第65話 瀕死
正午頃には、詩遊も含めて四人で昼食を摂った。俺と詩遊の間にはやはりどこかぎこちない空気が流れてしまったが、それ以外は楽しい時間になった。
基本的に一人で過ごす時間の長かった俺からすると、賑やかな食卓はとても感慨深い。この関係がいつまでも続くわけじゃないとはわかっているが、だからこそ、今を大切にしたいと思った。
午後からも希星は絵を描き、俺もそれに倣う。一方、赤嶺は詩遊と共にカラオケへ赴いた。二人とも歌うのが好きだし、目標は違ってもお互いに良い刺激になっているようだ。
俺は聴いたことがないが、詩遊は歌が上手いらしい。赤嶺曰く、身内贔屓もあるかもしれないが、歌に関しては詩遊ならアイドルになるのも夢じゃないだろう、とのこと。
ともあれ、赤嶺と詩遊がいなくなると、また俺と希星は二人きりになる。だからって何もするつもりはないのだけれど、密室にずっと二人きりというのはやはり妙な気分になるものだ。下手すると本気で一線を越えてしまいそうになるので、自制するのに苦労した。
二人で絵を描き続けて、時刻は午後四時を回る。そこで、希星のスマホがメッセージを受信。
「あ、火鈴、クリスマスコンテスト用のイラストができたそうです」
「ほー、写真とかついてる?」
「はい。あります。……わぁ、素敵なイラストです」
「どんなん?」
希星がスマホに表示したすずしぐれのイラストを見せてくれる。
「へぇ……。サンタにお礼を用意する子供たちか……。すごく温かいイラストだな。上手いだけじゃなくて、心を伝えてくる表現力がある」
「ですね……。うぅ……年季が違うとはいえ、私のよりずっと良いイラストです……」
「仕方ないさ。希星は天才じゃない。一歩一歩上手くなるしかない」
「わかってますけどね……。同い年でこうも差があると悔しいのは悔しいです……」
「その悔しさも、上手くなるためには必要さ」
「はい……。ちなみに、私のイラストってどうですか? 人前に出しても悪くない程度にはなってますか?」
希星が描き掛けのイラストを見せてくれる。
希星が描いているのは、ストレートにサンタ衣装を着てプレゼントを運ぶ女の子で、背景にぼんやりと夜景が見えている。イラストとしてはきちんと描けているし、とても可愛らしい。
「十分だと思うよ。造形に変な歪みはないし、服の質感や陰影も上手くできてる」
「そうですか……。それならいいですけど……。はぁ……。イラストは技術を突き詰めればいいというわけじゃなくても、技術も表現力もある人を見ると凹みます……」
「……気持ちはわかるさ。俺だって、長いこと自分の実力不足には悩まされ続けてきたもんさ。正直言って、イラストを描き続ける限り、ずっとこの悩みはつきまとう。ずっと苦しいし、ずっと悔しい」
「……ですよね。本気で絵に取り組むなら、この苦しさと悔しさに向き合い続けないといけないんですね。一生涯拷問にかけられ続けるようなもんです……」
「だな。でも、頑張って耐えるしかない」
「……ですね。はぁ……。青野さん、何かいい感じに慰めてくれませんか? 凹んで作業が進みません……」
希星の何かを期待する目。
「……そういうの、最終的には自分でどうにかしないといけないんだけどなぁ」
「わかってますよぅ。でも、今くらいいいじゃないですか。甘えさせてください」
「ちなみに、どういう風に甘えたいわけ?」
「わたしがその胸に飛び込むので、ぎゅっとハグしてくれれば十分です」
「却下だ」
「なんでですか!? 一度はハグもしてくれたじゃないですか! 本当なら毎日ハグだけでもしてほしいんですよ!? それを我慢して我慢して我慢して! どうにかこうにか必死で抑えているです! もっと私を甘やかしてください!」
「あのなぁ……。そういうこと言われると……。ってか、俺だって色々と……」
「色々と何ですか? 我慢しているんですか? ……もう、別にいいんじゃないですか? 我慢とかしなくても」
