第34話 お願い

 しばらくは平穏な時間が過ぎた。

 平日の朝は藍川と一緒に駅に向かい、その間にささやかなおしゃべりをする。藍川は特別に俺との距離を詰めようとはして来なくて、程良い距離感を保てていたように思う。夜になっても必要以上に関わることはなく、スマホを使って軽くやりとりをする程度。なお、希星にはタブレットPCを貸していて、デジタル絵はそれを使って練習に励んでいる。

 また、この数日間で、藍川はバイト先にシフトを減らしてくれるように頼んだらしい。俺からはいっそバイトを辞めてもいいとも伝えているが、自分でも多少は稼ぎがあった方が良いとも思っているそうで、すぐには辞められないのもあり、もう少し様子を見るそうだ。

 レポートも約束通りに毎日送られてきていて、藍川の学校での様子やバイト先での様子がわかって楽しい。ただ、俺を喜ばせるためなのかなんなのか、胸のサイズはDだとか、下着の色はピンクだとか、そんなことをこそっと添えてくるのは止めてほしい。止めてほしくないけど止めてほしい。お風呂の時間が余計に気になってしまうではないか。

 一方、詩遊の俺に対する態度は、相変わらずそっけない。藍川と俺が毎朝一緒に出かけることも好ましく思っていない。


「お姉ちゃんが青野さんと一緒にいると元気になるのは事実らしいから、今は何も言わずにそっとしておいてあげる。でも、お姉ちゃんに手を出したら通報するから」


 などと念押しされている。俺としても、藍川に手を出してはいけない理由があるのはある意味ありがたい。藍川は俺のことを好ましく思ってくれていて、俺だってもちろん藍川のことを憎からず思っているのである。ちょっと気を緩めると自分が何かしでかしそうで、戦々恐々としているのだ。

 赤嶺との関係も良好だ。会社でもよく話をするようになったし、時間が合えば一緒にランチに行ったり、帰宅したりするようになった。そのことで会社の後輩から変な勘ぐりを入れられたこともあるけれど、特に何もない関係なので、適当に向こうのご想像にお任せしておいた。

 そして、藍川と出会ってから二週間が経ったとき。水曜日の朝、アパート前で待ち合わせていたときのこと。

 藍川が急に爆発した。


「もう無理です我慢できません一日だけでも青野さんと二人きりで過ごさせてくださいお願いします今度の土曜日はバイトがありません本当にもう無理なんですこれ以上我慢したら頭おかしくなりますっ」


 めちゃくちゃ早口にそんなことを言われて、俺はもう藍川の懇願を受け入れるしかなかった。 


「わ、わかった。わかったから落ち着いてくれ」

「ありがとうございます! すごく嬉しいです! もう、毎日毎日毎時間毎分毎秒青野さんのことばかり考えているんです! 過剰な交流はいけないってわかっていても、むしろそう思うと余計に変な考えも過ってしまって、このままだと一番やってはいけない形で色々なストレスを発散させてしまいそうだったんです!」

「そ、そうだったか……。悪いな、辛い思いをさせてしまって……」


 誰かにこれだけの熱い想いをぶつけられて嬉しくないわけがない。上気した頬で、きらきらした瞳で、眩い笑顔で、俺なんかを求めてくれるなんて奇跡のようだ。


「……いえ、これは私が勝手に暴走しているだけだってことはわかっています。青野さんは大人で、私みたいに幼稚じゃありません……。青野さんのことばかり考えて他のことが手に付かないだなんて、やっぱり私はお子様です……」

「……お子様かどうかなんて、そんなところで判断するものじゃないさ。藍川さんは、確かにまだ大人とは言えない。でも、高校生として十分大人だと感じてる」

「そうですか……? それなら嬉しいですけど……。赤嶺さんなんかと比べるとまだまだだなって……思っちゃいますよ……」

「赤嶺さんは藍川さんよりも十年以上も長く生きてる。あいつと比べて未熟なのは当然だ。これから十年以上かけて、藍川さんは目指す大人になっていけばいい。その様子を俺に見せてくれるんだろう? 楽しみにしているぞ?」

