第32話 願い
俺と詩遊の話が終わる頃に、藍川と赤嶺も戻ってきた。本当にすぐ済む話だったんだな。いったいどんな話をしていたのだろう? 神妙な顔の藍川と、どこか挑発的な笑顔の赤嶺からは、いまいち状況がわからない。気にはなるが、せっかく二人だけで話にいったのだし、俺が聞いてはいけないことなのだろう。
まずは赤嶺がデスクチェアに座り、改めて弁当を広げる。
「んじゃ、話も終わったことだし、今度こそご飯食べよー。青野君もお腹空いてるでしょ? 一緒に食べようよ」
「ん、ああ。そうだな」
赤嶺に続き、俺も食事の準備。
「ちなみに、改めてだけど、希星ちゃんと詩遊ちゃんはどうする? 明日は学校だし、うちに帰ってゆっくりしてていいけど?」
「私は残ります」
鋭く言い放ったのは藍川。詩遊の方は、少し不機嫌そうに立ち上がる。
「わたしは帰ります。お姉ちゃんも早めに切り上げて帰りなよ」
「あ、うん……。じゃあ、部屋までは送るね」
「いいよ、そんなの。隣の部屋なんだから」
「隣の部屋だって、たまたま変質者が通りかかることだって……」
「へーきへーき。心配しすぎだよ。夜もそんなに遅い訳じゃないんだから」
「うん……」
詩遊が一人で部屋を出ていき、すぐに隣の部屋のドアが開閉する音がした。よほど運が悪いのでない限り、この距離で不審者と遭遇することはまずないか。
「……なんというか、しっかりした妹さんだな」
俺が言うと、藍川が苦笑い。
「言ったでしょう? 私がいなくたって、詩遊は全然平気なんです」
「みたいだ。でも、藍川さんをものすごく大切に思っているのは確かだ。俺と二人きりの会話だから詳しくは言わないが、さっきの時間でもそう思ったよ」
「そうですか……。それは嬉しいですね」
藍川がはにかむ。とても可愛い。非常に可愛い。
「……ロリコン」
赤嶺がもそもそ食事をしながらぼそりと呟いて、俺も我に返る。藍川が俺にそれなりの好意を抱いてくれているとはいえ、あまり見つめるものではないな。
「……何度も言うが、俺はロリコンじゃないぞ」
「そーですかー。ま、そういうことにしておいてあげるよ」
「だいたいなぁ、十六歳なんていうのはもう立派に女性としての成熟を見せているのであって、男が女性的な魅力を覚えることは決しておかしなことではなく……」
「言葉を重ねるだけ変態に聞こえるからそろそろ止めなさい。っていうか、希星ちゃんの前でよくそんなことが言えたわね?」
赤嶺に指摘されてハッとする。大人同士の軽い冗談のつもりで言ったが、当の女子高生からしたら俺の発言など気持ち悪いだけだろう。
これは本当にただの冗談で、別に君に対して妙なまねをするつもりなど何もなく……という言い訳をしようと思ったのだけれど。
藍川は少し俯いて、頬を赤らめていた。……赤らめていた?
