第35話 お揃い
「……えっと、とりあえずはデジタルで描くってことだよな?」
改めて希星に確認する。
「はい。それでやってみようと思います」
「しばらくタブレット貸してたけど、板タブとどっちがいい?」
「青野さんは主に板タブなんですよね? なら、板タブでやってみようと思います」
「俺の真似はしなくていいぞ?」
「……いいんです。私は今、そうしたいんです」
「そか。ならいいさ。じゃあ、早速始めよう」
俺はパソコンを立ち上げて、希星が作業できる環境を整える。
「ちなみに、ペンタブ用の手袋、持ってきてる?」
「はい。あります」
「そか。専用のを買ってもいいが、百均でとりあえずいいか?」
「はい。大丈夫です」
板タブでもタブレットPCでも、描くときには手袋を使うのが基本、だと思う。俺は百均のコットン手袋を加工して使っていて、希星もそれを真似している。
右手に手袋をはめつつ、希星が言う。
「……そういえば、私たちの境遇のこと、まだお話ししてませんでしたよね。今日、後ほどちゃんとお話ししようと思います」
「……ん。わかった」
「って言っても、正直言ってそんなにたいした話ではありません。よくある普通の話だと思います」
「そか。それならそれでいいよ。どんな話でも、特に何か変わるわけでもない」
「ありがとうございます。そう言っていただけると安心です」
諸々の準備ができたところで、新しいキャンバスを開き、まずは希星に好きなように描いてもらう。
「技術的なことより、まずはペンタブに慣れないと話にならない。しばらくは好きなように落書きしてみてくれ」
「はい」
希星が線を引いていく。まだまだたどたどしくて、全然上手くはいかない。
「……改めてですけど、速く描くと、矢印の移動とできあがる線にタイムラグがあるんですね。微妙に歪んだりもします」
「パソコンが処理する時間が必要だし、処理が追いつかなければ歪みもする。パソコンの性能が良ければまた違うのかもしれないが、俺のじゃこれが限界。こういうクセにも慣れていってくれ」
「はい。わかりました」
「あと、とても基本的なことだが、右手で描く時、左手はコントロールとZキーに置いておくといい。同時押しすると、引いた線が気に入らないときに即座にやり直せる」
「わ、本当だ。簡単ですね。……でも、なんだかずるをしているような気も……」
「アナログに慣れてるとそう感じることもあるかもしれん。でも、絵で大事なの過程じゃなくて結果だ。最終的に綺麗に仕上がることが一番大事。使えるツールは全部使ってしまえ」
「……慣れるとアナログが下手になりそうですね」
「それはある。アナログで、思い切った線を引くのを躊躇するようになったりな」
「そうですか……。悩ましいですね」
「あまり気にするな。努力すればどっちもできるようになる」
「……わかりました」
それから、希星が黙々と落書きする時間が過ぎる。
そんな折。
「青野さん」
「ん? なんだ?」
「……私、今、すごく幸せです」
「な、なんだよ、急に」
「だって、自分の好きなことを気兼ねなくできて、その上、隣に青野さんがいてくださいます。……これ以上の幸せなんて、あるんでしょうか」
「……あるさ。まだまだ、たくさんある」
「例えば、なんでしょうか?」
「例えば……自分の描いた絵が、誰かにとって心底大事なものになった瞬間、とかな」
そう言えば、そんな瞬間が、俺にもあったのだった。
そんなに昔のことでもないはずなのに、遠い昔のような気がしてしまう。
『誕生日にイラスト貰うなんて初めて。しかも、本当に素敵……。今日のこと、一生忘れないと思う』
そう言っていた彼女の笑顔は……もう綺麗に思い出すことはできない。
「誰かにとって、大事なものに、ですか……。えっと、ちなみにそれって……あ、やっぱりいいです。なんでもありません」
希星がどこか気まずそうに言葉を切って、また落書きに戻る。
俺としてはもう昔の話。けれど、希星からすると気になる過去で、気にはなっても、昔の彼女の話など聞きたくないというところかな。
希星が線を引く音だけが響く。俺もだんだんと何かを描きたい気分になってきて、一旦返却されていたタブレットPCを手に取った。俺も手袋をはめ、専用のペンを持ったところで。
「あっ」
希星が急に声を出す。何かと思えば。
「今更ですけど……お揃い、ですね?」
希星が右手を掲げてはにかむ。
お揃いって、手袋のことか? 確かにお揃いではあるが、百均だぞ……?
でも、こんな些細なことで嬉しそうに笑う希星を見ていると、こっちまで嬉しくなってしまう。
……頑張れ俺。堪えるんだ。手を出してはいけないぞ。
「……お揃いっちゃ、お揃いだ」
「あ、呆れないでくださいよ! 私は……こんなことでも、嬉しいんです!」
「わかったわかった。俺のことはいいから、そっちのことをやんなさい」
「むぅ……。まぁ、いいです。私は勝手に喜んでおきます。ふーんだ」
希星が可愛らしく拗ねて、また絵を描き始める。俺も自分の作業に移った。
特に会話はないけれど、二人で一緒に絵を描いている時間は……確かに、幸せってやつを感じないわけにはいかなかった。
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