第63話 喧嘩

 日曜日。

 希星は今日も友達と勉強会をしていて、俺は一人で部屋に籠もってイラストを描いている。

 希星と交流し始める前は一人が普通だったのだけれど、今はどこか部屋の中を殺風景にも感じてしまう。暇さえあれば希星がこちらに乗り込んでくるし、赤嶺とつるんでいる時間も長いので、誰かと一緒にいることを普通だと感じつつあるようだ。

 これは良い変化なのか、そうでもないのか……。それはまだ判然としない。

 ともあれ、今日、希星とは夜にしか会わないし、赤嶺はどうやら詩遊と出かけているらしい。直接会って何かと話をしているそうだ。

 そういうわけで、今日は一日自分の好きなように過ごせばいい。そう思っていたのだが……。


 午前十時過ぎ。玄関のドアを控えめにノックする音が響く。普通の客ならノックではなくてチャイムを鳴らすはずなので、ノックの主は希星だと察する。

 しかし、勉強会をしているはずの希星が何故ここに? 不思議に思いながら、俺は玄関を開ける。そこには、予想通り希星の姿。ただ、いつもの元気な笑顔ではなく、俯いて物悲しそうにしている。


「……どうした? 何かあったのか?」

「その……」

 

 希星は言いにくそうにしている。何かあったのは確かだろう。


「とりあえず入りな」

「はい……。ありがとうございます」


 希星が緩慢な動作で中に入ってくる。こんなにあからさまに元気がないのは、俺が希星を意識して見るようになってから初めてだ。

 奥に通し、希星にはデスクチェアに座ってもらう。俺はベッドに腰掛けた。


「それで、どうしたんだ? 勉強会からあえて抜け出してくるなんて、よほど嫌なことでもあったのか?」

「嫌なことと言いますか……少し、友達と喧嘩をしました」

「へぇ? 喧嘩? あの二人と?」

「はい……」


 おそらくとても仲が良いだろうあの二人と喧嘩するなら、きっと俺絡みだろうな。


「そっか。何か嫌なこと言われたか?」

「そうですね……」

「いったいどんな?」

「すごく簡単に言うと、『青野さんみたいに冷めた人は私には似合わないから、必要以上に近づかない方がいい』というようなことです」

「そうか……。希星に直接言うとは思わなかった。けど、確かに昨日話した感じ、俺はあの二人にはあまり気に入られなかったみたいだ。社会人と高校生で感性の違いはあるものだし、仕方ない部分もある。……俺はそう思っているけど、希星としては納得できない何かがあったか?」


 希星が小さく頷く。


「……私、青野さんは青野さんであってくれればいいと思っているんです。同級生の男の子と同じような形で私に接しようとしてくれなくて、全然構わないんです。


 青野さんはもう大人で、私はまだ子供です。私と対等な関係なんて結べるわけもありません。どうしたって、青野さんが私に対して保護者のような感覚を覚えてしまうのも無理はないとわかっています。


 それに、青野さんが十以上も離れた相手に夢中になってたら、それこそ変な話ですよね。そういう青野さんだったら、私はむしろ近づこうとしなかったと思います。


 でも、二人は、私にはそんな人と一緒にいるべきじゃないと譲りません。


 言葉だけで私を諭そうとするのなら、それも仕方ないかなと思いました。今はダメでも、少しずつ理解してもらえるようになればいいのかなって。


 それが……急に、山吹君たちとも一緒に勉強しようって話になってしまって……」

「山吹君……? ああ、一緒にクリスマスパーティーの買い物をした?」

「はい。その山吹君です。それで、山吹君たちが来ること自体が嫌だったわけではありません。でも、山吹君たちが来てから、里香たちがしきりに私と山吹君をくっつけようとしてきて……。勉強を教えあわせるとか、二人きりにするとか……。


 山吹君が、私を意識してくれているというのは、何となくわかっていました。里香たちからすると、山吹君の方が私に合っているって言いたかったんだと思います。


 だけど、私は山吹君のことを特別に感じてはいなくて、無理矢理くっつけられても困るだけでした。


 だから……強引に引き上げてきてしまいました。そのとき、少し言い合いもあって……喧嘩のような形になってしまって……。


 あと、勉強会は里香の家でしていたのですが、家を出たとき、最後に山吹君が追いかけてきました。色々と謝ってくれて、自分たちは引き上げるから戻ってくれとも言われましたけど、どうしても戻る気になれなくて。


