第9話 来訪

 翌朝、七時手前のこと。

 休日でもいつもと同じくらいの時刻に一度は目を覚ます、という習慣がある意味功を奏し、俺は玄関をノックする控えめな音に気づくことができた。

 誰だろうか? などとは思わず、きっと藍川だろうと察しがついた。俺はベッドから起きあがり、寝間着として使っているジャージ姿で玄関まで急ぐ。覗き穴から外の様子をうかがうと、やはり藍川が立っていた。今日は土曜日なので私服を着ている。あまり飾り気のないパーカー姿なのは、これからバイトに向かうからだろうか。

 俺の方は寝起き状態で大変だらしない姿だが、特に構うことなく玄関のドアを開けた。


「おはよ。鞄を取りに来たんだよな?」

「ぷっ」


 俺の問いに答えず、藍川は顔を逸らしてぷくくと口元を押さえて震える。


「……俺、そんなに変な格好してたかな」

「か、髪、めちゃくちゃ寝癖ついてますよっ」


 頭を触ってみる。確かに寝癖がついていて、髪がだいぶ明後日の方向に跳ねているようだった。


「あー、まぁ、今起きたからな」

「す、すみません……くふっ。こ、こんな朝、早くにっ」

「……別に笑いたければ笑っていいぞ。俺くらいのおっさんになると、寝起きを笑われるくらい何とも思わんからな」

「……そ、そんなこと、したら、詩遊が、起きちゃいますっ」

「まだ寝てるのか。まぁ、休日だしな」

「は、はひっ、あと三十分は、寝てますっ」

「……そんなに面白いかなぁ」


 藍川がちらちらこちらを見ながら笑いを堪えている。このままでは話が進まないが……。

 とりあえず、藍川の目的のものだろう鞄を取って彼女に差し出す。スーパーで買ったものも渡したいが、冷蔵庫の中だ。後で取ろう。


「一応言っておくが、鞄は開けてないぞ。そのまま玄関に置いてた」

「は、はい。ありがとう、ございます……っ」


 鞄を受け取る間も、藍川は実に愉快そうだ。


「……別に笑ってもいいけど、堪えるのが苦しいなら早く帰りな。今日もバイトだろ?」

「は、はい……。でも、その……えっと、お部屋、見せていただくこと、できませんか?」

「……は? 俺の部屋? 見るの? なんで?」


 意味がわからない。成人男性の一人暮らしの部屋に単身で乗り込もうとするなんて、警戒心が足りなすぎるだろ。


「その……作業環境、どうなのかなって思いまして……。パソコンとか……」

「ああ……そういうこと」


 俺は、イラストをデジタルで描いている。藍川もイラストを描くのなら、どういう機材を持っているかは気になるかもしれない。特に高校生だと高価な機材は手が届かないしな。


「……見る分には構わないよ。じゃあ、俺はここで玄関開けて待ってるから、勝手に入って勝手に見てくれ」

「え? なんでそんなことするんですか? 作業してるところもちょっと見てみたいんですけど……?」

「……おい、君はいったいどんな環境で育ってきたんだ? 男の一人暮らしの家に、女子高生が気楽に入っていいわけないだろ?」

「あ……」


 あ……って。どれだけ無防備なんだ。


「で、でも、青野さん、別に変なこと、しません、よね?」

「わかんねーぞ? 今はその気がなくたって、いざとなったら何するかわからない」

「……い、いざとなったら、大声を出します」

「大声を出せないようにされたらどうするんだ? 女性の腕力じゃ、男から口を押さえられでもしたら抵抗できないだろ」

「そ、そのときは、噛みます」

「……あのなぁ」

「あの、お願いします! ちらっと見たら帰りますので! 詩遊が起きる前に!」

「……はぁ。まぁいいや。ちらっとだけな」


 藍川の警戒心の薄さは心配になるけれど、俺も別に手を出すつもりはないし、ここは素直に通してやろう。さっさと用件を済ませて帰らせる方が早そうだ。

 藍川を招き入れる。玄関の鍵はかけないでおいた。

 短い廊下を抜けて生活空間に来ると、藍川は控えめながらも歓声を上げた。


「わぁ……すごいですねっ。本棚に入ってるの、全部資料ですか?」

「ああ、そっちか。まぁ、パソコンなんてどれも一緒に見えるか……」


 デスクに鎮座しているパソコンもそれなりに高価なものだが、女子的にはさほど気になるものではないだろう。それより、天井近くまである本棚に並んだ資料が気になるのも無理はない。


「まぁ、だいたいは資料だな。全く関係ないものもあるが」

「見てもいいですか?」

「……別にいいけど、藍川さんはパソコンを見に来たんじゃなかったっけ?」

「あ、はい、それは、そうですけど……。うーん、どっちも気になっちゃいます!」

「……好きな順番に見てくれていいよ。減るもんじゃない」

「ありがとうございますっ」


 藍川は本棚を先に見ると決めたらしい。上から順に背表紙のタイトルを目で追っている。また、時折気になった資料を手に取ってぱらぱらめくった。今見ているのは、世界に現実にあるファンタジーのような光景の写真集。俺も結構好きなやつで、気が合うかもな、なんて思う。

 俺はその間にパソコンの電源を入れる。作業しているところをも見たいと言っていたが、たぶん藍川自身も触りたくなるだろう。いつでも描けるように下準備だ。

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