夕闇と発信音

 インターホンを鳴らし、誰かが出てくることを信じてドアの前に立つ。すると奥から小走りでこちらへ向かうような音が聞こえる。

「はい?」

 玄関の戸を横に引いたのは紗優の母だった。

「遅くにすみません。あの、紗優さんとお話している時に紗優さんの様子が怪しかったので大丈夫かな……と。紗優さんいますか?」

「少し前に出て行ったけど……」

「どのくらい前ですか?」

「日が落ちる前にちょっと出かけるって言って出て行ったけど……もう日も暮れるよって言ったけど大丈夫って言って出て行った」

 心臓の鼓動が微かに早くなった。またあの二文字が脳裏に張り付く。

「マジか……実は今ネットの友人と少しトラブルになってるみたいで、こういう状況なんですけど」

 僕は彼女とのチャットを少し遡り、ネットの友人に関した話をしている辺りを見せる。

「ちょっと見せてもらえる?」

「わかりました」

 彼女の母にスマートフォンを手渡して、一旦息苦しくなった胸を叩く。少しして僕の手元にスマートフォンが帰ってきたとき、僕は古井に問うてみた。

「古井君、どこにいると思う?」

「その周辺徒歩二十分以内のエリアに高さが四メートルを超える断崖、飛び降りやすそうな場所、あるいはフェンスの低い崖はないか?そこにいるとすれば足がすくんで容易には飛び降りたりできないからまだ健在かもしれない」

「ここら辺は山がちだけど……わからない」

「なら川だ。橋桁が四メートル以上で、乗り越えられるくらい欄干の低い橋は?」

「橋はある。片方は僕の家の近くにある小さい橋。もう一個は一級河川にかかってる」

「流れは?」

「ゆっくり」

「そこは徒歩二十分圏内か」

「僕徒歩が分速100メートルだから参考にならないかも……」

「換算すればいいんだよ」

「……余裕で二十分圏内」

「ならそこかも」


 彼女の母親と現状を確認しながら古井に予想を手伝ってもらう。ふと考えた時、一つアテがあることを思い出した。

「……もしかしたら、ハルさんのところかも」

「そこは近いのか?」

「まぁ、たぶん」

「でも今から消えたいって言ってるような人が友達の家に行くかな」

「確かに……」


 そうこう話していると紗優の母が「電話かけてみる」と言って玄関の奥、丁度僕から死角になる場所に入って通話ボタンをタップした。何度も何度も聞いてきた木琴の音が刻々と暗くなり行く閑静な住宅街の一角で小さく響く。そして僕は彼女の母がつながらなかった時にいつでもチャットアプリで通話を開始できるようにと古井に


犬飼拓海――すまん切らせてもらう


 そう一言だけ送って一方的に通話を切った。チャットのトークを見返しながら無意識のうちに爪を噛む。今では頑張って抑えているものの、焦ればこうして出てきてしまう。だが、これでわずかに心に平穏を取り戻せているのは事実である。


「紗優!?紗優!?」

 爪を噛みながら思考を巡らせていると木琴の発信音が途絶え、彼女の母の声が聞こえてくる。土間を経ているとは言え自分がいる場所からそこまでは慣れていない位置にいることも相まって紗優の声がこちらまで届く。スピーカーから聞こえてくる彼女の声はもはや"嗚咽混じり"とも言えない程で、聞き取ることさえ困難だった。

 その直後には「どこにいるの?」と母の声。僕は本能的にその問いかけ方はまずいと思った。しかし家の中に上がられては、しかも死角にまで入られては声を掛けようにも掛けにくい。どうしようもないと勝手に思い込んで彼女の母が死角から出てくることを願ってチャットのトーク画面にだまし絵のように浮かび上がる『消えたい』と打ち込まれた吹き出しを眺めていた。ただただ彼女の無事だけを祈って。


 少ししてどうやら埒が明かないと判断したのだろうか、彼女の母が玄関先まで出てきて僕に今の事を話す。

「連絡は繋がったけど、ずっと泣いてて何も教えてくれない……」

「……なるほど、わかりました。じゃあ一回こっちからかけてみますね」

 僕はそう言って通話ボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てた。

 

 スマートフォンを抑える手が震える。

 一瞬悪いビジョンが見える。

 整ったはずの息が震える。

 心臓の鼓動が早くなる。

 身体に熱が籠る。


……どうか、繋がってくれ。


 一分、二分経つ。三分が過ぎた時、発信音が途切れた。またかと思い画面を覗いてみると、そこにあったのは『紗優』と表示された通話画面。ほんの少し音量を大きくしてマイクの先にいる彼女に呼び掛ける。


「紗優、聞こえる?」


 咄嗟に出た声。焦りから強く行くこともなく、逆に冷静にやさしく出よう思ったわけでもなかった。だがその、まるで小さな子供を諭すかのような柔らかい響きの言葉は間違いなく僕の口から放たれたものだった。


「……うん」

「よかった。少しだけ待ってね」

 今度こそ"嗚咽混じり"と言い切れるほど、僕の言葉に何とか受け答えできるようになった彼女は小さくそう返事をしてくれた。一旦マイクをミュートにして彼女の母に連絡が取れたこと、まだ少し取り乱している状態だということを端的に伝え、再び電話口にいる彼女に呼び掛ける。


「紗優、聞こえる?あのさ、今いる場所教えてくれる?嫌だったら……」

「公園にいる……」

 僕が言いきる前に彼女の方から言葉が返される。

「どこの近く?」

「小学校の……近く」

 僕の知る中では小学校の近くに公園は二つある。周りにもう一つ僕が期待しているものがあればビンゴ、違えばもう一つの場所。

「近くに高校ってある?」

「……ない」

「ありがと。じゃあ、今から行くから、そこから動かないでね」

「……うん」

 僕は彼女の言った場所をマップを使ってここ一帯の地図を広げて確認してみる。小学校に近くて高校が近くにない場所の公園。それは思いの外あっけなく見つかった。彼女の家から徒歩三分程度のところ。

 そしてそのことを彼女の母に報告し、チャットアプリのアドレスを交換して、完全に暗くなった雲一つ無い空の下、僕は走り出した。


  

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