「はい……そうでしたね。私、頑張って、でも頑張りすぎないように、成長していきます。見えていてください」

「うん。わかった」


 さて、そんな鬼気迫るお願いをされた明後日の土曜日。

 朝七時半過ぎから、藍川は俺の部屋にやってきていた。俺はベッドに腰掛け、藍川は何故か正座で俺を見据えている。


「……あー、一日一緒に過ごすって言っても、俺の部屋で過ごすつもりはないぞ?」


 そんなことをしたら俺の理性がもたない。ここは他人の目がない密室で、ベッドもあるのだ。


「わかっています。私もそのつもりはありません。一日家でまったり過ごすものもいいですけど、やっぱりお出かけもしたい気持ちがあります。でも、それよりも、お願いがあります」

「おう、なんだ?」

「私に、絵を教えてください。お願いします」


 藍川が丁寧に頭を下げてきた。さらりと揺れる黒髪が美しい……じゃなくて。


「顔を上げてくれ。前も確か言ったけど、俺みたいな素人よりちゃんとしたプロに習った方がいいぞ? 藍川さんがプロになりたいんだったらなおさらだ。必要なお金は出すからさ」

「……プロに習うっていうのも、大事だと思うんです。でも、私、青野さんに習いたいんです。それが目標や夢から遠回りになるとしても」

「……あまりおすすめはしないな。俺は絵もイラストも仕事に出来なかったんだから、俺が藍川さんに教えて、変なクセが付くのは良くない」

「……青野さんの言っていることもわかります。でも、私、ダメなんです。理屈とか抜きで、青野さんからじゃないと学べないって、思っちゃってるんです」


 俺のことが好きだから、そんなことを思うのか?

 たぶんそういうことなのだろうが、もちろん確認などしない。わかりきった気持ちであっても、明確な言葉にはしないのが、俺たちの間に自然とできたルール。


「……めちゃくちゃだなぁ。遠回りどころか、目的地にたどり着かなくなるかもしれないぞ」

「……そんなことにはしません。青野さんが悲しんだり、残念に思ったりするような結果にはしたくないですから」

「…そうか。わかった。まぁ、ちゃんと習うにしても、自分の課題をはっきりさせておくのが大事なのも確か。ここを重点的に学びたいという目的意識があってこそ色々と身につく。お金出して習いにいけば自動的に夢が叶うなんてこともないな。

 俺にできる範囲で、藍川さんに絵やイラストを教える。ただし、改めてだが約束してくれ。藍川さんは、ちゃんと自分の目標を達成するって」

「はい。もちろんです」


 藍川の目が強い光を放つ。

 俺だって一時期はひたすらに目標に向かって頑張っていたはずだけれど、ついぞこんな目をしたことはなかった気がする。

 ……しかし、こんな目をする人が身近にいると、俺も少し影響されてしまう気がするな。もうなくしてしまったはずの情熱が、ほんのりと顔を覗かせる。

 今更、俺が何を出来るって言うんだか。


「……藍川さんの気持ちはわかった。それじゃあ、早速始めようか」

「あ、その、もう一つお願いしても良いですか?」

「ん? なんだ?」


 さっきまでの決意の表情とは打って変わって、藍川は頬を染めながら言う。


「……そろそろ私のこと、希星って呼んでくれませんか? 詩遊との区別もした方が良いと思いますし……」

「あ……そう、だなぁ……」


 希星と呼んでしまっていいのだろうか。俺としては、なるべく距離を保つために藍川さんと呼んでいた。名前で呼んでしまうと、親近感が増しすぎるのだが……。


「希星って、呼んでください」


 藍川がもう一度懇願してくる。すがるような目を見ると否とは言えず。


「……わかったよ。希星。始めるぞ」

「はいっ」


 ただ名前を呼ばれただけで、希星の笑顔が弾ける。

 ……ある意味懐かしいとは思う。彼女と付き合い始めて、お互いを名字ではなく名前で呼び合うようになったあの時の嬉しさとかこそばゆさとか。あのときの新鮮な喜びを、希星は今感じている様子。俺も、なんだか妙な気分だよ。

 俺は希星の顔から視線を逸らして頭を掻く。気持ちを落ち着けるのに少し時間がかかった。

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