大丈夫ですよー」


 表情にも現れていたのか。鵜飼に指摘され、少女は感触に乏しい眼帯を覆う自身を自覚する。

 手を離せば、長机へ数滴の汗が滴った。


「何か飲むですか?」

「い、いや。大丈夫だよー……あ、でもせっかくなら頂こうかな」


 一度は拒絶の掌を見せた少女であったが、思考を転換したのか、顎に手を当てると首を縦に振る。

 鵜飼も彼女の提案に上機嫌を浮かべると、台所へ軽やかな調子で足を進めた。

 一人残された少女は、掌を見つめる。

 汗に濡れた不快感が、粘度の高い赤と重なる。透明な色味を徐々に浸食する光景は、さながら掌から出血しているかの如く。

 気温のせいか、それとも空調が応接セットにまで適切に行き届いていないのか、はたまた内面の問題か。赤は掌からセーラー服を伝い、黒を塗り潰す。


「そういえば注文を聞いてなかったですが、紅茶で良かったですか」

「何でもいいよー」

「ではでは、鵜飼特製の紅茶をどうぞです」


 深淵へ沈みゆく思考を引き上げたのは、給仕の真似事をしている幼子の声。

 ティーカップを机の上に置き、鵜飼は自身の側にも紅茶を用意する。

 カップの内側に広がる水面の揺れを眺め、少女は取っ手を摘む。

 せっかくだから味わおう、などという思考は微塵も浮かばず、ただ喉の乾きを癒すためだけの口内へ水分を注ぐ。勢いよくカップを傾けるのは果たしてマナー的にはどうであったか、今の彼女が意識することはない。


「あららー……随分と喉、乾いてたんですね」

「みたい、ですねー」


 彼女も自覚があった訳ではない。

 カップを受け皿へと戻すと、改めて少女は鵜飼と向き直す。


「ではではでは、改めて名前と依頼内容をどうぞです」

「私は無剣裂むつるぎさき。どこにでもいた高校一年生でしたー。今では半年くらい不登校ですけどねー」


 どことなく含まれる自虐の色に鵜飼が微かに眉をひそめるも、無剣は気づく素振りも見せずに紹介を続ける。


「で、不登校の理由なんですがー……両親が殺されました」


 調子を変えず平坦に、無剣は己が身に降りかかった不幸を語る。

 幼子にも関わらず、鵜飼が表情の一つも変えないのはそれだけ聞き慣れた依頼内容、という事実の証左か。


「あれは半年前の、曇り空の日でした。

 剣道の部活を終えて、帰宅した直後でしたかね。違和感を覚えたのは」


 まず最初に感じた違和は、沈黙。

 普段であらば父も帰宅し、母と談笑を交わして晩御飯を突いている時分である。しかしてその日は、窓から零れる明かり一つもなく完全なる静寂に包まれていた。

 不審なものを覚えた無剣であったが、警戒を深めることもなく玄関でチャイムを押す。

 日常を繰り返すように。不穏など、起こり得る訳がないと妄信するように。

 一度、二度、三度。

 繰り返せど繰り返せど、両親が鍵を開ける気配はなし。どころか、玄関へ足を運ぶ音すらも鼓膜を揺さぶりはしない。

 痛いまでの静寂に、世界が静止したかのような錯覚を覚えた無剣は無意識の内に取っ手へ手を伸ばす。鍵のなされている感触は、なかった。


「お父さん……お母さん……?」


 帰宅の挨拶よりも先に、施錠を忘れている両親を不審がる言葉を漏らす。

 玄関にも廊下にも、明かりの類は窺えない。ことここに至れば、如何に平凡な女子高生であろうとも、常ならざる事態を想像してしまうというもの。

 心臓が、喧しいまでに鼓動を鳴らす。

 神経が、地区大会で先鋒を任された時よりも研ぎ澄まされる。

 呼気が、人気の絶えた家中に響き渡る。

 一歩、一歩。細心の注意を払って廊下を歩く。気づけば、肩にかけていた竹刀袋から竹刀を抜き出して脇構えの姿勢を取っていた。

 自らの発する全ての音が喧しく感じる程の過集中に、無剣の呼吸が微かに乱れる。


「その時でしたね、犯人と遭遇したのは」


 突然の不審者。それだけならば少女も遅れを取ることはなかった。

 既に竹刀を抜き放ち、必要となれば即座に神速の一閃を叩き込めるだけの集中力を発揮している。故に平時であらば、多少の不意をつかれたとしても何ら問題視する必要性は皆無。

