第18話 売られた喧嘩的な
注文していた料理がやってきて、俺たちはしばし食事を進める。
「わぁ……美味しいですねっ、このパスタ!」
藍川が華やぐので、ここを紹介して良かったと思えた。
ただ、俺の外食のレパートリーなどさほど多くない。もしまた機会があれば藍川が楽しめるよう、色々とリサーチしてみるべきなのかもしれないな。
「気に入ってもらえたようで良かった。ここのお店、チェーン店の冷凍パスタと違ってきちんと手作りしてるらしくてね、すごく美味しいんだ。……とか言いつつ、俺は冷凍パスタだって普通に美味しくいただいちゃうんだけど」
「それは確かにそうですけど、やっぱり味は違いますよ。素材の美味しさが際だってます」
「そういうのがわかるだけ、藍川さんはちゃんとしたものを食べてきたってことかな」
「……そう、かもしれませんね」
藍川が僅かに顔を曇らせる。変なことを言った覚えはないが……ああ、でも、今の発言は少し家族のことを思い出させたかもしれない。喧嘩中の親が稼いだ金で恵まれた食事をしてきたというのは、少しだけ気分を憂鬱にさせるかもしれない。
「……まぁ、とにかく、今は料理を味わうといいよ。最近は安売り弁当や総菜を食べることも多かったんだろ?」
「はい……。その方が手間がかかりませんし、結局安く済んじゃうっていうところもあるんですよね……。まぁ、お弁当だけだと栄養が偏ると思うので、サラダなどを付け足すことはあります。
でも、自分で全部やるよりは、お弁当や総菜などを買う方が総じて見るといいのかな、って思ったりはします。金銭的にも、時間的にも」
「うん。それは確かに。藍川さんもバイトで忙しくしているからわかると思うけど、特に時間って貴重だよね。
時間を持て余している人なら料理をしてもいい。でも、何か他にしたいことがある人なら、料理を作るための時間を他のことに費やす方が有意義だ」
と言っているが、俺も本来は時間を持て余しているタイプ。今の弁当生活は、俺の怠惰が招いているということは否定できない。
「……私もつい最近まで、ご飯を作るための時間がすごくもったいないような気がしていました。この間にすべきことがあるんじゃないかって……」
「何かに熱中している人ほどそう思うだろうな。藍川さんは、家での空き時間はなるべく絵を描いている感じ?」
「はい。そうです。デジタル用の機材を揃えるお金はなかったので、全部アナログですけど」
「アナログがダメってことはない。ちなみに、写真とかあるなら見せてくれないか?」
「はい。いいですよ。……ただ、あまり上手ではないので、期待しないでください」
藍川がポケットからスマホを取り出して操作。作品の写真を見せてくれる。
表示されたのは、妹の顔のデッサンだ。何をしているところなのか、やや斜め下を向いている。読書でもしているところを描いたのかもしれないな。
「……全然、素人でしょう? しかも、高校生としてもレベルは高くない……」
藍川は自信がないようだが、決して卑下する程下手な訳じゃない。形は取れているし、愛らしい空気感も伝わってくる。
「特別な上手さはない。でも、高校生でこれだけ描けたら十分上手いよ。自信持っていいと思う」
「ほ、本当ですか!? で、でも、私と同い年でもっと上手い人もたくさんいて……。そういうのと比べると、私なんて全然……」
「はっきり言おう。藍川さんより絵が上手な人は、日本だけでも何万人単位でいると思う」
藍川が顔を引き締める。悲しそうだが、俺は何も悲しむ必要はないと信じている。だから、言葉を続ける。
「でも、一定レベル以上であれば、絵の上手い下手っていうのは、絵に関わる仕事をする上であまり重要じゃないと思う」
「……どういうことですか?」
「美術の世界だってイラストの世界だってそれ以外だって、世界トップレベルで上手い人じゃなきゃ仕事にならないなんてことはありえない。
そりゃ、絵の才能抜群の人なら、一枚の絵で数百億円だかの値が付くことはある。でも、絵に関わる仕事で食べていくっていうのにそういう極端なことはしなくていい。
プロの水準さえクリアしていれば、一枚数千円や数万円の絵をたくさん売っていけば問題ないんだ。
それに、上手い絵だから需要があるというわけじゃない。ここがアートの難しいところだけれど、何十時間もかけて描き上げた超大作より、数時間でさらっと描いた練習絵の方が評価が高いなんてこともざらだ。
藍川さんも、そういう経験はない?」
「そうですね……描く側としても、見る側としても、経験はあります」
ふむふむと頷く藍川に向け、続ける。
「絵を好きな人は勘違いしがちだけど、一般人はそこまで絵の上手い下手なんて気にしちゃいない。好きな絵は好きだし、嫌いな絵は嫌い。それだけ。技術力のある絵はすごいって思われるけど、好きかどうかは別もの。
