第28話 二年
『今、アパートの前にいるんだが、少し出て来られるか?』
藍川にメッセージを送ると、その十秒後くらいにバタバタと藍川が二階からも降りてきた。……そこまで急がせた覚えはないんだが。
「青野さん、おかえりなさ……い?」
俺の前で立ち止まり、隣に立つ赤嶺を見て動きが止まった。バグったパソコンを見ている気分だ。
「藍川さん、大丈夫か?」
「は……? へ? あ……え? ……ええ?」
「急に知らない人を連れてきてしまってすまない。ただ、ちょっと大事な話があるんだ。少し、時間いいか?」
混乱の極みにあるらしい藍川に、ゆっくりと話しかける。すると、藍川は唐突にはらはらと涙をこぼし始めた。思わずぎょっとしてしまう。新しい恋人を連れてきたとでも勘違いされたか。
「あ……そ、そういうこと、ですか……はは……」
「待て、たぶん、そうじゃなくて……」
俺が説明をする前に、藍川がくるりと背を向けて走り去ってしまう。自室に戻るわけではなく、ただただ俺から離れる方向へ。
「お、おい、ちょっと待て!」
「待てじゃなくてさっさと追いかけろ!」
赤嶺に背中を強めに叩かれる。かなり痛い。紅葉腫れになっていそう。
俺は駆け出し、藍川の後を追う。藍川の気持ちはわかっていたつもりだが、勘違いでここまで暴走するまでとは思わなかった。
現役高校生の足は速い。しかし、男女の体力差を考えれば追いつくのも不可能ではない。はずだ。
全力で走り去る藍川を、俺も全力で追いかける。普段運動なんてしないから、急な全力疾走は足も肺も辛い。でも、ここで藍川を見失うわけにはいかない。
ここまで懸命に走るなんていつ以来だ? 走るってこんなに大変なことだったか? 足がもつれそうで怖いぞっ。
俺も体力がないが、どうやら藍川もそこまで体力がある方ではなかったらしい。三度ほど角を曲がり、三百メートルほど走ったところで、どうにか藍川の手を掴むことが出来た。
「やだっ!」
全力で振り解こうとしてくる。待て、この状況はまずい。時刻的に人はまばらだが、逃げる女の子を暴漢が力ずくで捕まえている図になっている。ここは、一言で藍川に冷静になってもらわなければならない。あいつは友達だ! で済む話? いや、でも……。
瞬間的に色々なセリフを考えたが、結局出てきた言葉は。
「二年待つ!」
これだった。
「……は? ……え?」
藍川の動きが止まった。最低限、俺を振り払おうとすることはなくて、暴漢といたいけな少女という図式ではなくなったはず。
「ああ、いや、急に変なことを言っちまったな。今のは忘れてくれて構わない。それより、さっきの女性は俺の友達で、恋人とかそういうのではない」
「ま、待ってください。二年待つってどういう意味ですか? な、なんで急にそんな話をしてるんですか?」
「だから、その……今のは、なんでもなくて……」
「なんでもあります! どういう意味ですか!」
涙は止まっているようだが、それより、半端な答えでは納得してくれなさそうだ。困った……。
「そ、そのままの意味だ。いや、別にちょっと自意識過剰なのかもしれないが、もし、万一、何かの間違いで、藍川さんが俺に、その……特別な関係を求めることがあるとしても、今は無理だ。俺はもう大人で、藍川さんはまだ高校生。越えちゃいけない一線はあるわけで……いや、これが単なる俺の勘違いだったらいいんだ。本当に忘れてくれて構わない」
「……じゃあ、もし、私が特別な関係を求めてしまったら、二年間、待ってくださるんですか……? つまり、私が十八になって、余計なしがらみを考えなくも良くなるまで……?」
「んー、まぁ、そういうことだ。ああ、でも、こんなのは俺の勝手な妄想だよな。藍川さんみたいな若い子が、こんなおっさんに……」
「……妄想じゃ、ないです」
「……そ、そうか」
「妄想なんかじゃないです。そんな知らないフリして、本当はわかっているんでしょう? 私がそういう気持ちじゃなかったら、声を聞くためだけに電話なんてしません。
でも、青野さんは大人で、私が必要以上に距離を縮めてしまったら迷惑がかかるって、わかってます。言葉にもしてはいけないんだって、わかってるんです。だから、なるべくちゃんと距離を置こうって、頑張って……います。……あと二年。本当に、待ってくださるんですよね?」