 なれば、問題を加速させた要因は何か。答えは容易。

 犯人の握るナイフに付着した血痕。そして、その奥の居間に転がる──


「警察でしたか病院でしたか。お母さんは背後から首元を刺されて即死、お父さんも抵抗しましたが、腹部へ五か所の刺突と首を切り裂かれて死亡してたらしいです」


 無論、照明の光もない闇の中では両親の状態など理解しよう訳もない。

 だが湿ったナイフを所持した男と倒れた両親の姿は、高校生の少女に最悪の想像をさせるに充分なものを秘めていた。


「一手も二手も遅れては、さしもの剣道の経験も役立たず。

 精々心臓を狙った刺突を逸らして、一撃を捌くのが精一杯でした」


 長物の売りである間合いの広さが精神的動揺によって無為と化し、相手は相応以上にナイフを使い慣れた手合い。

 乱れた竹刀を簡単に捌くと、不審者はナイフの切先を無剣の右目へと合わせて突き出す。


「それで、右目をですか……」

「そう、ですねー。

 凄い、うん……凄い痛かったです。それで悲鳴を上げたのが幸いしたのでしょうか。相手は咄嗟に玄関へと走り出して、そのまま逃走しました。

 直後に近所の人が集まってきて、皆が通報してくれたお陰で私は一命を取り留めたんですけど、お父さんとお母さんは……」


 警察が淡々と告げた事実と、鏡に映る右目を失った現実が、通報段階で途切れた意識を再度底へ落とし込もうと手ぐすねを引く。受け入れ難い事項を悪夢だと駄々を捏ねて否定するかのように。

 その上、抵抗した際に受けた怪我もそうだが両親が下していた多額の貯金も殆んどが強奪され、立ち上がっていた剣道の海外留学も白紙。


「それからの私は、時間を無為に溶かしていましたね。

 日がな一日。病院のベッドから外の青空を眺めては両親が見舞いに来るのを待ち望み、リハビリにも精が出ずにサボってばかり……怪我が治って退院しても、日がな一日中ぼんやりと……