「……私は、その……いいと思いますよ? 誰彼構わずとか、欲望の発散とかでなければ、幅広い女性を魅力的に感じるのは、悪いことではないんじゃないかと……」
「……そ、そうだな」
つまりは、自分も恋愛対象になれるということなら、俺の発言はむしろプラスイメージ……という話なのだろうか。
赤嶺は、ダメだこりゃ、という感じで深く息を吐く。
「……青野君。もし希星ちゃんに手を出したら、私が通報するから覚悟してて」
「……何もするつもりはねぇよ。指一本触れない……と言うのは言い過ぎかもしれないが、極力接触も避けるつもりだしな」
「ふ、触れることもダメなんですか!? 流石にそこまで厳しく制限しなくてもいいと思いますよ!?」
藍川が慌てたように言った。その態度だけでも俺は満足だ。というか、自制心がなくなってしまいそうだから本当に勘弁してくれ。俺は聖人なんかじゃないんだぞ。
「……あのね、希星ちゃん。わかっていると思うけど、何かあれば不利になるのは青野君。希星ちゃんの気持ちがどうであっても、周りがダメだと判断したら、それはダメになっちゃうの。今の状況とか環境とかを大事にしたいなら、希星ちゃんも守るべきものは守りなさい」
「……はい。それは、そうですよね……」
藍川がしゅんとして引き下がる。今更だけれど、赤嶺は藍川の気持ちを知った前提で話している様子。先ほど二人で話していたし、色々と共有しているのだろう。
意気消沈した様子の藍川だったが、ぼそりと呟く。
「……結婚しちゃえば問題ないのに」
その一言で、顔をひくつかせる赤嶺。俺は呆気にとられるばかりである。
「……希星ちゃん。結婚しちゃえば、今感じてるしがらみはなくなるかもしれないよ? だけどね、結婚したらしたで、別のしがらみもたくさん出てくるの。
結婚したってことはもう一人前なんだから、あれをしなさいこれをしなさい、そんなことは出来て当然……とかね。そんなに単純な話じゃないの」
「……そう、ですね。そうですよね。私、そういうことわからなくて、本当にまだまだ子供です……」
「そんな沈んだ声出さなくても、希星ちゃんはまだ子供でいいの。十六歳なんだから」
「……良くはないです。自分が子供じゃなかったら良かったのに、って思ってしまいます」
「……そう。でも、一般的に人が十年かけて成長する分は、十年かけないと成長できないもの。焦るとろくなことがないよ。成長した気になるだけで、綻びがたくさんあるとかね」
「……はい」
藍川はまだ俯いている。
赤嶺は肩をすくめて俺を見てくる。この重い空気どうすんの? みたいに見られても困る。困るが……俺も何か言うべきだよな。
「藍川さん」
「あ……はい」
「俺は、藍川さんが成長していく様子をじっくりと眺めていたい」
「……ええと……はい?」
藍川が困惑気味に首を傾げる。赤嶺は、うわぁ、と汚物を見るような目で見てきた。赤嶺、目で語りすぎ。
「藍川さん。これは俺の個人的な願望に過ぎないのだけど、女の子が一歩一歩成長していく様子を見ていきたいと思っている。ささいなことに躓いてしまったり、そこから踏ん張って立ち直ったり。その姿に感動したいんだ。
だから、藍川さんがあまりにも急速に大人になってしまうのは、俺としてはちょっぴり残念な気持ちがある。俺の願望を満たすために、藍川さんには今しばらくその様々な葛藤を抱えていてほしい。
本当に身勝手な話だけれど、藍川さん、どうか俺の願いを聞き届けてくれないか。代わりに俺は……この先、いくらでも藍川さんを支えてみせるから」
藍川が困ったように笑う。頬も幾分か赤みを増している。そして、首を傾げ、小さな溜息を吐きながら言う。
「……青野さんがそう言うのなら、仕方ないですね。私の人生は、青野さんに楽しんでもらうためにあると思っていますし」
「うんうん。俺の願いだから仕方ない。仕方ないから、そんなに焦って進む必要はないよ」
「……わかりました。私、ゆっくり歩いていきます。でも、たまにでいいので、少しだけ、私のワガママも聞いてほしいです。触れるのもダメなんて、言わないでください。お願いします……」
その願いを聞き届けて良いものか……。
赤嶺に視線をやると、赤嶺はまた肩をすくめるだけだった。俺に任せる、というところかな。
「……たまにはいいんじゃないか? 守るべき一線をきちんと守れば、ある程度はゆったり考えればいいさ。ここは学校じゃないんだから」
「……はい。ありがとうございます」
藍川がようやく曇り無く微笑む。藍川も落ち着いてくれたところで、俺と赤嶺はゆっくり食事ができるようになった。
その後は三人でおしゃべりをして、日曜夜の時間をゆったりと過ごす。
赤嶺がコミュ力抜群だったおかげか、藍川とも短時間ですっかり打ち解けて、俺よりも仲良くなっているんじゃないかとさえ思えた。
少し寂しい気持ちもあったけれど、あまりにも俺と藍川との距離が近すぎるのも宜しくない。
俺との関係だけに固執せず、もっと幅広い人間関係を持って、広い視野を持つ。
それが藍川にとって良いことなのは間違いない。
これもまた、藍川の成長の記録とでも言うべきなのだろう。藍川の行く末が明るいものになることを願いつつ、自分の寂しさは溜息一つで吹き飛ばすことにした。
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