第56話 将来
その日の夜、午後九時過ぎ。
宣言通りに希星は俺の部屋に来て熱心にイラストの練習に励んでいる。赤嶺は既に帰宅ているので、俺と希星の二人きりだ。
こんな夜中におっさんと女子高生が二人きりというのは、やはり世間体が宜しくない。本当なら、俺は希星を残して外出していた方がいいのだろう。しかし、俺が出て行こうとすると希星が泣きそうな顔をするので、俺は踏ん切りがつかず、同じ部屋に居座ることになった。
そのうち本当に一線を越えてしまいそうで心配なのだが、詩遊からは、「何かあれば本当にすぐにわかります。そのときは本気で通報するので覚悟してください」と念押しされている。詩遊の存在にある意味感謝だ。
いっそ、希星がいる間はずっと赤嶺とビデオ通話をしておくなどの対策をとるのもいいのだろうな。今のところはまだ大丈夫だからそこまではしないが、いざとなれば赤嶺に協力を依頼しよう。
「青野さん、すごく初歩的なことなんですけど、線画の時はいい感じなのに、色を塗ると顔の印象が変わって変な感じがする、っていうことありませんか?」
希星から問われて、俺は自分の手を止める。
「ああ、それはよくあることだ。むしろ気をつけないと毎回そうかも」
「何か対策ってありませんか? 色を塗ってから修正するのって結構大変なんですよね」
「すごくシンプルな話だが、線画の段階で軽くグレーで塗りつぶしておくといい」
「それだけでいいんですか? 本当にシンプルですね」
「線画だけだと、人の目は線を見てしまう。でも、グレーに塗りつぶすだけで、線じゃなくて面を見るようになる。そうすると、色を付けた時の違和感はだいぶ軽減されるはずだ」
「なるほどー。そうなんですね。やってみます」
希星が微笑んで、それからじっと俺を見つめてくる。
「……なんだ?」
「……わかってるくせに」
「言葉にしてくれなきゃわからん男だよ、俺は」
「言葉にしたらダメだってわかってるから、見つめているんです」
「……そうかい。あんまりそんなことしてると、妹さんにどやされるぞ」
「またそうやって詩遊を言い訳にして逃げるんですから。青野さんはずるいです」
「大人になるってのは、ちょっとしたずるさを身につけるってことでもあるんだ」
「そーですか。まぁ、いいです。大人の事情って奴ですよね。もうお子様ではないので、軽く文句を言うだけで我慢します」
「そうしてくれ。文句くらいはいつでも聞いてやる」
「……どんな文句でも?」
「そうだな。どんな文句でも」
「……本当に私がそう言うことをして、青野さんが去っていったら私は泣きますよ?」
「大丈夫だ。……女性と向き合うってのは、そういうもんだろ。皆そう言ってるよ」
俺は皆と表現したが、基本的には実体験を元にしている。昔の彼女にも、散々色々な愚痴を聞かされたものだ。男にはたぶん実感としてはわからないことだが、女性はそういうことをして精神的な安定を保つのだと理解している。
「……そうですか。皆、言ってますか」
元カノの存在をあまり感じさせないように皆と言ったが、俺の意図を希星はすぐに読みとったらしい。女性はやはり鋭い……いや、これくらいは誰でもわかるのかな。
「とにかく、何かあれば聞くことくらいはできるから、今は練習しな」
「……そうですね。コンテストまで時間がありません。デジタルイラストでもそれなりの形にしないとですね」
希星が再びペンを走らせる。俺のことは、たぶんもう頭にない。
絵に対する集中力は高く、情熱があり、吸収力もある。才能やセンスを語れるほど俺には実力もないが、きっと俺よりもずっと上手くて良い絵やイラストを描くようになるんだろう。
そのときが来たら、少し寂しい気もする。でも、同時に誇らしくもなるだろう。
希星は将来、身につけたスキルでどんな絵を描いていくようになるだろうか?
「……将来が楽しみだ」
ボソリと呟く。何故か希星がぱっとこちらを向いて、妙に頬を紅潮させる。
「ど、どういう意味ですか? 二年後が楽しみだって、そういう話ですか?」
「……え?」
二年後。つまりは、一線を越えたとしても、誰にも咎められなくなるとき。
希星が想像していることが、俺とは全く違うものだというのを、即座に理解した。
「いや、その、そういうことじゃなくて……」
「……本当ですか? じゃあ、青野さんは、二年後を楽しみにしてくださらないんですか?」
「……だから、そういう話じゃなくて。俺はただ、希星が将来どんな絵を描くのか楽しみだって思っただけで……。ああ、でも、だからって、希星自身の成長がどうでもいいとかいう話じゃなくてだな……」
「むぅ。もっとはっきり言ってくださいよっ」
「……大人には大人の事情があるんだ」
「私は、十八歳になれるのを楽しみにしていますっ。誕生日は九月十四日ですっ。その日になったら、私……」
「待て待てっ。十八歳っていうか、どちらかというと高校卒業してからの方が本当は……」
「待てません!」
「……あのなぁ」
「十八歳は、未成年ではありますっ。でも、もう恋愛は自由にしていい年齢になりますっ。青野さんを困らせてしまうこともありませんっ。それでもダメなんですか!?」
希星が悔しさを滲ませる目で見つめてくる。自分がまだ子供であることが、心底歯がゆいようだ。
「……ダメじゃ、ない。わかった。そんときには俺もまた覚悟を決めるさ」
「……その言葉、嘘や誤魔化しだったら、私、泣きますよ。青野さんにすがりついて、一日中でも泣きわめきますよ。もちろん、青野さんにだって選択権はあります。私を選ばないということだってできます。でも、誤魔化さないで、ちゃんと答えてくださいね。それだけはお願いします」
「……わかってるよ。心配するな」
「それなら、いいです。あと……私の絵を楽しみにしてくださってるのも、嬉しいです。期待に応えられるように、これからも頑張ります」
「うん。応援してる」
「はい。見ててください。青野さんがいてくださるだけで、私はもう何でもできるって思えますからっ」
希星がまたディスプレイに向き合う。俺からすればまだまだ不安定な部分もあるけれど、絵にも、それ以外にもひたむきな姿は、素直に尊敬できる。
俺も、もうちょっと頑張らないとな、なんて思う。
俺だってまだ二十七歳。若い子には負けてられない……よな?
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