 悲劇に酔ったヒロインってのは、あぁいうのだと思いますよー」


 肩を竦め、無剣は他人事であるかのような口振りで自虐を重ねる。

 彼女の口振りに不快感を刺激されつつも、鵜飼は慣れた手つきで書類にペンを走らせた。

 実物保存よりもデータ保存が主流の時代だが、幸か不幸か彼女が務める事務所の社長は上に提出する資料の形式を問わない。実質的に彼女が好む形で資料の作成が叶うのだ。

 そして、大まかな予想こそつくものの、最も大事な情報は次に収束される。


「それでですが。今回の依頼は犯人への復讐、っということでよろしいですか?」

「あー、それなんですがー……」


 顎に手を当て、言うべきか言わざるべきか逡巡を数秒。

 何か別の目的があるのかと首を傾げる鵜飼を他所に何度か首を縦に振ると、無剣は意を決して口を開く。


「今回の依頼ですが……私の人生の清算、って名義じゃ駄目ですか?」

「人生の清算……ですか?」

「はい。内容はそのままでいいんですけど、建前はこう、大事じゃないですか」

「ま、資料をちゃんと閲覧するのは上役ですし、多分大丈夫だと思いますですよ」


 この場合の上役とは事務所社長を指し示す言葉ではない。

 そも、彼は書類仕事の全てを鵜飼へ丸投げしているのが実情であり、文句を言う資格などありはしない。

 依頼内容を記載する部分に筆を走らせると、彼女に指摘されるまま人生の清算と書き記す。

 そしてそろそろ無視すべきでない話題へと切り出す。

 相談事務所もまた無償の奉公ではない。


「それでですが、支払いの形式はどのようにしますですか。

 切島相談事務所では一定の前払いが必須ですが」

「……」


 報酬を口に出され、無剣は言葉に窮した。


「無剣さんの方便はともかくとして、こちらも仕事ですので。

 特に殺人の依頼ともなれば、上役の澪音れいん人材派遣会社だけでなくて大本の烏星財団にも話を通して、死体処理や警察への根回しを行ってもらう必要がありますです。

 それが無償で済む、などとはお考えではありませんですね?」

「当然、です……」


 無剣の声が、震える。

 入院費用、葬式費用、家の維持費……

 海外留学の費用も生活費を切り詰めることで捻出したのだ。まさか両親が死亡するなどという事態を想定するはずもなく、諸々の費用で既に遺産は枯渇寸前である。

 殺人依頼をする余裕など、あり得ない。


「一応言っておきますが、強盗犯を逮捕した所で全てのお金が回収出来る訳ではありませんです。むしろ、下手に裁判など起こしてもそちらの予算で余計に出費だけ嵩むというケースも散見されるくらいです。

 当然、殺した所で無い袖は触れませんです」


 月払いという手段もあるにはあるが、と言葉を続けるものの、あまりに安く見積もるつもりもまたない。

 鵜飼の指摘に無剣は首を傾げる。

 質問の意味が理解できない、というジェスチャーではなく、むしろその反対。


「人間の身体って結構なお値段になるらしいじゃないですかー。

 引きニートの内臓だって、相応のお値段にはなりますよね?」

「臓器を売る、と」


 濁った、死んだ魚の如き目を鵜飼が見つめる。

 迷いは見受けられない。自棄の類でこそあるが、故にこそ嘘はない。

 全てが終われば、躊躇いなく一六歳の少女はその身を金策へと駆り出すだろう。

 臓器の相場は記憶にないが、無剣の命を度外視した摘出を行えば確かに依頼料分の回収は叶うはず。


「なるほど、面白い提案です」


 首を縦に振り、しかして。


「ですが、完全後払いというものはウチでは行ってないんですよ」


 端的に鵜飼は拒絶の意を表明した。

 せっかくの依頼、それも振込方法の指定があるだけで好条件を出したつもりであった無剣は僅かに前のめりとなった姿勢で抗議を示す。


「何故ですか。私の身体をバラバラに切り売りすれば、費用は回収出来るでしょう」

「今ある決意が、肝心な時に揺らがないとは限らないのですよ」


 一つ決めた道を貫くことは極めて難しい。

 困難や試練、壁が幾度も立ちはだかることもそうだが、代償を払って到達した時。全てが終わる寸前に支払いをどうしても渋ってしまうもの。

 直前まで無事であれば、どうしても邪心が覗けてしまうのが、心という代物である。


「無為でも無価値でも……自己満足の逆効果でも、私は私の人生に結論を出したいんですよ。

 だから全てが終われば、残った身体は好きにして構わないって話なんですよ。それとも、こんなボロボロの身体じゃ大した金にもなりませんかッ」


 長机に叩きつけられた左手がカップに残った紅茶を揺らす。

 身を乗り出し、事務所を訪れて初めて無剣は感情を剥き出しにする。見開かれた左目が濁りと共に微かな狂気を覗かせる。

 それでも、鵜飼が彼女の提案を受け入れるつもりはない。


「せめて順序が逆であれば、鵜飼は問題ないんですが」

「それは駄目。私の清算がどうなったかすら知らないまま死ぬことは、できない」

「でしたら残念ですが、今回の話は──」


 互いに平行線とあっては、最早どうしようもない。

 鵜飼は腰を上げて食器を片づけようとするも。


「お、彼女が依頼人か。結構なベッピンさんじゃない」

「お、ようやく帰宅しましたですか。切島」


 無剣の背後より姿を見せた少年に、少女もまた振り返る。

 青のショートパンツに丈の短いジャケット、下に紺のインナーを纏った少年。燈に赤ラインを走らせたベレー帽に黒髪を隠し、赤ラインの意匠を被せたマフラーを着用している。

 無剣から見た第一印象としては、不可思議な服装。

 季節外れな高気温へ対応したにしてはマフラーが、本来の気候に合わせたにしてはショートパンツが異質。どっちつかずの服装は、或いはどちらに着くつもりもないという意味か。


