第68話 喧嘩

「……お父さん。青野さんをあまり困らせたくないから、一つだけ教えてあげる。私、青野さんと結婚する」


 ほえ?

 希星の唐突な宣言に俺は動揺してしまうが、希星の両親も流石に驚いた様子。


「なっ!? ど、どういうことだ!?」

「希星!? き、急に結婚だなんて……!?」

「何もおかしなことはないでしょう? 私は十六歳で、法律で結婚が認められている年齢。そして、青野さんは二十七歳の社会人で、一人前に稼ぎがある。今から子供を作って育てる……とまでいくとまだ経済的に不安だけど、私と結婚して一緒に暮らしていくことなら問題なくできる。

 だから……今までお世話になりました。ここまで育ててくれたことには感謝します。さようなら。もう帰ってください」


 希星の言葉は、お礼でさえも酷く冷たい。俺の想像よりもずっと、この両親は希星の心に深い傷を作っていたようだ。


「き、希星! そんなバカな話があるか! まだ十六歳で結婚だなんて!」

「バカな話などしていません。さっきも言いましたが、十六歳は法律で結婚が認められています。法律で認められている以上、十六歳が結婚することは一般的に見ても正しいことです。お父さんが意見する余地など何もないと考えます」


 父親が顔を歪ませる。希星の言っていることはかなりの暴論なはずなのに……この人は、何故こんなにも狼狽えているのだろうか。俺だったら、至極冷静に「そんなわけあるか」と一蹴するだろうに。


「ふ、ふざけるな!」

「ふざけていません。本気です。私は青野さんと結婚し、家を出ます」

「そんなことが許されると思っているのか!?」

「逆に許されない理由はなんですか? 私と青野さんの結婚は法律で認められています。青野さんには一人前の稼ぎもあります。

 あとは……確かに、両親の同意がなければ結婚はできません。でも、お父さんとお母さんが私たちの結婚に反対する理由はなんですか? まさか、きちんとした正しい理由もなしに、ただの感情論で私たちの結婚に反対するなんて言いませんよね?」


 希星の声は冷たく、鋭い。その言葉で両親が動揺し、苦しんでいる。ただ、その一方で、希星自身も自分の言葉で自分を傷つけているように感じる。

 俺が見てきた限り、希星は誰かと言い争うことも、誰かを傷つけることも好まない。そんな子が言葉で相手を攻めるのは、相手が感じるのと同じ痛みを自分も感じることになるだろう。


「希星……っ。悪い男にそそのかされて……っ」

「お父さんは青野さんの何を知っているんですか? 何も知らず、何も知ろうとせず、勝手に悪い男だなんて決めつけないで。青野さんは良い人です。私は一生青野さんと一緒に生きていきます」

「そんな世迷い言を聞きに来たんじゃない! 希星! お前はその男のせいでおかしくなっている! 帰るぞ!」


 父親が近づいて来て、希星に向かって手を伸ばす。

 希星は当然それを避ける。また、俺もただ見ているだけではいられないので、父親を食い止めるように間に入った。


「私は帰らない! もう放っておいて! 私に関わらないで!」

「希星! 冷静になってちゃんと考えろ!」

「私は考えてる! そっちの家にいたときより、よほど色んなことを考えて、感じて、私は私の人生を生きてる! 邪魔をしないで!」


 父親がなおも希星に近づこうとする。俺は必死でそれを食い止める。

 必死になっている男一人を食い止めるというのはかなりの重労働だな……っ。もうちょっと体を鍛えていれば良かったっ。

 俺と希星の父親との押し合いがしばらく続く。正直めちゃくちゃ疲れる。でも、俺だって引くわけにはいかない。希星を支援する者として、あるいはただの男として、意地があるのだ。