 ……結局、青野さんのことを悪く言われたのと、無理矢理山吹君とくっつけようとしてきたことで、私は耐えられなくなってしまいました。


 ちょっと、狭量すぎますかね? もっと余裕のある大人だったら、里香と唯乃が何を言ってきても、何を私にさせようとしてきても、受け流せたんでしょうね。


 私、本当にまだまだ子供です……。自分が子供過ぎることにも嫌気が差します……」


 希星が俯いて深い溜息を吐く。

 誰かが特別に悪いというわけではないのだろう。桃瀬と紫村はただ希星の幸せを願っているだけ。悪意はない。

 けど、悪意がないからこそ、二人は簡単には譲ろうとしないのだろうな。


「……桃瀬さんと紫村さんの気持ちも、わからないではないよ。おっさんと女子高生があまり一緒にいるのは好ましいことじゃない」


 俺の言葉で、希星が寂しそうな顔をする。俺には希星を慰めるためだけの言葉は言えないが、先を続ける。


「たださ、その人にとって何が幸せかなんて、他人が決められることじゃないんだよな。ある人の幸せが、別の人には全く幸せじゃないことも珍しくない。


 一人一人皆違うからその個性を尊重しよう……。そんな話がよく言われるようになっていても、根の深い部分でそれを理解している人って少ないんだ。


 人はこうあるべきだ、幸せとはこうだ、良い人生とはこうだ……そんな思いこみが、誰の心にもある。俺だってきっと持っているし、希星にもあると思う。


 大事なのは、自分はそういう思いこみの中で生きているんだって、自覚することだと思う。自分はこう信じているけど、他人は同じことを信じていないかもしれない。それをちゃんと心に留めておければ、幸せの押しつけなんてことも減ってくると思う。


 ただ、自分が思いこみの中に生きているってこと、なかなか気づけないもんなんだよな。生きていれば色んな刷り込みを受けることはたくさんあって、あまりにも自然に自分の一部になっているから、それが思いこみだって気づけない。一生気づかない人だっている。


 桃瀬さんや紫村さんもまだ十六歳の高校生。自分の信じているものを曲げられなくても仕方ない。


 でも、いずれは自分たちの思い込みに気づくべきでもあって、今、こうして希星と喧嘩別れのようになってしまっているのは、ある意味良い機会なんじゃないかな?


 自分は間違っているのかもしれないって気づくのは、誰かと本気でぶつかり合ったときだ。


 だからさ、俺は希星が今ここにいることは間違いではないと思う。ここでちゃんと喧嘩して、友達だって別人間だってこととか、信じているものは別なんだってこととか、お互いに痛感すればいい。


 そして……別々の人間だとしても、友達でいることはできるって気づいてくれればいい。こんなことを繰り返したら、希星も桃瀬さんたちも、子供じゃなくなる日が来るんじゃないかな。


 ……とまぁ、俺みたいなおっさんは、そんなことを思うよ」


 俺が言い終えると、希星は緊張の解けた笑みを見せてくれる。


「……そうですね。こういうことを繰り返して、子供じゃなくなっていくんでしょうね。そう言えば赤嶺さんも言ってました。一般に人が十年かけて成長する分は、十年かけないと成長できないんだ、って」

「うん。そういうことだ。希星はまだまだこれからも、たくさんの辛い経験をしていくと思う。まぁ、これは俺も同じか……。俺のことはひとまず置いといて、辛いことを経験して、変わっていくんだよ。


 希星は、気持ちが落ちついたら、また桃瀬さんたちと話してみるといい。大変だし面倒でもあるけどさ。


 万一本当に仲違いするようなことがあっても……それはそれで構わないさ。仲の良い友達と絶縁することだって、たまにはあるもんだ」

「……流石に、絶縁まで行くと簡単には割り切れませんよ」


 希星が苦笑する。高校生にとっては友達はとても大事だし、最後のは理解しがたいことかもしれないな。

 社会人になって数年すると、案外友達いなくても平気じゃね? と思う人は増えるはずなんだがね。


「ま、希星は希星のやりたいようにやってくれ。必要ならサポートはする」

「ありがとうございます。青野さんがいてくださると心強いです」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。それで、どうする? 早速桃瀬さんたちに電話してみる?」

「いえ……。しばらく電話はしません。私だって怒ってるんですよ? 私の気持ちを無視して勝手なことを言われたりされたりして。そんなすぐに気持ちは切り替わりません」

「そっか。なら、しばらく勉強していくか?」

「そうですね。明日からもう試験ですし、流石にちゃんとしないとまずいです」

「わかった。あ、俺がいると集中できないなら……」

「何をバカなことを言おうとしているんですか? まさか出て行くとか言いませんよね?」

「……なんでもないよ」


 希星がふふんと得意げな笑み。すっかり希星のペースに巻き込まれるクセがついている気がするなぁ……。


「青野さんはイラストでも描いていてください。私は勉強を再開します」

「わかった。そうするよ」


 そして、俺はイラストを描き、希星は勉強をする。

 ほとんど言葉は交わさない時間だったけれど、ただ相手がそこにいるだけで心地良いというのも確かで。

 こんな時間なら、この先ずっと続いてもいいのかもしれないな、なんてことも考えてしまった。

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