藍川の表情はあまりにも切実で、そんな顔をされるのに不慣れすぎて、どんな顔をすれば良いのかわからない。
「……うん。待つよ。君が大人になるまで」
藍川がまた涙を流し始めた。街灯に照らされる涙の跡はとても綺麗で、本当に綺麗で、ドキリと心臓が高鳴ってしまったのは否めない。
「……青野さんの気持ちは、聞きません。今は聞いちゃいけないってわかってます。でも、二年間待ってくださるという言葉だけでも、すごく嬉しいです」
「……そうか。まぁ、でも、二年待つって言っても、藍川さんには何の義務もないからな。まだまだ楽しい高校生活だってあるし、どんな心境の変化があるかはわからない。俺は藍川さんを束縛するつもりは一切なくて……」
「変わりません。私の気持ち、変わりません。たった二年間じゃ、何も変わりません」
「……そうか」
「二年どころか、十年先だって変わりません。絶対に」
真っ直ぐな言葉と眼差しが眩しい。こんなに一途に、一生懸命に、全身全霊で、誰かを想えるなんて。
俺くらいの歳になると、そうそう抱けない想いの強さ。受け止めるのが怖いくらいで、だけど、嬉しいのは確か。
「……わかった。その気持ち、すごく嬉しい」
「この気持ちが嘘じゃないって、証明します。二年間かけて」
「うん。ずっと見てる」
「はい。見ていてください」
力強い笑み。ようやく笑ってくれた。
女子高生の心なんて酷く不安定で、その気持ちがどうなるかなんてわかったもんじゃない。俺が幻滅させるようなことをすれば、あっさりと心変わりしてしまうことだろう。
ただ、藍川の人生を買ったものとして、きちんとその変化を見届けよう。そして、本当に二年後も藍川の気持ちが変わらないというのなら……その気持ちに、しっかりと向き合おう。
「とりあえず、戻ろうか。っていうか、事前にちゃんと赤嶺さんのことも話しておくべきだったな。急に連れてきてしまって悪かった」
「……確かに、ちょっと酷いです。でも、私も急に逃げてしまってごめんなさい……。その、どうして彼女を連れて来られたんですか?」
「赤嶺さんな、妹さんの支援を請け負ってくれるかもしれないんだ」
「え? 詩遊の? でも、それって青野さんが……」
「俺も支援する。ただ、俺だけで支援をするより、二人で支援をした方が余裕が持てるのも確かだ。それに、万一俺が病気になって稼げないとかなっても、もう一人いれば支援は続けられる。そういう安心材料として、赤嶺さんの協力はすごくありがたいと思う」
「その……青野さんが、お願いしてくださったんですか?」
「いいや。俺からは何もお願いしてない。藍川さんの支援をしてるって話はしたけど、支援してくれとは一言も言ってない。赤嶺さんが自主的に協力を申し出てくれたんだ」
「そんな……どうしてですか? ありがたいですけど、青野さんのような人がそんなにたくさんいるなんて思えません……」
「まーな。でも、赤嶺さんは信用できる人だ。やると決めたらきっちりやってくれる。ただし、赤嶺さんだって、一度も会ったことのない相手に支援をするほど変わり者じゃない。藍川さんたちと会って、話して、それで支援をするかどうか決めたいそうだ。だから連れてきた」
「わ、わかりました。つまり、私と詩遊で赤嶺さんを口説き落とすということですね?」
「んー、まぁ、そういうこと」
「……わかりました。けど、実のところ少し複雑です。本当に私の身勝手ですけど、私たちの関係に他の女性が関わってくるのは……。でも、本当にワガママすぎますよね。支援者が一人より二人の方が良いって、冷静に考えればすぐにわかります。
詩遊のためにも、私のワガママなんて押し通せません……。
だから、赤嶺さんの説得、頑張ります。自分だけの力では生活を支えられないとわかったので、ワガママなんて言わず、なりふり構わずに頑張ります!」
「うん。その意気だ」
気合いを入れる藍川。さっきまで泣いていたのに、もう気合いの入った顔をしている。
コロコロ変わる表情が可愛らしい。大人にはない魅力は確かにあって、それが容易にこちらの心を抉ってくる。
二年間……。ちゃんと待てるだろうか? 俺の方が心配になってしまうよ。
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