「切島……」


 事務所の名と同一のものを冠する少年。

 個人営業であらば社長の苗字を店名に冠することは然程珍しい話ではない。

 その判断を下すには無剣と然程離れない年齢が不思議であるが、それよりなおも幼い鵜飼が事務仕事を働いていることを考慮すれば些細な話である。

 切島と呼ばれた少年は、依頼人の疑問を肯定するように親指で自身を指し示す。


「そう。俺がこの事務所の社長、切島唯之介きりしまゆいのすけだ。服装は助手のセンスだから気にしないでくれ」

「いいセンスだと鵜飼は思ってますですがね」


 自身のセンスを否定されたように感じたのか、鵜飼が頬を膨らまして腕を組む。

 何か運動をしていたのか。無剣の横を通過する寸前、微かに鼻腔をくすぐる汗の臭いに顔を顰める。

 それは鵜飼にも伝わっていたのか、ソファーに腰を下す中で切島へ鋭い視線を送る。


「それじゃあ、細かい話は後から聞くから依頼の話を続けようか」


 尤も、相手が意識しなければ如何なる抗議も無に帰すばかりだが。

 鵜飼もどうせ意味はないと諦観したか、嘆息を一つ零して現状説明を行う。


「はぁ……今は依頼料で揉めてる所ですよ。相手は完全後払いで、臓器を売り払ってなんとかするつもりみたいです。

 ウチではその形式の払い方は取り扱ってないにも関わらず、です」


 既に破談のつもりなのか、鵜飼の言葉は投げやりで、ともすれば依頼人を前にした態度にあるまじき代物である。

 一方で彼女の弁を面白いものを聞いたと切島は顎に手を当て、無剣の目を覗き見た。


「臓器を売って払う、ねぇ……」

「嘘のつもりはないと、何度も言っていますが」


 一瞬怯むと、すぐさま無剣は切島を睨み返す。

 濁った、死んだ魚の如き瞳。だが、その最奥に微かな狂気が覗ける。

 齢一六にあるまじき瞳は、皮肉にも彼女の年齢ではあり得ざる経験がそのように形作らせたものか。

 一度、二度。

 頷き、何かを誰にも聞こえない声量で呟く。


「うん、彼女は裏切らないな。

 いいんじゃないのか、完全後払い」


 これまでのやり取りを帳消しにするかのように、社長は簡単に了承した。


「ッ、本当ですか?!」

「切島ッ。適当に依頼を承諾するとか何の気紛れですか……!」


 切島の言葉に、無剣は声に喜色を混ぜ、鵜飼は鋭利な視線を注いで抗議を示す。

 当人としても適当に判断したつもりはないのだが、説明し難い感覚による部分が多いのか。そう言われてもな、と肩を竦めて飄々とするばかり。


「それに薄利多売っても言うしな、安く売ってその分沢山仕事を貰う訳よ」

「だからって今回の場合は安すぎるですッ。どうせ臓器の話も別にいいとか抜かすつもりでしょうがですッ!!!」

「あ、分かる?」

「分かりたくないですけどねッ」


 臓器の話もいい?

 不穏な言葉に、無剣も視線を切島へ合わせる。

 手持ちの予算をはたいて資金にできるのであらば、彼女もそうしている。だが無い袖が触れぬように、資金は致命的に不足しているのだ。

 それこそ、普段の生活にすら窮する程に。


「臓器はいいって……他に支払う手段なんてありませんがー?」

「それは早合点ってヤツだね。別にいきなり内臓を売ることはない。

 ……まぁ、今言うことでもないかな。どうせ何を売るにしても否定しないだろうし、君の場合は」


 切島の指摘はご尤も。

 無剣としては、今回の依頼は最早人生を清算するためだけの所業。依頼の完遂を見届ける前に死ぬことは論外だが、犯人の屍を一目さえすれば後はどうなろうとも構わない。

 そんな彼女に対して、他の支払い手段があると少年は嘯く。

 或いは今の無剣のように、契約を軽んじる連中へ罰を下す悪魔の手招きか。

 何れにせよ、踏み倒すつもりなど毛頭ないのだから、後から手段を提示されても問題はない。首を縦に振ると、了承の意を示す。

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