世の人気イラストレーターのイラストなんかを見てみるといい。案外、技術的にはそこまで突き詰めていないものもたくさんある。でも、それでいいんだ。さらっと描いて、たくさんの人が『これいいな』って気軽に思う。それでイラストとしては十分に役割を果たしている。
技術力を突き詰めるという道ももちろんある。でも、アートの世界の技術力でトップレベルになりたい、という願望があるのでなければ、技術力はそこそこでいい。
技術力向上に一生懸命になるのではなく、どんな絵を描けば見る人に喜んでもらえるかとか、楽しんでもらえるかとかを考える力の方が重要だ。そこでは、アートの才能よりも対応力や分析力が必要になる。
技術レベルもトップレベル、かつ対応力も分析力もあるのは理想だが、皆がそうなれるわけじゃない。藍川さんが自分に技術力が不足していると思い、どう頑張ってもトップレベルにはなれないと感じるなら、そこそこの技術の使い道をじっくり考えるといい。
そうすると、きちんと絵に関わる仕事をしてお金を稼げるようになるはずだ」
俺の少々長い話を、藍川は熱心に聞いてくれていた。絵の仕事に関わりたいというだけあって、こういう話には食いつきがいい。
「……なんだか、目から鱗が落ちる感覚っていうんでしょうか? すごく、世界が新鮮に見えます」
「そうか。それは良かった。そういうことだから、技術力についてはこれから一定水準まで向上させれば十分。若き天才なんて謳い文句に憧れず、焦らずじっくりやればいい」
「……はい。そうですね。ちょっと、元気出ました」
藍川の穏やかな笑みが、不意に胸を疼かせる。
綺麗だというだけじゃなく、何か新しい希望を見いだして光を纏う感じが胸を打った。
「……あー、まぁ、頑張ってくれ。藍川さんには、絵を仕事にする才能があると思う。今後の成長次第だが、まだまだ若いんだし、大丈夫だ」
「若いって言っても、もう十六ですよ? 言うほど若くはないでしょう?」
「若いよ。俺の歳になればわかる。十六歳なんて、これからどんなこともできるし、何にだってなれる。
……ちなみに、うちの会社の四十代の社員さんなんかは、同じことを俺にも言うんだぞ? 二十代なんてまだまだ若い、なんでもできるし、何にだってなれる、って」
「そうなんですか……。でも、確かに、青野さんは、なんでもできるし、何にだってなれると思います。……本当に、素敵な方ですから」
「そう言ってくれる人が一人でもいると、俺の人生報われるよ」
「もう、あんまり信じてませんね? 私、本気でそう思ってるんですからね!」
少し怒りながら、藍川がカプレーゼを口に入れる。途端ににんまりと微笑むので、その笑顔を写真にでも撮って、ずっと残しておきたいなと思ってしまう。
「青野さんとお話ししていると元気が出ます。……ていうか、青野さんと一緒にいると、元気が出ます」
上目遣いにこちらを見てくる。唇を舌で一瞬舐めたのは、計算なんか、天然なのか。
不覚にもどぎまぎしつつ、自分の食事を進める。
ピザが美味い。うん、とっても美味しい。今はとにかく食事に集中だ。
そう思ったのに。
「……ピザ、お、美味しそうですね。その……少しだけ、いただけませんか? ただ、えっと、手、手が汚れるので、食べさせていただけると、嬉しかったりするんですけど……?」
おいおい、と全力で突っ込みたくなる。
恋人でもないのに、俺に何をさせるつもりだ?
「な、何をためらってるんですか? 青野さんはもう社会人ですし、恋人がいたことくらいあるんでしょう? これくらい、何も意識しないでさらっとやってくださいよ。こっちが恥ずかしいじゃないですか」
「……そっちがその気なら、やってやるさ」
何を考えているかは知らん。だが、売られた喧嘩は買わねばならぬ。ような気がする。
俺は一ピースを手に取り、藍川の口元に持って行く。
「はい、あーん」
「あ、あーん……」
薄く口を開く藍川。濡れた唇がほんのりと艶めかしい。その口の中にそっとピザの先端を入れていく。藍川の唇が閉じて、ピザをゆっくりと噛みしめた。口元を押さえ、赤い顔で咀嚼する。なんだこの図。女子高生に抱くべきじゃない感情を抱きそうだ。
「美味しいですね……」
「……もっといるか?」
「食べさせてくださるなら……」
「……そうか」
もう一度、同じことを繰り返す。いや、全く同じではない。ピザの残りを入れようとしたら、その柔らかな唇に少しだけ指先が触れてしまった。ぷるん、と瑞々しい肉感。生の唇は随分とご無沙汰だ。ああ、こんな感触だったっけ。柔らかくてふにっとしていて……止めろ。これ以上は考えるな。
気づけば、口元を押さえて咀嚼する藍川の顔が随分赤くなっている。そんなウブな反応をするな。唇にちょっと指が触れただけだろうが。
なんだか心臓に悪い空気。俺はなんでもない風を取り繕って、まずは水を一杯飲むのだった。
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