希星が熱っぽい視線を向けてくる。そんな風に見つめられると、こちらとしても本当に自制が難しい。
思わず抱きしめたくなって、だけどそれはやはりダメなのだと自分に言い聞かせる。
相手はまだ高校生。将来とかをきちんと考えず、その場の衝動で動いてしまう危うい年頃。その言葉にそそのかされてはいけない。
俺は目を逸らし、なるべく素っ気なく言う。
「……たまに、ハグだけならいいかもな」
俺の意志は薄弱だ。
「では早速!」
希星が立ち上がり、俺にも起立を促す。
本当にこれで良かったのか迷い、頭を掻きながら立ち上がる。
希星は腕を広げ、満面の笑みで俺に乞う。
「青野さんから来てほしいです。難しいことは考えず、ただ、ぎゅぅってしてください」
「……余計なことはするなよ?」
「大丈夫です。ほら、早く来てください」
仕方なく、という風を装い、俺は希星をそっと抱きしめる。
部屋着のため、前回と違って希星の感触がより伝わってくる。温もりも、柔らかさも、匂いも。
「もっと、強くしてほしいです」
お手本でも見せるように、希星が俺を強く抱きしめる。さらに、顔を俺の鎖骨辺りに押しつけて、すぅすぅと深く呼吸をする。
ただ抱きしめているだけなのに、健全な行為のはずなのに、とてもいやらしい気分にもなってしまう。
自分をどうにかこうにか押さえ込みつつ、希星の体を強く抱きしめる。じわりと伝わる体温が愛おしい。そうだった。人って、温かいんだよな。
抱きしめるだけでいいのに、思わずそのさらさらの黒髪にも触れてしまう。髪に触れていたら、いつの間にか希星の後頭部を撫でていた。希星はくすぐったそうに笑って、一層強く俺に抱きついてくる。
「……本当に、我慢しないといけないんですかね? こんなに、もっと深く触れあいたくて、繋がりたいと思っているのに……」
希星が緩やかに誘惑してくる。思わず全てがどうでもよくなってしまいそう。
しかし、待て。このまま突き進んではいけない。そう思うのに……頭を撫でるのと反対の手が、少しずつ下に降りていく。背中にあったのが、腰に移り、そして……。
希星が一瞬だけ体を強ばらせる。息を飲み、それからか細い声で言う。
「……いいですよ? 私、青野さんとなら、構いません。いえ、構いませんなんて、嘘です。青野さんと……全てを晒して、触れあいたいです」
蠱惑的で、全ての理性が吹っ飛びそうな言葉。
その導きに従ってしまいそうで……。
「……これ以上はダメだ」
瀕死の自制心を総動員し、どうにかこうにか下がりすぎた手を引っ込める。危なかった。取り返しのつかない状況になるところだった。
俺は希星を押し返す。希星は心底不満そうに俺を睨んできた。
「なんでそこで止めちゃうんですか。我慢する意味なんて本当にあるんですか?」
「あるよ。大ありだ。俺たちはそういうことをしちゃダメなんだよ」
「……もう。いい雰囲気だったのに。その気にさせるだけさせておあずけなんて……」
「悪い。俺もちょっとどうかしてた」
「あーあ。もういいです。青野さんのバカ。ヘタレ。意気地なし」
気星がそっぽ向いて、デスクチェアに戻る。それから無言で作業を再開した。
その様子に罪悪感を覚えつつ、どうにか自制できて良かったとほっとする。
俺としても、たまに思うことはある。本当に我慢する必要はあるのか、なんて。
でも……やっぱり、希星はまだ十六歳で、俺と対等な関係なんて築けてはいない。未熟さにつけこんでこちらに好意を持たせている、と感じる部分もあって、それで一線を越えるのはいけないと思う。
少なくとも、あと二年。二年で希星が大人になるわけじゃないが、二年間は様子を見るべきだ。
希星がどう変わっていくのか。成長しても、まだ俺に好意を向けてくれるのか。
全ては、それからだよな……。
密室で希星に必要以上に接触するのは止めよう。そう決めて、俺もイラストを描く作業を再開した。
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