第66話 からかう

 ちょっとした未遂事件が起きた翌日、日曜日。

 午前十時頃に、希星のイラストが完成した。


「ふぁあ……ようやく、ちゃんとしたイラストが一枚完成しました……。時間かけ過ぎですけど、とにかくどうにかなりました……」


 希星が両手を挙げて大きく伸びをする。習作は何枚か描いているが、全身全霊を込めて一枚のイラストを描き上げるのはこれが初めて。デジタルにおいて初めてというだけではなく、アナログを含めても、全てを出し切ってイラストを描き上げるのは初めてのはずだ。

 確かに一枚のイラストを描くだけにしては時間がかかりすぎたかもしれない。それでも、最初に一枚を描き上げたときの達成感はひとしおだろう。


「お疲れさま。良い作品になったじゃないか。希星、よく頑張ったよ」


 素直に希星を褒める。俺と交流を始めて以来、希星は本当に頑張ってイラストを描き続けた。課題は色々あるとしても、その集大成が一枚完成したことは希星にとっての前進だ。


「えへへ。青野さん、もっとご褒美くれてもいいんですよ? ……ハグとか?」

「それは昨日やっただろうが。今日はとりあえず、こんなもんか?」


 希星の頭を撫でる。男からするとこんなことをされて嬉しいのかよくわからないが、希星は嬉しそうに目を細めて微笑みを浮かべる。

 なお、昨日はハグの後に若干機嫌を損ねてしまった希星だが、今は全くそんな雰囲気はない。希星としても、俺の判断が間違ってはいないと理解しているのだろう。

 ちなみに、今は俺と希星の二人しかいない。赤嶺と詩遊はまた二人でお出かけ中だ。

 俺が手を離すと、希星はやはり少し不満そうな顔をする。


「はぁ……すごく頑張ったのに、ご褒美はこれだけなんですね。もっと色々欲しいんですけど?」

「……握手をしてやろうか?」

「握手というか、手を繋いで散歩でもしませんか?」

「それは、ちょっと」

「むぅ。じゃあ、ハグはしなくていいので、手を繋いで隣り合って座るとかはどうですか? まさか、たったそれだけでやらしい気持ちになるほど、青野さんはウブじゃないですよね?」

「……また嫌な言い方をしやがって」


 最初に一緒に食事をしたときのことを思い出す。あのときも、こんな感じで軽い挑発をされたのだったっけ。


「では、失礼します」


 希星が立ち上がり、俺の隣に座布団を敷いて座る。手を重ねてきて、さらに、頭を俺の肩に乗せてきた。シャンプーの香りがほんのりと鼻腔をくすぐる。


「……おい、話が違うぞ?」

「何を言ってるんですか? 肩に頭を乗せないなんて話はしていませんよ?」

「屁理屈を……」

「青野さん、これだけのことでいやらしい気持ちになっちゃうんですか?」

「……むかつく言い方しやがって」


 希星はクスクスと愉快そうに笑う。引き離すべきだとも思うが、この程度で動揺しているとも思われたくない。実のところ年甲斐もなく動揺してはいるのだが、ウブだなんだとからかわれるのも気に入らない。

 俺は黙って石像と化す。希星が愛おしそうに俺の手を撫でてきても、無反応を通す。


「……青野さん」

「なんだよ」

「私は、ウブです」

「……だから?」

「だから……たったこれだけで、そういう気分になってしまうのは、許してくださいね?」

「……何を許せって言うんだよ」

「直接は何もしません。ただ……この姿勢で、ちょっとだけ、やらしい想像をさせてください」

「あのなぁ……」


 近すぎて希星の表情はよく見えない。ただ……吐き出す吐息が、妙に艶っぽいような、そんな気はした。本当かどうかはわからないが。


「青野さん……」

「……今度はなんだ?」

「もぅ、えっちぃ」

「なにがだ!?」

「あ、すみません。妄想が声に出ちゃいました」


 いいいいったい、何を妄想してやがる!?

 動揺する俺の気配を感じ取り、希星がまたクスクスと笑う。完璧に俺をからかって遊んでやがる。

 全く、ウブなクセに男を弄び過ぎだ。本当に未経験かよ、と疑いたくなっちまうぞ。


「大人をからかうんじゃない」

「からかってますけど、別にからかってなんかいませんからね」

「矛盾してるぞ」

「わかってるくせに。知らないフリばかりして、ずるいです」

「……悪かったな」

「許しません。一生かけて償ってもらいますから」

「おいおい……」

「私、本気ですからね」

「……そうかい」


 しばし、むず痒くなるようなやり取りを続ける。

 希星は確かに頑張ったし、ご褒美としてこういう時間を与えるのも構わないだろう。……なんて、これは言い訳だよな。俺だって、今の時間が心地良いと思っているから、希星をこのままにしているのだ。

 それにしても、俺は希星に対してかなり心を許している部分があるが、赤嶺のことがどうでもよくなったわけでもないんだよな。

 赤嶺には赤嶺の魅力がある。希星のようにわかりやすく甘えてくることはないが、赤嶺と一緒にいる時間には、また別の心地良さがある。情熱的な恋ではない。でも、あるいは恋よりも大事な愛は生まれるだろう。パートナーとして一緒に生きられるなら、本当に幸せなことだ。


「青野さん」

「うん?」

「もし、答えられないならそれでいいです。ただ、一つだけ訊かせてください」

「なんだ?」

「私と赤嶺さん、どっちと一緒にいたいですか?」

「……その質問には答えられないな。どっちと一緒にいる時間も、俺は好きだよ」

「そうですか……。その答えは少し不満ですけど、少なくとも、赤嶺さんに負けてないっていうことで、納得しておきます」

「……そうしてくれ」


 希星が俺の手をぎゅっと握りしめる。絶対に離さないと言わんばかりに力強くて、俺としてはもちろん、嬉しくないわけもなかった。

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