「お前はなんなんだ!」

「希星の旦那ですよ! 未来のですが!」


 おっと、勢い余ってそんなことを口走っちまった。まぁいいさ。大人の世界では嘘も方便。もしかしたら嘘じゃなくなるかもしれないし、問題はない。


「結婚なんてまだ早い!」

「それは私も同感ですよ! でも、希星の望みなので!」

「お前みたいな胡散臭い男に娘はやれん!」

「何も知らない相手を胡散臭いと感じるのは当然でしょう! せめて話くらい聞いてくださいよ!」

「お前の話など聞かん!」

「それじゃあ話が進まないんですよ! いい加減にしてください! それが、娘に見せる父親の姿ですか!?」


 どこか大人げない問答をまたしばし続けて、先に力つきたのは希星の父親だった。……若さの勝利、ということかな。それにしては随分と情けない攻防だったが。


「け、警察を呼ぶぞ……」


 息も絶え絶え、父親が言った。


「そ、それは、止めてください……。いや、俺は潔白なんで、別に呼ばれたって構いやしませんが……ただの親子喧嘩で警察なんて、みっともないですよ、本当にっ」


 睨み合う俺と希星の父。

 そこで、希星の母親がようやく割って入ってくる。


「ここまでにしましょう。大の大人が、いつまでも人前で言い争うものじゃないでしょ。お父さん、今日はもう諦めなさい」

「……ふんっ。私は結婚なんて認めないからなっ」


 二人が連れ立って去っていく。父親の方は俺を憎々しげに睨み、母親の方も冷えた視線を送ってきたが、ひとまず脅威は去った。

 その姿が見えなくなってから、俺はようやく緊張から解放される。


「はぁ……。疲れた。取っ組み合いの喧嘩なんていつ以来だよ……。絶対筋肉痛なるやつだろ……」


 ともあれ、筋肉痛程度で済むなら安いもの。希星を守れたのだから。


「青野さん、ごめんなさい。お父さんが暴走してしまって……。怪我はありませんか?」

「怪我はないよ。平気。希星は特に怪我はないよな?」

「はい……。大丈夫です」

「なら良かった」

「……庇ってくださって、ありがとうございます。青野さんのおかげで、無理矢理家に連れていかれることもありませんでした」

「これくらいはお安いご用だ。まぁ、希星のお父さんが、筋骨隆々の大男とかじゃなくて良かったよ」

「そんな人だったら、青野さんは逃げてましたか?」

「逃げはしないさ。でも、追い返せた保証はない」

「正直者ですね。どんな相手でも必ず守ってみせる、くらい言えないんですか?」

「俺は過大な夢は語らないんだ」

「……私、日本一のイラストレーターになれると思いますか?」

「いや、それはちょっと難しいと思うぞ?」

「もう! そんな現実的なこと言わなくてもいいじゃないですか!」


 希星が俺の肩をペシンと軽く叩く。ただ、怒っているのではなく、じゃれついてきているだけだな。


「……日本一は無理でも、誰かにとって一番大事なイラストレーターには、きっとなれる。だから、頑張って」

「その誰かって、誰ですか?」

「さて、ね」

「……っていうか……青野さん、さっきポロッと言いましたよね。わ、私の、未来の旦那、って……」


 希星の顔が瞬時に真っ赤に染まる。その様子を見ると俺も恥ずかしくなるな……。


「いや、まぁ、ええっと……」

「誤魔化したって無駄ですからね。私、しっかりと聞きました。つまり、青野さんも、そういうつもりでいるってことですよね? ずっとはぐらかされて来てますけど、胸の内では、そういうことを考えているってことですよね?」

「な、何を言っているのやら……?」

「さっきの言葉、取り消せませんよ。そんなのは許しません。お父さんを追い払うために、私もちょっと行きすぎたことを言ってしまいましたけど、本当のことにします。絶対にっ」


 希星が俺を強い瞳で見つめてくる。相手はまだ女子高生なのに、俺はその瞳に気圧されてしまった。

 結婚なんて考えるのはまだ先の話……。そう思っていたのだけれど、有無を言わさぬ雰囲気がある。

 今から結婚だなんてことはもちろん無理だが、もしかすると……俺はもう、どうにも取り返しのつかない地点まで来ているのかもしれない、という予感があった。

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