第九話

 きっかけは今年の五月。

 長瀬くんと同じクラスになって一か月ほど経った日のことだ。

 きっと彼は覚えていない、出来事と呼ぶにはあまりにも小さくて取るに足らない、でも私にとっては忘れられないことがあった。


 放課後うっかりと教室の机に本を忘れ、取りに戻ったときのことだ。


 教室には長瀬くんを含む数名の男子が、どういう流れかわからないけれど、クラスの女子の品評をしているようだった。


 女子がいないからって言いたい放題。

 やれあいつは胸がでかいだの、やれあいつは顔はいいけど足が太いだの本当に好き勝手言っていた。

 といっても、そんな中で長瀬くんは場が白けない程度に話を合わせつつ、積極的には参加はしていないようだった。意外とそういうのってわかるものだ。


 ーー入りづらい。


 ここで私が教室に入っていくわけにもいかず、立ち尽くしたまま機会を伺っていた。するとある男子が言い出した。


「じゃあ次は……綾瀬はどう?」


 心臓が跳ねる。きっと碌なこと言われない。……気にならなくはないけど、聞きたくない。


「綾瀬はないわー。いっつも本ばっか読んでて暗いし」

「友達も少なそうだし、性格も悪いんじゃね?」

「でもああいうのに限って、外にコミュニティ持ってたりするんだよな。ほら、オタサーとか」

「オタサーの姫かよ!」

「意外と男囲ってたりするかもな」

「なんかエロくね?」


 だ、男子って〜……!

 本当何考えてるんだろう! 私に対してとっても失礼だ。


 ーーと考える一方で、まぁ仕方ないかと思う自分もいた。だって友達が少ないのは言われてる通りだから。クラスですら誰かと話すことはあまりないから。特に男子は。


 他の男子もそれに乗っかってゲラゲラと笑いながら囃し立てていた。

 私はそれを『そっかー、みんなにもそういうふうに見えてるんだな。まぁ……どう見られてもいいけどね。――関係ないし』とか少し諦念のような気持ちを抱きながら聞いていた。


 その時だった。特別大きいわけではないのに、なぜか耳にスッと入ってくる長瀬くんの声が響いた。


「綾瀬は良いやつだよ。ちょっと人見知りなところあるから誤解されやすいかもしれないけど、優しいやつなんだよ。だからそんなこと言うな」


 これまで終始愛想笑いを浮かべていた彼が、初めてきっぱりと明確に反論した。

 彼は「何? 綾瀬と仲良かったっけ?」とか聞かれていたが、「いや、そういうわけじゃないけどちょっとな」と適当にはぐらかしていた。

 彼の突然の反旗に面を食らったためか、遠慮したためかわからないけれど、私の話はそれで流れ、次の人の品評がまた始まった。


 本当にたったそれだけのことだ。

 多分彼にとっては気まぐれで、もしかしたら傘の恩義に報いようとしてくれた、ただそれだけのこと。


 だが私の心はその瞬間になぜかどうしようもないくらいにやられてしまったらしい。

 我ながらチョロい。今時、少女漫画の主人公でももうちょっとしぶといと思う。

 頭ではそんなはずがないと否定したいけれど、全然引いてくれない顔の熱と心臓の鼓動が、何よりも雄弁にそのことを肯定しているようで……。

 

 結局、その日は教室に入ることを諦め、本を机に忘れたまま家に帰ることにした。

 ――もうなんというか、無理だった。

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