第8話 共有
何事もなく住処たる安アパートに到着。俺はそのまま速やかに部屋に戻ろうとしていたのだが、藍川が階段手前で一度立ち止まる。
「どうした? 今日も、一度休まないと階段上るのも辛い?」
「いえ、そんなことは……あ、やっぱりあります。階段上るの、辛いです」
「……ふぅん」
あからさまに嘘っぽいが、あえて指摘はすまい。
「じゃあ、少しだけ休む?」
「……はい」
「座るか?」
「いえ、そこまでは……」
「そ。ならいいか」
そんなに疲れてもいないだろうし、本当は休む必要もないんだろうし、立ちっぱなしでも構わないだろう。それにしても、あえてこんな状況にするなんて、何を考えているのだろうか。俺、そんなに懐かれるようなことをしたかな?
「あの……青野さんって、休日は何をされているんですか?」
「たいしたことはしてないよ。漫画読んで、アニメとか映画観て、あとは少しだけイラストとか絵を描くくらい」
「え、イラストを描かれるんですか?」
妙に食いつきがいい。今までとはまた違った反応だな。
「ああ、少しだけ。そんなに本格的なものじゃないけど」
「もし良ければ、見せていただけませんか?」
「いいよ。でも、期待しないでくれ。あくまで素人だ」
俺はスマホを操作し、赤嶺に見せたのと同じイラスト投稿サイトを表示する。
「これ、俺の描いたイラスト」
「わぁ……上手……」
藍川が、暗がりの中でも随分と目を輝かせる。この反応を見るに、藍川もイラストを描くようだな。
「藍川さんも、イラストを描くの?」
「……はい。でも、こんなに上手く描けません」
「そっか。でも、まだ高校生だし、描いていけばどんどん上手くなる。俺くらいならすぐに追い越していくよ」
「へぇ……はぁ……ほぉ……」
俺の話なんてろくに聞こえていないようで、藍川が夢中で俺のイラストを見ている。
描いた本人としては、この反応はとても嬉しい。未熟なのは承知だが、そんなものでも喜んでくれる人がいると報われる。
……色々と悩んだり苦しんだりして描き続けてきた十五年以上の歳月も、無駄ではなかったのかもしれないと思える。
「私、これ好きです。女の子が竜と一緒に踊っているの、すごく可愛いですね」
「それか。うん、俺も結構気に入っている奴。描いたのは、社会人になって二年目の頃だったかな……。丁度、ちょっとしたきっかけで、俺がもう一回絵を描いてみようって思ったときだ」
二年程描いていなかったから、以前培ったスキルをだいぶ忘れてしまっていた。完成度もきっと高くない。けれど、イラストを描くのって楽しいんだなと、思い出すことができた作品。個人的には思い入れがある。
「もう一回ってことは、絵を描くのを辞めた時期があるんですか?」
「あるよ。大学四年のときに一度辞めて、そこから二年くらい描かなかった」
「……どうして、辞めてしまったんですか?」
「……色々あったんだ」
「色々って……? 訊いてもいいですか?」
この辺りのことは、他人に話したことはなかった。なかなか理解できるものではないとも思っていたから。
「……まぁ、藍川さんならわかるかな。簡潔に言うと、絵を描くのが好き過ぎて、情熱があり過ぎて、絵を描くのも見るのも嫌になってしまったんだ」
「……ああ、なるほど」
藍川は、どうやら俺の心情を理解してくれているらしい。身につまされ、痛みを覚えているような顔をしている。
「わかってくれるか?」
「わかりますよ。私だって、絵を描くのが好きなのに、何度も何度も嫌いになりました。
才能ある人と自分との実力差に打ちひしがれたとき。
どれだけ練習してもさほど上達しなくて絶望したとき。
思い通りの絵がどうしても描けないとき。
……そんなことが本当にたくさんあって、絵を描くのも見るのも辛くなるんです。大好きだったはずなのに、絵に関わることを苦痛に感じてしまって、それもまた辛いんです。
青野さんも、きっとそういうことなんですよね?」
「……うん。そうだな。全部一緒に気持ちじゃないだろうけど、そういうこと」
同じ思いを共有してくれる人がいると思うと、どこか心が救われた気持ちになる。
十以上も年齢が離れた相手で、感じていることはもちろん全く同じじゃない。それでも、俺は孤独じゃないな、とふと思えた。
「……私、こういう気持ち、初めて人に話すことができました。だいたいの人は、好きなことやってるのはただ楽しいばかりだって思っています。好きなことを好きなだけやって、何を悩む必要があるのかって思っています。そういう反応が怖くて、誰にも言えませんでした」
「うん。それもわかるよ。まぁ、ある程度はこっちの勝手な被害妄想なのかもしれないけど、きっとこの気持ちはわからないだろうな、って思ってしまう。
大好きなことだからこそ、逃げ場がなくて追いつめられる。百パーセントの力を注ぐからこそ、自分の至らなさに打ちひしがれる。そんなのは、何かに本気になっている人じゃないとわからない。そう、思っちゃうよな……」
「……はい。辛いなら辞めればいいのにとか、辞めたくなるのは本気で好きじゃないからでしょとか、そういう反応はされたくないです。そんな簡単なことじゃないのに……」
「うん……。そうだな」
『絵を描くのを辞められるってことは、本当はそんなに好きでもなかったってことなんでしょ?』
別れた彼女に言われた言葉を思い出す。
そんな簡単なことじゃないんだよ、と言っても理解はしてもらえなかった。わからない人には、たぶん、ずっとわからないこと。
「まぁ、俺は絵との付き合い方を変えて、今は楽しく描いてる。昔ほど熱心に描いてはいないけど、これはこれで幸せかな」
「……そうですか。あの、実は私……」
「お姉ちゃん?」
藍川が何かを言い掛けたが、藍川の妹、詩遊が階段の上から声をかけてきた。藍川を幼くしたような見た目で、大変可愛らしい。……別にやましい意味はない。
「あ、詩遊」
「……お姉ちゃん、何してるの? その人……お隣さん?」
「ああ、どうも。俺は青野駆。ごめんな、立ち話でお姉さんを引き留めてしまった」
詩遊がやや険しい顔をする。それから階段を下りてきて、藍川の手を引いてそそくさと階段を上がっていく。
「お姉ちゃん、行こ」
「あ、うん、えっと」
詩遊の方は、あからさまに俺を警戒している。それはそうだ。俺みたいなおっさんが女子高生に話しかけていたら、不審者だと思われて当然だ。
「あの、お休みなさいっ」
藍川が辛うじてそれだけ言ってきたので、俺も、お休み、と返した。
「……なんでお隣さんにそんなこと言ってるの?」
詩遊だけは不信感一杯で、俺はこっそりと傷つく。藍川があまり警戒心なく話しかけてくるから失念しかけていたが、俺はやはり、十代女子からは近づくのさえ疎まれる存在なんだな……。
溜息を吐きつつ、俺も二階に上がる。二人はとっくに自室に入っていて姿はない。
「……あ、鞄と買い物袋」
買い物袋だけならまだしも、鞄を持ちっぱなしなのはいかがなものか。きっと、俺に見られたくないものだって多少は持っているだろうし。
「どうしたものかね……?」
荷物を取りに来ないかと少し待ってみたが、結局藍川は顔を出さなかった。俺は仕方なく自室に帰り、鞄は玄関脇に置いておくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます